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リュベル・クロンシュタット――今はリークなどという出自も意味もいい加減な名を名乗っている――は、姿勢を軽く下げたフライベルグの視線がこちらに向かないことを無意識に祈りながら、この場にあっては少し心許ない刀身を引き抜く。
その光景は、あと大きく二十歩弱ほど先のだろうか。刀身の重さを感じながら、さんざ説明を受けていた拘束の魔術の発現を目の当たりにしていた。
姿勢を下げたフライベルグはそこから跳躍することはなかった。だらりと下げた両手は何かとてつもない重量のものを掴んでいるように、膝のあたりでその重量とせめぎ合っている。
戦うことなど論外、などと聞いていた。確かにその両腕を即座に振り上げることなど出来ようもなく見えるが。
確認のために再び泳がせる視線。か細い魔術師は歯を食いしばりその指先を震わせている。しかしその手前、ある種の懸念通りの光景――弓使いの右手が矢筒に伸びる姿に、即座に数歩の距離を詰める。
相手も予想の範疇ではあったらしい。その黒目がこちらに一度泳ぐのを見ながら軽く反りかえった先端を左肩に寄せると、苦々しげな表情で弦を滑らせていた矢尻を止めた。
「どういうつもりだ? 拘束のうえで神官の奇跡を待つ、だ。聞いていなかったのか?」
「堅物が。仲間殺しの居場所はねえぞ? どんだけの義理だ?」
「左腕を切り落とす。嫌なら弓を下ろせ」
「ちっ。あれで済まねぇ場合に備えてるだけだろうが」
「……その済まねぇ場合、を決めるのはお前や私じゃあないだろう」
悪態とは相反して素直に下ろされる弓から視線を外し、再び化け物へと視線を戻す。
未だ拮抗を続け震える両手は脛の辺りにまで下がっており、絵面だけなら特大の根野菜でも引き抜こうかという姿勢にも見える。勿論そんな平和な状況ではないのは、当の化け物の禍々しい形相通りだった。もしもあの両手が解放されれば、目論見は違えど弓使いの行動が正しかったことを悔いながら命を落とすことになる。
リュベルは、今度こそ自分の判断が間違っていないことを祈りながら。
額に汗の珠を浮き上がらせながらゆっくりと歩み出した小柄な魔術師の背後――化け物の連れである金髪の魔術師が、その手に火球を浮かべる姿――で一度止めた視線を静かに逸らした。
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レイスは彼に向けた言葉通りの「てのひら」が張り裂けそうな感覚に歯を食いしばりながら一歩ずつ歩みを進めていた。
距離に従って拘束力は強くなり、紋同士が張り付いた後には魔術的な集中は要らない。
本音を言えばその抵抗は想定以上だったものの、既に距離を詰めることにそこまでの恐れもなかった。狂っていたとしても彼は彼であり、彼が居なければ自らが居る意味などない。それはある意味では他人の迷惑も顧みない開き直りともいえるのかもしれないが。
焦点の合っていない怒りの視線を見据えながら歩みを続ける。
それは彼の頬にあと数歩で触れられるかというような距離に至った頃だった。
右手を下ろしながらゆっくりと振り向く。
「もう大丈夫です。……ライネさん、お願いできますでしょうか」
背中で彼の低い唸り声を聞きながら、右手に黄色く光る火球を浮かべたスライさんの鋭い視線を見返す。一息の間もなくライネさんが一言二言小さく彼に囁き、小走りにこちらへと駆けてきた。
「レイスさん。スライを怒らないでください。彼も――」
「あの人が正しいことくらい、私にだってわかります」
「……良かった」
ほっとしたような微笑みの隣に並び、彼のもとへと歩み寄る。
以前オルビアさんが大笑いした彼の姿は、ここにあっては苦笑さえ浮かべられないものだった。土の上に座り込み、しかしその両手足は今もその拘束を振り切らんと筋肉が膨れ上がっている。
本当に自分が近くにいる限りは拘束が自然に途切れることがないのであれば、いつか力尽きることもあるのだろうか。
すぐ隣で紡がれる神への祈りの言葉で我に返る。
健やかなる魂。平静。……神の皆のもとに。聞き取れる端切れの祈りの言葉の幾つかを聞きながら、愛しい化け物に微笑みかける。方向さえ定まらない怒りを隠しもしていないその表情は、すぐ隣で刻まれる言葉とは対極のものだろう。
精神の平静を取り戻す奇跡は、およそ自分が知り得る知識ではそこまで高位の奇跡ではない筈だった。予想に沿わない長い詠唱は段々と力強くなり、それはやがて力のこもった声と共に締めくくられる。
「――彼の者に祝福を」
突き出された両手の先。明らかに木々の隙間からのものではない、朝日のような光がリューンを包む。
思わずその眩さに目を背け――大きく一呼吸ほどの間にその光は掻き消えていた。
「精神支配や洗脳、かつては邪神の魅了さえ振り解いたと云われる奇跡です」
「……ライネさん」
「私の見る限り。これは平静を取り戻すとか、落ち着かせるとか、そういった範疇を大きく逸脱しています。呪いや精神支配に近く、しかも深く同化しているように思えます。呪いの本質は都度違うのが普通ですが、もしそれを知っていたとしても――」
「ライネさん!」
軽く息が上がったままで綴られた説明は、少なくとも私にとって何ら意味のあるものではなかった。
目の前の彼は。とりあえずこれ外してくれるか、などと言いながら苦笑して見せたりなどしていない。相も変わらず低い唸り声をあげているだけだった。
「……。」
「もう一度お願いします」
「しかしこれでは……」
「おいライネ! どうなんだ!?」
彼女が浮かべた感情はスライさんにも伝わっているらしい。何しろ彼女の奇跡を経てなお状況は少しも変わってなどいない。
高位の奇跡だとライネは口にしていた。しかしその効果では解決できなかった。
それでは何ができる。何をすれば彼は正気に戻る。例えば抱擁で。接吻で。……ここはお伽噺の一場面ではない。少なくとも自分にできることがないのはわかっていた。身代わりになる事さえできはしないのだ。
それでは何をすれば。いまできることは――
「レイスちゃん。あいつだってこんなのは嫌だろうが仕方ねぇだろ。俺だってこんなこたぁ――」
「黙っていてください!」
思わず、世界を終わらせようとする勝手な声へと抗議の声を上げていた。
意図せず伸ばした右手の回り、そこに浮かぶ細長い4本の氷の槍は形状が不揃いになっている。
「少し聞いていただいてもいいですか?」
先程より少し息の整ったライネの言葉。それは今まで聞いた彼女のどの言葉よりも力強く落ち着いたものだった。
「……。」
「結論から言えば、諦めるべきだと思います」
何をばかなことを。同意するとでも思っているのだろうか。氷の槍の一本でも打ち出して、自分がなりふり構わないことを見せるつけるべきだろうか。
そもそも、彼を救わない神にどれだけの価値があるものか。恐怖と嫌悪、そして諦めの対象でしかなかった自分の世界を塗り替えた彼の終わりがこんなものな筈などないのだ。
「私は――」
「レイスさん。誇るつもりはありませんが、先ほどの奇跡は極めて強力なものです。福音の浅い方には行使できません。その必要がない場面で使用されるべきものではないからです。逆に。これを繰り返せば、およそ呪いなどと評されるものは全て光に焼き尽くされるでしょう」
「……。」
「強力な呪いには幾度かの奇跡が必要であったと聞きます。繰り返せばどのような呪いでも魅了でも神の奇跡はそれを打ち砕き、欠片さえ残さない。……呪いに飲み込まれた精神も」
「それは……完全に飲み込まれていたらということですよね? 彼は状況を判断して戦って――」
「僭越かもしれませんが。あなたの心が少しでも健やかであるために私見を述べました」
「健やか!? 私は彼があってこその――」
「レイスさん、聞いてください! あくまで私見ではありますが、いま現実にフライベルグさんを見た限りでは、何も残らない可能性の方が高いと思っています。そして残らなかった場合の話です」
「……。」
「まず彼自身。精神が死んだ人間、廃人として生き永らえることなど彼は望まないでしょう。――ですが私が言いたいのは、あなたや彼の回りの方たちについてのことです。彼がただ命を続けるだけになった場合、どうなるか……あなたは理解していますか?」
「それは……」
「誰かがその終わりを務めざるを得ないでしょう。ただ餓死させるのであれば別ですが」
既に右手はその感覚さえ失い地を指していた。
どうして。呪いを受けたから。
どうして。戦いを続けたから。
どうして。いつか、未来を望んでしまったから。
少し遠間からの再度の声。それが何を言っているのかも理解できなかった。
顔を上げた先、ライネは静かに結論を待っている。自分にそれを決断する権利はないとばかりに。
……どうして、こんなことになったのか。
違う。
もしも自分と彼が逆の立場だとして。彼ならば恐らく。否。少し悩んで、でも間違いなくその後にははっきりとした口調でこう答えるだろう。
「駄目なら俺がその終わりを務める。だが、僅かでも可能性があるのならやってほしい」
「ライネさん。お願いします」
「……わかりました。あなたの勇気に答えます」
縋りつきたくなるほど優しい声。
再び始まる神への祈り。ひと際力強いその言葉と共に聞こえる低い唸り声。それを塗り潰す眩い光。
額に大きな汗粒を張り付け、大きく肩で息をするライネが確認するようにこちらを見る。それに呼応するように響くのは、恐らくは腕の関節の何れかが外れる鈍い音。
変わらず自分を見つめるライネの視線に、迷いなく首を縦に振った。




