変わり始めた日常18
パドルアに戻り、5日が過ぎた。
レイスは今までと同じように再び魔術の養成所に通い始めた。
俺はそれに付き合いながら、暇潰しに剣士の養成所に顔を出そうと考えている。
魔術師の訓練場の土の上で、レイスが目を閉じ集中している。
額に薄く汗が浮かんでいた。
その足元が、波立つ水面の波紋の様に揺らいでいる。
そこに、何かしらの力が集中しているのが、魔術に疎い俺にもわかった。
彼女の体が浮き上がりかけ、そして。
溜めた物を吐き出すような溜息と共に目を開いた。
足元の波紋のような物は一瞬で消え失せていた。
「やはり、難しいですね…」
振り向くレイスは悔しそうな笑顔を浮かべている。
「いや、いま少し浮き上がってなかったか?すごいじゃないか」
「ただ飛んでいけばいいのなら、多分そこまで難しくはないんです。
でも、あのまま続けたら、どこに行ってしまうか分かりません」
「飛ぶだけでも十分難しい事だぞ」
後ろからグラニスの念の為の説明が加えられ、
やはりそうなんだろうな、と納得しながらレイスに歩み寄る。
額に汗を浮かべ、少し疲れた様子が伺える彼女の腰に巻きつけられた命綱を解く。
続いて柱に縛られている部分を解いて、掌と肘で縄を巻き取り、近くの小奇麗なテーブルにそっと置く。
…こんなテーブル、あったか。以前の物は見当たらないがどうしたのだろうか。
「今日はこれ位にしておきなさい。なに、じきに自由に扱えるようになる」
過去の複数回の挑戦で、なかなか結果が出せない彼女にとっては
おそらく気休めにしかならないだろう言葉を聞きながら、俺たちは養成所を後にした。
…本当は、彼女が今まで一足飛びに習得してきた技術も、
今の彼女以上の練習が必要なのだろうと思う。
過去の戦場でレイス以上の使い手に出会った事はない。
俺が今、生きているのがその証拠だ。
それが果たして基準といえるのか、疑問ではあるのだが。
世界を見守る神がいる、そんな言葉を信じたくなる。
この素質は、今まで苦痛に満ちた世界を歩んできた彼女に降り注ぐ光足りえる筈だ。
それはそうと。
今、俺たちの頭上から降り注ぐ光は、少し傾いた位だ。
夕食にはまだまだ早い。
「レイス、疲れたか?どこか寄って帰ろうか?」
「リューン様さえよければ、大通りの方に寄りたいです。
この間ミリアさんの家で頂いたパンがとても美味しくて、お店の場所を聞いたんです」
「それじゃあ、まだ戻るにも早いし、覗きに行こうか」
「はい、ありがとうございます。でも、もう1回くらい練習するんでした」
「グラニスさんも言ってただろ、そのうちに自由に扱えるようになるって。
大体、そんな早足で色々覚えて、お前はどこに行ってしまうんだ。置いていかないでくれよ」
「私はどこにも行きません、いつも何処かに行ってしまうのはリューン様じゃないですか…」
返す言葉もない。
困った顔をする俺と、少し得意気な顔をするレイスが、ゆっくりとした歩みでそのパン屋を探す。
そう時間も掛からず、目的の店舗は見付かった。
何のことはない、以前オルビアと3人でレイスの服を買いに来た事がある通りの先だった。
小奇麗な店構え、店のカウンターには女性が喜びそうなパンが並ぶ。
…パンというよりは、どちらかというともっとお菓子的な物が並んでいる。
確か、ドーナツと言った。
やはり女性向けなのだろう、店に集る客の殆どが女性か、そこに付き合わされた男だ。
その中の1人の男と目が合い、疲れたような笑顔をかわす。
「リューン様、これです、この間ミリアさんの家で食べたパンです、甘過ぎなくておいしいんです…」
白く砂糖の振られたドーナツを指差して、興奮気味に主張している。
あまりミリアも説明はしなかったのだろう。レイス、それは普通、パンとは言わない。
周りに客が沢山いる所で指摘するのもどうかと思い、そうか、と相槌を打つ。
「1つ、買うか?」
「リューン様は食べないんですか?」
「あれ、砂糖だろ?俺はあまり甘い物は好きじゃない」
「…じゃあ、いいです」
レイスが視線を伏せる。
…結局、同じ物を2つ買った。
パンが、こんなに高いのか。パンではないが。
ミリアの家が裕福なのは知っているが、なかなかの贅沢品だ。
持ち帰るにもまだ早いので、大通りの中心部にある広場に座り込み、
そこで食べる事にする。
色付の石畳が整然と配置され、その位置的にも具合がよく、
そこかしこで同じように買い食いをする者が見受けられる。
「リューン様、ありがとうございます」
笑顔でそれを口に運ぶ彼女に習い、俺も手をつける。
…感想を言えば、とりあえず水が欲しい、という所だった。
レイスは1個半のそれを、口の周りを砂糖だらけにしつつ、平らげた。
「こんなにおいしいのに…」
理解できない、といった表情の彼女にハンカチを差し出し、口の周りを指差す。
少し顔を赤くしながらレイスは口の周りを拭き、返されるそれを懐に戻した。
さて、どうするか。
まだ時間はある。
広場の周りをゆっくりと見回す。
その視界の端に、少し高級そうに見える装飾品店が目に留まり。
”そうだレイスだ、何か買ってやれ。いくらか機嫌もよくなるだろ。”
グレトナの言っていた言葉を思い出す。
そしてそのまま、あの数日のせわしない毎日が脳裏に再生され、あの夜グレトナが
抱いてやればいいじゃねぇか、とあっさり言い捨てた事までを思い出す。
「簡単に言うなよ。俺達の命の先なんてわからないだろ…」
誰に言うでもなく呟き、レイスの頭の上から足の先までを、視線が流れる。
俺の視線の先を追いかけていたレイスが振り向き、訝しげな表情で俺の顔を覗きこむのを見て、
慌てて現実に意識を引きずり戻した。
「レイス、あそこ見に行くか?」
視線の先を追ったレイスが、2度、俺の視線を確認する。
「まあいいだろ。見るだけなら金もかからない」
立ち上がりそう答える俺に、どんな顔をしていいか分からない、とでも言いたげな彼女が立ち上がる。
店の中には小奇麗に色々な種類の装飾品が並べられている。
ネックレス、指輪、髪飾り。
その全てが、以前彼女に買い与えた髪留めの数倍から数十倍の価格だ。
緊張しているらしく、レイスがやたらと近い位置から離れない。
「レイス、何か欲しい物あるか?前みたいな安物じゃないぞ?」
「ええっ、いえ、本当に私は大丈夫です…」
困ったような表情をするレイスに、幾つかのネックレスや髪留め、髪飾りを指差してみせる。
…指輪以外を。
何となく、指輪というのは、そういう場合に買う物だと俺は考えている。
そして今は、そういう場合、ではないと思う。
相変わらず困ったような表情のレイスが、店員が立つカウンターの近くの棚を見ていた。
視線を察した女の店員が、その視線の先の一部が納まる箱を持って彼女の方へ歩み寄り、うち一つを取り出す。
そういう場合でないのに、指輪だった。
細い幅。そこに埋め込まれた小さな青い宝石。曇り一つない銀。
そっと、彼女がそれを手に取る。
悲しそうにそれを見詰め、我に返ったようにそれを慌てて店員に返した。
店員が口説き落としに掛かる。
「お客様、繊細なデザインがとてもお似合いかと。失礼ですが、お客様はどういった関係の…」
最後まで聞く必要もなく。何と答えるべきか。
家族。娘。妹。恋人。友人。
迷う表情を察した店員が、最後まで言い切って話が止まる前に、売り文句を変える。
「…といった関係に、という拘りはこの所意識する必要もなく、こういった細身の形状であれば、
装飾品としていつどのような場面でも使っていただけます、どうです?一度お指の方に…」
その後も変幻自在の話の展開に、いつの間にかレイスはそれを試しに着けて期待する様にこちらを振り向いてみたり、
まぁいい、という俺の諦めのような感情は、それを止める要素とはならず。
まして、指輪だけは駄目だ、などという理屈を展開する雰囲気でもない。
結局、レイスの望む台詞とは違うだろうが、
その値段なら大丈夫。という言葉と一緒にそれを買い上げる。
「リューン様、ありがとうございます。
あの…本当、どうしたんですか」
再び元の石畳の上に座り込む俺達。
レイスは自分の右手を見詰めていた。
その小さな青い宝石に、彼女の複雑な表情が映る。
「この間話した奴に、レイスの事を話したんだ。戻ったら何か買ってやれって」
「…そうですか」
簡潔な事実を告げられ、彼女は大きく息を吐いた。
残念なんだろうが、その中にはどことなく、少しの安堵を感じる。
「レイス?」
「私、いつまででも待ちます」
意図する所を理解できない訳もなく。
少し寂しそうに微笑む彼女に、ぎこちなく笑ってみせる。
「グレトナ、なんて言うか、俺は…」
いつまでも何の結論も出せない自分を、なじる言葉が口を突く。
すっかり、光は傾いていた。
それでも帰り道にはその手を空に向け、嬉しそうに微笑み、
そして、俺に手を伸ばす彼女に救われる。
俺を本当の意味で生かしているのは彼女なのかもしれない。
自分の事だけが、一番分からない。