遠い空09
場所を移し、パドルアの魔術師の養成所。
レイスが飛翔の魔法の訓練をしている。
その腰には長い縄が巻きつけられ、もう一端が養成所の建屋の柱にきつく縛り付けられている。
リューンが出発した翌日から練習を始めたが、
その場でひっくり返りそうになったり、周りにあるものを吹き飛ばすなど、
さんざ失敗していた。
リューンが出発して3日目。
以前、凍りつく様を見せつけ、リューンとグラニスを驚嘆させたテーブルが、
訓練場の塀の外まで吹き飛び、ばらばらになった。
今日はリューンが出発してから9日目。
午前中、心得や考え方などを確認した上での、再度の試みだった。
…恐らく、ただ飛び上がるだけならば一昨日には成功していただろう。
しかし、飛び上がり、その後どうするのか。
制御の出来ない力は、彼女を着地など出来ない高さまで飛び上がらせ、そのまま命を奪うだろう。
腰に巻いた綱は、必要以上に飛び上がらない為の、命綱だった。
とはいえ、試みを始めてから一度もこの縄の世話になった事はない。
比較的用心深い性格と、懸命に理論を理解しようとする姿勢。
その二つが、彼女の失敗を踏み止まらせていた。
額に汗を浮かべ、目を閉じて、集中する。
今日3度目の試みであった。
足元で風がざわめき、砂埃が舞う。
暫くの集中を経て、レイスは。
大きく息を吐き、その目を開いた。
少し息があがり、その額には髪が張り付いている。
足元でざわめいていた空気はその成りを潜め、何も無かったの様だ。
「レイスよ、今日はそれくらいにしておけ。集中力はそう持続できるものではないだろう」
「…はい。少し焦りすぎました」
焦る理由が、グラニスにはよく分かっていた。
久々に長期で出掛けたリューン。彼が帰った折に、自分の努力の成果を見せたい。
これだけ出来れば、きっと自分も何かの役に立てる筈。
その上で、自分も今後リューンの仕事に同行したい、という話をしたい。
彼女は数日前、ひどく遠まわしに、そういった事をグラニスに話していた。
その時には何も言わなかったが、リューンは、首を縦に振らないだろう。
それがある種理解できるグラニスとしては、自分の口からは何と伝えるか。
悩ましい所であった。
レイスの上がった息が落ち着く頃。
彼女はそんな事を知る由も無いが、リューンもまた、荒い息を吐いていた。
マルト聖王国の西端の要塞都市キンロス。
数日前、グレトナの部隊は前線から撤収した。入れ替わりに防衛に長けた部隊が現地に残っている。
非常時に備え、現地に近いこの地で過ごすグレトナの部隊では、この所、異様に兵の錬度が上昇している。
駐留軍用に用意された広い訓練場。
そこで連日、いつ終わるとも言えない訓練が繰り広げられていた。
…その中心で、リューンとグレトナが、訓練用の剣を激しくぶつけ合っている。
「おいおい遊んでるのかぁ?」
「…うるさい」
俺は必死に剣を振るうが、グレトナの剣は、そのほぼ全てを無為な物へと変えてしまう。
時折、これは、という切り込みもあるにはあるのだが。
結局はグレトナの体に全うに剣を当てられる事などなかった。
「そろそろ行くぜ?」
俺が正面に構えた剣は、打ち込まれた剣をなんとかいなすのに精一杯だ。
攻撃に転ずる事も無くその数秒後、俺は立つ事も出来なくなっていた。
右肩と左の脇腹がひどく痛む。
「おいおい大丈夫かぁ?」
「覚えてろよ…」
地面に這いつくばっている俺を、笑いながら覗き込むその男に、痛みを堪えながら返事を返す。
午前中は素手での格闘訓練を行い、午後には剣術の訓練を行う。
この数日は、ひたすらこれの繰り返しだ。
時折ロシェルが覗きに来ては、阿呆を見るような顔で溜息をついている。
最初の数日はそこまでの熱気でもなかったのだが、
午前、午後ともその最後に、俺とグレトナが直接打ち合う。
2人とも相手を殺そうとは思っていないが、その動き自体は本気のそれだ。
面白がって野次を飛ばすもの。
真剣な目で、そこから何かを学ぼうとする者。
ひたすら心配そうな顔をする者。これは特定の人間だが。
…見ている者にも熱気は伝わり、結果それが伝染している。
かく言う俺も、その熱気に毒されている。
毎日ひたすら修練を行う。
1人ではない。グレトナ、そして部隊の皆が一緒だ。
全体の中という一体感。感情の共有。
気分が悪い筈がない。
「リューンさん、今日は惜しい所あったんじゃないですか?」
よろよろと立ち上がる俺に、少年兵のビュートが話しかける。
「いや、無いな。やっと目が慣れてきたが、体が全然追いつかない」
「前に本当に切り合っていた時は、もっといい勝負に見えたんですが。
あ、いや、別に馬鹿にしている訳じゃないんです」
「あの時はお互い手の内が分からなかったからな。あまり突っ込めないさ。
今は違う。剣術なら剣術、素手なら素手。手の内なんて無いから…実力差は歴然だろ」
情けない声を出す俺に笑いながら、ビュートが訓練用の剣を受け取っていった。
もうじき日が暮れる。今日はここまでだ。
戦場ではない街に居るとは言え、食事は簡素だ。
味気ないが栄養のある食事を終え、夜間はみな思い思いに時間を潰す。
先程の痛みも多少はマシになった。
訓練場の片隅の樹木に両手でぶら下がり、ひたすら体を上下する。
体が上がらなくなると、地面で出来うる限りの高さまで跳躍を繰り返す。
こんなにただ単純に鍛えるような毎日は、子供の頃振りだ。
突然の襲撃に怯える必要も無い。
疲れきるまで、体を動かす事が出来る。
ここ数日で、今までに無く体が軽く感じるようになっていた。
いつも受けている護衛の任務や、それに伴う長距離の移動。
それらは、今行っている訓練とは、方向性がまるで違う。
ただ戦う為だけの訓練。
パドルアの養成所でも剣術の訓練などは行っていたが、
相手にする人間の格も、その熱気も、違いすぎる。
戦う、という単純な行為に対する能力。
これだけがひどく研ぎ澄まされていた。
昨日からこの無言の時間にビュートが加わった。
少しでも強くなりたい、との事で、別に止める理由も無く、好きにさせている。
「お前にはこれからまだ幾らでも時間があるし、もう少し遊んでいい年頃だろ」
という俺に、ビュートは
「リューンさんやグレトナさんのようになるのに、時間が余るとは思えません。
それだけの腕が身についてから遊びます」
という、最早言い返す事が何もない完璧な説明で黙らされた。
先に限界になり休憩していたビュートの前で、荒い息を吐く。
荒い息が収まり、姿勢を正す俺に、ビュートが立ち上がった。
「大丈夫だ。来い」
「…お願いします」
自分で満足行く分だけの修練を終えた後、彼の訓練に付き合っている。
此方からは手を出さないで、好きに打たせているのをひたすら捌く。
「お前は体重が無い。腕力が無い。経験が無い。悪いが事実だ。
だが、人間には急所がある。目をつけ。鳩尾を打て。股間を蹴り上げろ。
腕力はある程度カバーできる。魔物は…逃げろ」
昨日の俺の言葉どおりに立ち回るビュート。
そうは教えたものの、捌き損なうとひどい目にあう俺も必死だ。
突き出される手を足を容赦なく払って体勢を崩して見せ、
実戦では反撃を受ける、という事を教え込む。
ビュートの向こうに、訓練場の端を歩くグレトナ、その後をついて歩くロシェルが見えた。
彼らは、どうなるのだろうか。
恐らくあと数日で、この地を立ち去る自分は知り得ないであろう未来を考える。
その俺の股間を、ビュートの前蹴りが蹴り上げた。
「ええぇっ!?」
無言でうずくまる俺と、どうしていいか分からないビュートの焦った謝罪の声が、
誰もいない訓練場に響く。
…以前も余所見をしていてひどい目にあったような気がする。
「本当に大丈夫ですか?」
「…見せるぞ?」
「えええぇ…」
凄まじく歪んだ顔を見せるビュートの前で立ち上がり、手を振ってみせる。
「今日はもうやめよう。良くない事が起きそうな気がする」
「痛いんですね…すみません」
「本当に大丈夫だから…」
どうしようもないやり取りで、今日の練習は終了となった。
「ありがとうございました」
頭を下げるビュートに、別に構わない、と言いながら訓練場を出る。
兵達は、皆質素な宿舎に寝泊りしている。
壁は薄く、ベッドも簡単な2段式の物だ。
浴場も設置されてはいるが、数人が水をかぶる程度。
地面で眠らなくていいだけありがたいが、部屋数も兵数に対して十分ではない。
…俺の部屋はこのビュートと相部屋だ。
ビュートによると。
居る期間が短いことも分かっている上、当初捕虜扱いされていた折の世話係だった。
客人扱いはするが、部屋数に余裕は無い。普通に兵の中に混ぜるのも気が引ける。
引き続き面倒を見ておけ、とグレトナに言われたとの事だった。
「良かったな、俺が出て行ったら1人部屋だぞ?」
という俺に対し、
「それまでにどこまで学べるでしょうか?」
という質問が戻り、先程の俺がうずくまる原因となった助言をしたのだ。
皆寝静まり静かな廊下を抜けて部屋に戻り、体を拭く布を取り出す。
「水かぶってくる。お前は?」
「…僕は今日はいいです。明日にでも」
「そうか、汗拭いておけよ。風邪引くぞ」
「はい。お疲れ様でした」
「ああ。また明日」
部屋を出て、浴場に向かい、頭から水を被る。
…扉に記載された、浴場と言う名前はおかしい。
ただの水場が正解だろう、などと下らない事を考えながら部屋に戻ると、
ビュートは上段の寝台で、既に眠っていた。
ベッドと言うのもおこがましい様な寝台に横になり、自分も眠りにつく。
この床と変わらないような寝台とも、じきにお別れだ。少しさびしい気もするが。
そんな事を考えている内に意識が遠のき、ふと、物音で意識が戻る。
浴場から戻ったのであろうビュートが部屋に入ってきた所だった。
別にこの時間から話す事も別に無い。
寝ぼけてぼんやりと眺め、再び目を瞑ろうとした時。
薄手のシャツで戻った彼の、いや彼女の。
小さく膨らんだ胸が目に入り、逆に慌てて目を閉じた。
騎士の父が戦で死んだ、と話していた事を思い出す。
家を存続させるには、余程裕福でない限り、騎士階級の後継が必要になる。
彼女は…必死なのだ。全て納得がいった。
そして。
とりあえず、本当に見せなくて良かった事。
そして明日、グレトナを追及する事。
その二つを考え、まずは眠る事にした。