変わり始めた日常16
商隊は順調に進み、予定通りパドルアに到着した。
他の護衛たちとは違い、パドルアの東門に到着した時点で俺の仕事は終了だ。
依頼主が俺に報酬を手渡すのを見詰める、妬ましい視線を無視しながら受け取り、その金額に驚く。
「グレトナからこれ全部渡せって言われている。気にする事はない。あいつは金持ってるからな」
という台詞にひとしきりの礼の伝言を頼み、俺は商隊と分かれた。
自然と足が速くなる。
見慣れた通りを歩き、見慣れた寝床に到着した。
この程度の期間、護衛の仕事などでここを離れる事は、過去に幾らでもあった。
しかし、今はそのどれよりも懐かしく感じる。
その扉をくぐり、昼下がりの食堂を見渡す。
…ルシアはいないようだ。
階段を登り、部屋に戻る。
開け放った扉の向こうには、誰も居なかった。
養成所だろうか。
部屋を見渡し、自分の荷物を下ろす。
少し自分の身なりを見直すが、正直そんな事はどうでもいい。
俺は、部屋を後にした。
さんざ歩いた養成所への道を早足で歩く。
魔術師の養成所まで、殆ど何も考えられない内に着いてしまった。
その建物の脇から訓練場を見渡す。
そこでは、初級の魔術を練習している数人と、見慣れない講師が何かを行っている。
中に入る。
受付には誰も居ない。
そのまま進み、座学を行う部屋を覗くが、ここにも誰も居ない。
無用心だが、今はそんな事はどうでもいい。
俺は早足で養成所を後にする。
宿に戻り、再び部屋を覗くが、やはり戻っていないようだ。
先程俺が置いた鞄がそのままになっている。
…そうだ、オルビア。
オルビアは何か知っているのではないか。
俺は、駆け足に近い早歩きで、オルビアの家に向かう。
あいつは、多分、何か、しているはずだ。
そうだ、レイスも1人では寂しいだろう。
オルビアの家にでも泊り込んでいるのではないか。
希望的な妄想が広がり、それが楽観過ぎると自分でもわかる。
…嫌な予感に支配されていた。
1人で住むには少し広すぎる家。
扉をノックする音がむなしく響く。
留守だろうか。
ドアノブを握ると、扉は何の抵抗も無く開いた。
「オルビア、居るか?入るぞ?」
家の中がひどく散らかっている。
「おい、オルビア。居ないのか?」
また違った心配をしながら、足音を自然に消している自分に気付く。
玄関がある部屋。
右手側の扉を音を立てないように開く。
そこに、オルビアは居た。テーブルの上に突っ伏している。
テーブルの上、いや、足元にも、酒瓶が転がっている。
その数は…数える意味が感じられない程度の本数。
まさか、これを全部飲んだのか?
「おい、オルビア、何やってんだ」
その肩を掴み、揺すりながら声をかける。
揺すられてふらふらと揺れる顔。
その目がゆっくりと開き、ぼんやりと俺の顔を見ている。
「おい、これ全部飲んだのか?」
少し焦って聞く俺の声を聞いたオルビアの目が、突然、見開かれた。
「おい…、お前…」
「大丈夫か?どうしたんだ、何か
最後まで言う前に、オルビアの両手が、俺の顔を両側から挟むように掴んでいた。
オルビアは目を見開いて、俺の顔を見詰めたままだ。
その迫力に気圧され、手を振り解く事も出来ず、固まっている俺。
そのまま数秒が過ぎ、思い出したようにオルビアの口が開く。
「何で…」
「なんだよ?俺が聞きたい」
「何で生きている」
「オルビア、とりあえず、この手を離せ」
言いながら半ば無理矢理その手を離させる。
「経緯は、じき、話す。知らなかったのか?手紙は?」
「手紙だと?知るか。昨晩か、一昨日か。もうどうでもいい」
「…レイスは今どこに?」
オルビアの一度離した手が、俺の腰の辺りを掴んだ。
「…なぜあんな事をした?」
「なんだ?」
「お前は、あれで満足か?自分は勝手にくたばって、それで満足か?」
その瞳に、怒りが燃えている。
「…オルビア、あの時はあれしかなかった。判るだろ?
お前を置いて逃げるなんて事はしない。今までもそうだっただろう?」
「お前はそうやって」
下を向くオルビア。
…大分、酒が回っている。
いつから飲んでいるのか俺にはわからないが、尋常な量ではない。
彼女は、酒は強い。
以前、仕事の合間に飲みに連れて行かれた事がある。
俺は全くと言って差し支えない程度にしか飲まないので、ほぼ護衛としてだが。
その折、そのバーに居たどの客よりも、強かった。
…帰りは背負って帰る羽目になったが。
腰の辺りを掴んだその腕を引き剥がし、しゃがみこんで顔を見上げる。
オルビアが、眉間に皺を寄せている。
「おい、本当に
俺が最後まで言い切る前に、オルビアの口から。恐らく数本分の酒のみで構成された…。
部屋にその独特の臭いが充満し、俺はここからこのまま出られなくなる程度の被害を受けた。
「…冗談だろ」
立ち上がり呆然とする、嘔吐物まみれの俺。
その嘔吐物の中に倒れこむオルビア。
仕方なく、ひどく汚れてしまった上着を椅子にかけた。
オルビアの脇を持ち、再び椅子に座らせる。
「おい、オルビア、起きろ、そのまま寝るのは流石にどうかと思うぞ」
両肩を揺すってみるも、全く反応が無い。
仕方なく、着替えを探す。
俺は、彼女の家に何度も来た事がある。
…彼女は仲間、友達、場合によっては家族。
なんというか、恋人だとかそういう存在足りえない。
これは双方の共通認識だ。
長い付き合いの親友。腐れ縁。
なんと表現して良いのか、判らないが。
そういった関係ではないし、これからも無いだろう。
悪態をつきながら彼女の寝室の引き出しを開ける。
下着の類が目に入り、慌てて次の段を探す。
なんというか、外行きの、きつそうな服しか見つからない。
別にそれでも構わないとは思う。着せる事が出来るならば。
結局、俺は諦めた。
寝室のベッドの毛布をめくり、先程の部屋に戻る。
「おい、オルビア、脱がすぞ」
「水…買って…くれ…」
「判った、とりあえずこれ脱げ、臭いぞ」
「うしろ、ひも…」
単語で話すオルビアに従い、背中の紐を解く。
すっかり芯が抜けた体を揺すり、黒い細身のワンピースの肩を落とす。
…普通ならば心躍る状況かもしれない。
しかし、この長い付き合いと、双方の関係、そしてこの臭い。
「おい、立てるか?下に脱がすぞ?」
「あぁ…」
相変わらず眉間に皺を寄せながら、なんとか肩口に掴まるオルビアの服を、腰から下に引き落とす。
床でべちゃりという、どうしようもない音が鳴る。
そのまま抱き上げたオルビアをベッドに放り込み、先程めくりあげていた毛布を掛ける。
「おい、水買ってくるから、吐くならベッドの外にしろよ?」
その辺りにあった適当な器を、一応ベッドの脇に置く。
俺は水差しを手に、仕方なく家から出た。
明らかな奇異の視線を感じながらもすぐ近くの店で水を買い、適当なグラスを手に寝室に戻る。
オルビアは、再び吐いたようだ
ベッドの脇にその残骸…何も食べては居ないのだろう、何とも言えない色の液体が広がっている。
「おい、水買ってきたぞ」
オルビアが右手だけを上げて返事をする。
そのまま上がっている右手にグラスを手渡し、苦しそうにそれを飲み干すオルビアを待つ。
「はぁ…頭痛ぇ…」
悪態を聞きながら突き返されるグラスを受け取った。
「オルビア、それじゃ、俺はもう行くぞ?大丈夫か?」
「あぁ…」
相変わらず眉間に皺を寄せ、言葉を話せず手だけを振るオルビア。
予想外に時間を食った。その上、レイスの居場所は判らない。
再び焦り始めた俺は、嘔吐物まみれの上着を手に取る。
オルビアの服は…放っておこう。
一度、宿に戻って着替え、レイスを探す。
ルシアが居れば、行き先を聞く。
俺が行動を決め、再び玄関に向かう先から、ひどく懐かしく感じる声が聞こえた。
「あれ、開いてます」
「えぇ、大丈夫なのかよ?」
「居なかったらまた明日…
扉を開くレイスが、俺の目の前に居た。
その後ろにミリアが口を開けて立っている。
三人が、その場で固まっていた。
レイスとミリアが口を開く前に先手を打つ。
黙ってテーブルの部屋を指差した。
2人の視線がそちらに泳ぐ。
「ミリア、水買って来い。バケツがそこにある」
「え、ちょ、先生、これどういう状況?」
「俺が聞きたい位だ。レイス、そっち片付けるぞ」
「え、リューン様、なんで
「後で話す。来い」
喋る前に歩き出す。
仕方ないという雰囲気で後ろに続くレイスに、端的に話す。
「さっき戻った。見付からなかったから探しに来たらこの有様だ」
「私達もオルビアさんに用があって…
床に落ちているオルビアの服と少し開いた寝室の先で半裸で横たわるオルビアを見て、レイスが固まっている。
「リューン様、やっぱり、先に話して下さい」
立ち止まり、じっとこちらを見詰めるレイス。
俺は溜息を付き、彼女に向き直った。
「…手紙は届いたか?」
「読みました。リューン様。私、すごく心配していました」
「すまない…」
「リューン様、1人でも、逃げて下さいって私、言いましたよね?それに何なんですか今のこの状況は?」
「レイス、あの時は仕方なかった。それは分かってくれないか?」
「あの日、オルビアさんが来て、リューン様は…」
目が潤んでいる。
明らかに気持ちが高ぶっているのが見て取れる。
そして、今の状況が分からない事が、それに拍車をかけているのだろう。
俺にもよくわからない始末だ。今ここへやってきた彼女が理解出来る訳がないだろう。
「リューン様、聞いているんですか?」
「……。」
「私が、どれだけ…」
その右手が俺の腹の辺りを掴む。かなり力が入っていた。
俯き、肩を震わせる。
「すまない。俺は…
その時。
寝室から、この世の終わりのような声が響き渡った。
戻ってきたミリアが、寝室の扉を見詰めて固まっている。
再び大きな溜息が出た。
「レイス、駄目だ、あれ先に何とかしないと…」
当のレイスも、涙目のまま、そちらを見つめている。
レイスの頭に一度手をやり、寝室に向かう。
扉を開けるとそこには、上半身を起こして口を押さえるオルビアが居た。
状況は伝わっている筈だが、背中に刺さるような視線を感じる。
気のせいだといいのだが。
「せめてその中に吐けよ…」
右手を上げて返事をするオルビアの視線が俺の背後を動き、更に眉間に皺がよる。
「…ミリア、頼んでもいいか?」
「ええっ?」
明らかに嫌そうな顔をする彼女に器を渡す。
…双方が眉間に皺を寄せ、器を構える者と口を押さえる者。
それをレイスが小さく笑い、振り返るミリアがレイスに抗議の視線を送る。
オルビアはというと、恐らく自分の事で必死なのだろう、ミリアが持つ器の1点を見詰めていた。
一体なんだこの状況は。
落ち着いたオルビアが再び横になると、
疲れた様子のミリアがその器を床に置き、こちらを振り返る。
「先生さぁ。本当に、何がどうなっているのかわからないんだけど」
その表情には若干の怒りが入っている。
丁度テーブルと椅子がある。
もう、とりあえずここでもいいだろう。
「順を追って話す。俺の家じゃないが、まぁ座れ」
全く状況が分からない上に完全に話の腰を折られたレイスと、やはり何がどうなっているのか分からないミリア。
双方の不満げな視線を浴びながらテーブルを囲む。
途中、何度かオルビアの声で中座しながら、俺はあの日からの事をゆっくりと話す。
オルビアの輸送隊を逃がす為、時間稼ぎで敵の騎士を足止めしようとした事。
その男、グレトナに敗れ、捕虜になったこと。
結局開放され、半ば仲間として共に戦ったこと。
そして、ここに戻ってきたこと。
レイスを探していたが、結局見付からずここへ来たこと。
2人は静かに相槌を打ちながら、俺の話を最後まで聞いてくれた。
話は長く、すっかり夜になってしまった。
2人のグラスに、水差しから先程買ってきた水を注ぐ。
「なんていうかさ。1回、殴りたかったんだけど…なぁ?」
2人が穏やかでない話をしている。
「勘弁してやってくれ、こいつのお陰で私は生きている」
オルビアがいつの間に寝室から出てきていた。
流石に服は着たようだ。
「オルビアさん…」
レイスは困った顔をし、ミリアは再び眉間に皺を寄せ、視線を逸らす。
そこで、熱のこもった演説を期待するも、
オルビアは再び口に手を当て、寝室に戻っていった。
「あぁ、もういいよ。先生さ、明日養成所来る?」
嫌な予感しかしないが、レイスのどことなく嬉しそうな、悪戯するような視線を感じ、俺は返事をする。
「明日は特に用はないから、来いと言われれば行く。それでいいか?」
…レイスとミリアが顔を見合わせている。
ミリアは何も顔に出していないが、レイスは明らかに笑顔を隠している。
嫌な予感は、きっと当たるのだろうが。
「…帰るか」
感慨深い帰還を心のどこかで願っていた俺は、それをすっかり諦めて立ち上がった。
それを見てレイスが立ち上がり、ミリアもやれやれといった表情で立ち上がる。
「それじゃ先生、明日の午後、待ってるからな?レイス、またね」
「あぁ分かった。明日な」
隣で笑顔で手を振るレイスに視線を落とす。
「ミリアとは?」
「オルビアさんからお話を聞く時に、グラニスさんと一緒に来てくれてました…」
その時の事を聞きながら、人通りのまばらな道をゆっくり歩く。
「…本当に心配したんですよ?」
「ごめんな…」
幾度目からのやり取りを繰り返し、俺は再び寝床に辿り着いた。
階段を上り、3番目の部屋の扉を開けた。
「リューン様、私、明日は養成所お休みなんです」
「そうか。ミリアの件はどうする。一緒に来るか?」
「…そうします」
含み笑いをするレイスの頭に手を乗せくしゃくしゃとする。
レイスが、その手を掴もうとする、その手を握り返す。
「レイス、ただいま」
「…はい。おかえりなさい」
少し懐かしく感じる床で横になる。
いつも通りに。
俺は、帰ってきた。