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あの殺戮を目の当たりにし、張り詰めた移動の中で碌に睡眠もとっていない。
このまま今日も夜を迎えるのは不本意だった。それはこの場にいる誰しもに共通していることであり、しかし皆その足は重い。
何時になく静まり返った木々の中の張り詰めた空気は、軽口が行き交う事さえ許さなかった。
そんな状況の最中、更なる異変に気付いたのは2番手を歩く弓使いだった。
何かを感じ取ったような気配とほぼ同時に、右手を小さく上げながら姿勢を下げる。皆がそれに倣い姿勢を下げる中で再び一人立ち上がり、右前方の木々の間をじっと見つめ……即座にしゃがみ込み、全員の視線には唇に人差し指を当てて答える。
既に全員が異常には気付いていた。おそらくはそう遠くない距離から響く足音。しかしそれは――
「猪か何かじゃないのか?」
弓使いのすぐ前で振り返っていたヴァルダイが久々の苦笑交じりに小さく囁く。伝播する小さな微笑み。それに続き立ち上がろうとした若い神官を、その中で一人真顔だった弓使いが慌てて制止した。その必死の形相に再び緊張が走る。
直後。響いていた足音が止んだ。
実際には一瞬に近い程度の静寂がひどく長く感じられた。そしてそれを破るのは、蹂躙される獣の悲鳴と、先ほどの足音とは比較にならない重い音。
それは例えるのなら。大型の猪の足を掴み、力任せに振り回すそれを地面に叩きつけるような。およそ人間の膂力を大きく凌駕したそれを誇示するような。
哀れな獣の悲鳴はその幾度目かで途切れ、その後に続くのは執拗に丹念にそれを地面に叩きつける音。
恐らくはその姿さえも破壊されだんだんと小さくなるその音を聞きながら、先頭のヴァルダイは皆に見せつけるように一度大きく深呼吸をする。
それにつられるよう、全員の表情に覚悟じみたものが入り込むのを確認した剣士は、ゆっくりと立ち上がった。
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スライは、雰囲気に流されて軽く笑みを浮かべたことを心底後悔していた。
楽観から突き落とされるほど絶望感が増すことはない。心の中で悪態をつきながら、意を決したように立ち上がった先頭の剣士の背中を眺める。その肩越しに見える茂みの奥。小さな人影が自らと大差ないほどの大きさの何かをひたすら地面に叩きつけている。
未だ遠間と言っていい程度の距離を保ちつつも、その光景が異様なことはこの場の誰にでも理解できた。
結局のところ何ができるわけでもないこの距離で、しかし恐らくは一人を除いた全員が足を踏み出すことを躊躇している。
今この瞬間に地に伏せて息を潜めれば、あれをやり過ごせるかもしれない、戦いを回避できるかもしれない、などと考えているのだろう。……自分でさえ一瞬そう考えた。
希望を言えばもう少し距離を詰めたかった。彼女の拘束の魔術の影響範囲まで気付かれずに詰められれば最高だっただろう。しかしこの異様な静寂の中、茂みの中をこの人数がぞろぞろと動いて気付かれない訳がない。それに経験則でいえば相手も間合いを詰めてくるのは間違いない。……であれば全員の準備が整っている方がいいだろう。
おそらく思惑が同じであろう先頭の剣士が振り返る。その口が開く前に小さく言葉を吐き出す。悪いが可能な限り目を離さないでほしいところだ。
「レイスちゃん。できるだけ距離を詰めるから……いいな?」
自分も視線は外さず。視界の端、恐らくは今まで見た事がないような表情をしているであろう少女の首が縦に振られるのを確認し、一歩目を踏み出す。
それは、予想外ではあるが幸運にもその手に握られた肉塊を叩きつけるのに夢中だった。研ぎ澄まされた感覚の中にひどく響くのは自分たちが草木を踏み折る音。その一歩ごとに胸の中身が飛び出しそうになる感覚を覚えながら足を動かし続ける。
若干散開し、できる限り樹木であれとの視線を遮りながらその距離を詰めていく。この先でこそ必要な必死という感情が当てはまるような、いっそのこと大声をあげながら駆け出したい衝動に駆られながら。
背を向けていたそれを軽く取り囲むように詰める距離は、全力で駆け出せばもうすぐのところまで近づきつつある。それは逆に、もしもあれが振り向いて駆け出せば即座に何人かの命を刈り取れるほどの距離でもあった。
要である少女の方へと視線を向ける。しかしその右腕は何時も魔術を行使する際の様に突き出されてはいない。聞いていた限りではそろそろの筈だった。
心の中で悪態をつきそうになった瞬間。すっかり血抜きされ最早ずた袋程度の大きさになった肉塊が動きを止めた。
再び訪れる静寂。そして、それがゆっくりとこちらに振り返る。
どす黒く血の跡で汚れた……今までに見た事もない怒りを湛えた表情とぎらついた視線。それを振り回すさまに体が強張る感覚を必死に意識の外へと押し出しつつ、祈るような気持ちで小柄な魔術師に視線を向ける。
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レイスは自分自身が想像していたよりも冷静でいることに内心で少し驚いていた。
いつも自分を包んでいた優しい雰囲気など微塵も感じない、しかし姿だけは同じリューンから視線を逸らしもせずに右手を突き出す。
……唇が刻むのはただひとつの単語であった。
その言葉が指し示す部位や言葉自体に魔術的な意味などなく。しかしそれは、自分がそれを発現させるための最後の確認であり、自分に向けられた愛情を感じる部分であり、恐らくは彼のそれが触れたことのない場所など自分にはなく、彼のために力を振るう為の自らの矛先であり、ここで事を終えそれをそっと重ね合わせ待ちくたびれているであろうミリアの元へと戻るための。……そうに決まっている。そうでなければならない。
指の合間に臨む彼の姿。そこに刻まれた4点の紋と自分の芯が繋がる感覚に、その唇は誰の耳にも届かない溜息のように、てのひら、と小さく呟いた。




