リューンとレイス12
…頭上で硝子の砕ける鋭い音が響いた。
俺は。いや、この場に居た全てのものが仰ぐ暗闇の空。
ばらばらに砕け散る、色とりどりに装飾された窓のガラス。
そしてその中に恐らく。間違いなく。
この世で一番良く見慣れた隻腕の少女の姿が、月明かりと部屋の中からの光で、照らし出される。
言葉が出ない。
装飾過多なスカートが落下でめくれあがるのを気にもせず、視界の邪魔になる一箇所だけを右手で押さえ込んでいる。
視線の先は間違いなく、俺だった。
着地の直前、一陣の風が吹き上がり、その落下速度を一瞬で殺す。
彼女は音も立てずに目の前に着地した。
その目に、俺が今まで見た事もない、怒りの光が灯っている。
「その人を、放してください」
度を越えた怒りか。彼女自身も制御し切れていない魔力が、彼女の立つ石畳を瞬時に凍りつかせた。
…彼女を中心に白い絨毯がゆっくりと広がっていく。
彼女に気圧された様に、俺から手を離す衛兵が後ずさりし始めた。
白い絨毯を引きずりながら、彼女が歩いてくる。
石畳に押し付けられていた重い体を起こし、石畳に膝をついて起き上がる。
体に力が入らなかった。立ち上がることが出来ずに座り込んでしまう。
彼女を、正視できなかった。
視線が石畳に落ちる。
「ごめんなレイス、全部、駄目だったんだ…」
「リューン様、どうしてこんな事…」
俺の視線と石畳の間に、ひどく破れてしまった彼女のドレスの裾が入り込み、膝を付く。
力なくうな垂れる俺の肩に彼女の右手が回され、その細い腕が俺を包み込む。
彼女の薄い胸に顔を押し付けられながら、俺は情けなく泣き出していた。
「これで戦わなくていいと、何も困らないと思っていたのに、それでも、お前が…」
言葉にならない。
情けなく何かを口走りながら涙を流す俺の頭を、彼女の右腕が一際強く抱く。
しかし
いつまでも、情けない俺と、それを抱いてくれる彼女が、放っておいてもらえる訳が無かった。
「何をしている早くこいつらを牢に叩き込め!」
鼻血まみれの顔の青年が喚く。
命令された衛兵達は、しかしレイスの姿に見覚えがあるのだろう。
一歩が出ず、遠巻きに俺たちを囲んでいる。
俺から手を離し、レイスが立ち上がる。
見上げる俺の目に映る、俺が知り得る限りの、最強の魔術士。
右目に、再び怒りが灯り、その足元が凍りつく。
彼女はその白い円を大きく広げながら振り向き、鼻血まみれの顔に向け、手を伸ばす。
氷の槍が浮かび上がり、明確な死がそこに準備された。
彼女の手の上で、もはや柱と言っていい程になった氷の矢は、今にも解き放たれようとしている。
その手の先で、自分に迫る死の危険に気付いた男が、恐怖を顔に張り付かせ、それを見詰めて立ち尽くす。
「駄目だっ」
笑う膝に力を込め、立ち上がる。
…間に合うか。
右手が彼女の肩に伸びる。
氷の塊が、動き出す瞬間だった。
わずかに軌道を逸らされた氷の塊は、立ち尽くす男を掠めるようにして、
その背後にある樹木の幹に突き刺さり、そのまま粉々に破壊した。
氷の円は、もう既に大きな池のような大きさになっている。
凄まじい冷気を地面から放ち、そこに立つ者の靴を、石畳と同じ白に染めていく。
怒りによるものか。
人に向けてその力を放ったためか。
彼女が震えている。
その右手で自らの体を抱き、歯ががたがたと震えているのが分かった。
彼女の右肩で、魔術の矛先をずらした俺の右手が彼女の肩を引き寄せ、
先程までの情けない泣き顔を隠し切れないまま、彼女を抱きしめた。
足元の氷の円は更に広がっている。
一部は宮殿の壁にまで達し、近くの窓ガラスが凍りつき、そこに雷の様な線を入れた。
凄まじい冷気が一面に漂っている。
今の氷の槍を目にした衛兵達は、白い石畳の上で、その輪を縮める事も出来ずに立ち尽くしていた。
俺の腕の中で震える彼女は。
俺が一度この手から放り出そうとした彼女は。
「リューン様、大丈夫です。私が、守りますから…」
目を閉じて必死にその魔力を制御しようとしながら、俺に言う。
それでも、彼女は全てを捨て俺を守ろうとしてくれている。
彼女の事を考えていたつもりが、彼女の気持ちなど全く考えもせず、
いつの間にか自分が勝手に満足する形でそれを終わらせようとしていた。
自分の気持ちさえも分からなかった。
いや、本当は分かっていた。しかし、自分の考えだけで、それを押し潰していた。
「世界がこんなにも変わって見えるものなのですね」
いつか、彼女が口走った言葉。
変わったのは、彼女の世界だけじゃない。
俺の世界も、鮮やかに変わっていった。
彼女と居たいのだ。その手が血にまみれていようとも。
絶対に汚してはいけないと思っていたが、それはひどく利己的な話だった。
向こうはそんな覚悟はとっくに出来ていた。少し戸惑っていた、それだけだった。
ミリアが言っていた。
彼女は大事な人形なのかと。
違う。彼女は。
俺の一番大切な。
もう、この手を離す事はない。
「レイス。愛してる。このままずっと一緒にいて欲しい…」
彼女の耳にだけ辛うじて届いた小さな声は、それで必要十分だったと思う。
恐らく後にも先にも、こんな言葉は一度しか口に出さないだろう。
震えながら目を見開き、驚いた表情で彼女が腕の中から見上げる。
情けない微笑を返す俺に、彼女が微笑み返す。
「私はいつも、そう言ってるじゃないですか…」
言いながら彼女は俺の胸に顔を埋め、自らの肩を抱いていた震える右手が俺の腰に回される。
しかし、俺が情けない決断をしていた間に数を増やした衛兵たちの輪は、とても突破できるような厚みではなくなっていた。
簡単に数えてもその人数は30人以上。
見えるだけで、十数人の衛兵が揃いの剣を抜き放ち、迫る。
やっと気付いたのに。
やっと伝えられたのに。
俺と彼女の命はあと数刻かもしれない。
回りを見回す。
もう、数歩で届くだろう。
腕の中の少女が、決意に満ちた表情で振り向き、震える手を衛兵達に向ける。
彼女の横に立ち、姿勢を下げる。
先程までの無力感は微塵も感じない。
…体が動く限り、彼女を守る。
「レイス、適当にばら撒け。残った奴は俺がやる。逃げ切るぞ」
「はい、リューン様」
どこまで行けるか分からない。
しかし、少なくともこの場は突破しよう。
2人なら、運がよければ町の外まで逃げ切れるだろう。
「おら、どけこの野郎、首にするぞっ!」
衛兵の後ろから、ついさっき聞いたような声が聞こえる。
その声がどんどん近づき、前列でこちらに剣を向けていた衛兵を押しのけ、俺達の前に割って出てきた。
「本当に、貸しだからな。こりゃ酒一杯って訳にゃいかねぇな!」
怒った顔でこちらを見るスライが荒い息を吐いて膝に手を突いている。
その後ろ、割れた衛兵の列の間から、ミリアが出てきてこちらを見て振り返る。
「ほらグラニスさん、早くしろってば!」
そこから、肩で息をするグラニスが遅れて現れた。
「ふざけるな、お前たち早く
鼻血まみれの青年が最後まで言い切る前に、傍らの老人が頬を打った。
「いい加減にしなさい。この状況を見て、あなたはいつまでそんな事を言っているのですか。
お父上にお顔向けできるとお思いか?私は断じてそうは思いません。どうか、お気づきになって下さい」
気圧され、黙り込む青年を置き去り、老人がグラニスの元へ向かう。
2人が言葉を交わす姿を、衛兵達が見詰める。
この状況に、彼らもどうすればいいのか迷っているのだ。
大きく頷くグラニスに、老人が深く頭を下げ、大きく息を吸い込むと、その体に似合わぬ大声を出した。
「散れ。いま、ここでは何も起こらなかった。他言は無用だ。
余計な事を吹いて回る物にはヴァンゼル家の名誉を掛け、鉄槌が下ると思え」
困惑した表情で、衛兵たちが立ち去る。立ち去るしかなかった。
割れた窓からこちらを覗き込む衛兵以外の者も、ヴァンゼル家に歯向かい得な事がないのはわかっているだろう。
余計な噂は立つだろうが、そんな事はもう俺達には関係が無かった。
グラニスの登場は、あまりにもあっさりと。
石畳に先程までと同じ静寂をもたらしていた。