変わり始めた日常02
結局、彼女が落ち着き眠ったのは日を跨いだ頃だった。
右手を握ってやるのにベッドの脇に並べた椅子で俺が船を漕ぎ始めた頃、ドアがノックされた。
浅い眠りから引き戻されながら、彼女の右手をそっとベッドの中に戻してやる。
ドアを開けると店の片づけを終えたルシアがそこに立っていた。
ルシアは部屋の中を覗き込みベッドの上で寝息を立てるレイスを確認すると、
着いて来いというように顎で部屋の外を指す。
綺麗にテーブルの上に椅子が並べられている食堂の1席で、暖かい茶が出された。
「さっきはありがとう、あんな忙しい時に。下着のお金も…
「そんな事はいいんだよ。一体何があったんだい」
俺は、昨日までの概ねの出来事を、順にルシアに説明した。
時折麦酒を煽りながら、ルシアはそれを黙って聞いている。
「それであんた、あの子これからどうするつもり?」
正面から目を見つめらる。
「あの子、手足だけじゃなくて体中傷だらけでさ。風呂入る時大変だったよ。
どいつもこいつもチラチラこっち見てくるもんで気分悪かったわ。今まで大変だったろうに」
そこまで言って、ジョッキに注がれた麦酒を煽り、不愉快そうにそっぽを向く。
「あぁ、俺も見た。あれは傷を付けるために付けた傷だ。戦いでつく様な類じゃない。それに…」
そこまで喋った所で、何をしているんだこいつは、とでも言いたげな顔のルシアの顔が目に入る。
「違う違う、別に脱がしたとかそういう事をしようとしたとか、そういう話じゃないんだよ」
慌てて否定する。
「あんたはそういうのじゃないと思っていたけど、まさかと思ったよ。ったく」
ルシアは安心した顔でそこまで言い、残りの麦酒を飲み干した。
「で、どうするんだい?死ぬまで面倒見るの?」
「あんた、言っちゃ悪いけど何かしたいとか、目的がとか、そういうの全然無さそうだから却って向いてるかもねぇ」
言いたい放題だ。更に続く。
「実際問題、冒険者っていうような輩はうちの宿に泊まってるようなあんたみたいに割と行儀のいいのから、本当にどうしようもないような奴までいろんな奴が居るじゃないか」
「だがね、そんなのは放っておいて全員におんなじ事がある」
「いつどこで、くたばってもおかしくないって事だよ」
大きく横に首を振りながら答えた。
「そんな事はわかってるさ。」
そんな俺を見ながら更にルシアが続ける。
「わかっちゃいないね。うん、わかっちゃいない」
「これからあんたが、どこかであっさりくたばらない保証がどこにあるんだい。」
「変に生きる喜びみたいなもんをあの子に教えて、変なところであんたがくたばってごらんよ」
「あんたが本当に損得だけで生きられるような人間じゃないのはわかってるつもりさ。それで今の状況があるのもまぁわからなくはない。だけど、結果的に却ってあの子に残酷な思いさせるかもしれないんだよ?」
返す言葉が無い。純然たる事実だ。
「だから、その前に、彼女には1人でも生きていけるような術を身につけて貰う」
「それくらいしか無いじゃないか…」
搾り出すような声を出し、うな垂れる。
酒臭い溜息を吐きながらルシアがまたそっぽを向いた。
「あぁ、言い過ぎた。あんたのやってる事が悪いって言うんじゃないんだ。
そういう事もわかった上で頑張りな。
それとね、部屋代、本当は2人分取るんだけどね、暫くは今のまんまでいいから。
食事の代金は…どうせあの子はあんたみたいには食べないだろ?半分なら払えるかい?」
「ルシアさん…」
「あぁ、もうそんな顔するんじゃないよ、あの子が不憫だからね、あんたの為じゃないよ」
照れくさそうにやはりそっぽを向くルシアに、テーブルの上に頭を擦り付けんばかりに頭を下げた。
部屋に戻り、静かに寝息を立てるレイスを確認して自分の寝床を用意する。
寝床といっても床に1枚厚手の布を広げるくらいの話で、用意すると言えるような話ではない。
欠伸をしながら横になって布に包まるが、眠い筈なのが全く寝付けない。
出来事が多すぎて整理がつかないのだ。
丁度いい。
独り言で強がりを吐きながら、立ち上がって床の布を部屋の端に追いやった。
「ふぅ…」
足を肩幅に開いて両手を折り曲げ、右足を半歩引く。
肩が少しあがり、両拳が顎の高さでやはり肩幅程度の間を開け前後に並ぶ。
戦闘時の基本の構えを取った。
そこからゆっくりと拳を突き出し、その姿勢と動作を繰り返し確認する。
「反復での練習を繰り返し行えば無意識でも動作が取れる。あらゆる動作を無意識で必要に応じ…」
大昔、祖父に格闘術を延々と教わった頃を思い出しながら狂いが出ている動作を修正していく。
修正作業を行っている間も先程のレイスの言葉が頭から離れず、所構わず喚いてやりたい衝動に駆られる。
ベッドで眠るレイスを起こさないよう、ゆっくりと描く拳の様々な軌跡は一向に定まらない。
ゆっくりとはいえ、繰り返す運動に膨れ上がった腕で半袖の下着の袖がはち切れんばかりになった頃。
俺は眠るのは諦めて横になることにした。
レイスが変わらず寝息を立てているのを確認し、再び布に包まり床に転がる。
じきに日が上るだろう。それまで体を休めよう。
そこまで割り切った頃。
更なる疲労による睡魔に悩みが敗北し、結局俺は眠っていた。
目が覚めると、昼近くだった。
高い位置にある太陽が、カーテンにくっきりと窓枠を映し出している。
「いててて……」
床の上で上半身を起こし、首を回す。
欠伸をし、ぼんやりと立ち上がろうとした所でベッドの上でこちらを見つめるレイスと目があった。
すっかり寝ぼけていた所を見られて苦笑する。
「そんなに見ないでくれよ。いつから起きてた?食事は?」
「先程ルシアさんが部屋にいらして、リューン様が起きられたら降りてくるように、と。」
未だ少し寝ぼけた頭で答える。
「そうかわかった。腹すいていないか?起こしてくれればいいのに」
「いえ、大丈夫です。お腹はすきました。でも…待っているのも嫌ではないです」
少しはにかみながらレイスが答えた。
昨日までとはうって変わった当たりに顔を覗き込むと、恥ずかしそうに顔を伏せる。
俺は昼前にしてやっと立ち上がり、ベッドの上で目を伏せた頭を少し乱暴に撫でてやる。
床に転がった、明るい所で見るとボロ切れのような俺の寝床を適当に部屋の隅に蹴飛ばした。
「こんな時間に降りていったらまたルシアさんに怒られるな。まぁ、取り敢えず食べに行こう」
「…はい。」
レイスを連れ部屋を出ると扉の脇に俺の大型のバックが壁に立てかけられていた。
そう、オルビアが会いに来ると言っていた。
思い出して気が重くなる。
荷物を部屋の中に仕舞いながら、レイスの前で長々と文句を言われ続ける自分の姿を想像して思わず顔が歪む。
「どうか、したんですか?」
訝しげに俺の顔を覗く彼女になんでもないんだ、と答えながら食堂への階段を下りた。
その後食堂で、
ルシアさんから予想通りに面倒くさそうな顔をされ、
食事を取り始めた俺達のテーブルの脇で仁王立ちするオルビアに、こちらも予想通り延々と文句を垂れ流された。
その様に、レイスが正面の席で何か言おうとしては言い出せずに口ごもる姿を見ているのが救いだった。