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化け物。
それはほんの数刻前までリューンフライベルグなどと呼ばれていた。
何れにせよ、彼は、その生き物は。街道から少し外れた森の中をぼんやりと歩いていた。
木々の隙間から漏れる光に目を細める。
果たして自分はどこに向かって歩いているのだろうか。そもそも、その自分というものさえ定かではない――さしてそこには興味も感じないが、しかしただひたすらに憂鬱な感情に埋め尽くされているのは理解している。何しろ、先ほどから気が付けば低い唸り声をあげている始末で、それに気付くたびに猶更憂鬱になるのだ。
精一杯の憂鬱を吐き出す溜息と俯いた視線の先、つま先が歩みを止めた。
それは、別に行くあてのない歩みに嫌気がさしたからでも、まして疲れたなどという理由ではない。右手の茂みの先から、およそ生きているものが発したのであろう物音が聞こえたからだった。
今までの憂鬱は一息の間もなく淘汰され、その一瞬で心を満たしたのは喜びだった。生ける全てのものへ対しての怒り。憎しみ。破壊衝動。あらゆる全ての負の感情を吐き出す相手を見つけた。それは少なくとも内面では、まごうことなき歓喜であった。
既に抑えきれない怒りの表情を浮かべながらリューンが走り出す。肉食獣か何かの様に洗練された仕草など欠片もなく、その足はただひたすら力任せに地を蹴った。
「……あぁ」
樹木の根元で潰れている肉塊を見下ろしながら、再びの憂鬱な気分に溜息を吐いていた。
恐らくは4足で歩行する獣か何か。それを判別するのは赤黒い塊の中に混じる茶色い毛程度のものであったが、しかしそれの生前の姿になど既に興味はなかった。
もうこいつは生きていない。
右手に握られた恐らくはそれの一部――先ほど力任せに振り回し木の幹に叩きつけた際に千切れた――をひと口かじって投げ捨てる。飲み下した血肉のひどい臭いにも何ら感慨を感じるわけもなく。
それはただ憂鬱に支配されながら、再び木々の間を歩き始めた。
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無言で進む集団。
先頭を歩く長剣の剣士――名をヴァルダイといった――は足を一度止めた。今朝の出発からして決して歩みが軽い訳ではなかったが、その原因は他にある。遠間に恐らくはかなり悲惨な状態の死体を見つけたからだ。
手だけで合図を送り、比較的に付き合いの長い弓使いを連れて先行する。
おそらくは力任せに叩き潰されたのであろう旅人は、道の真ん中で無残な姿をただひたすらに晒しており、そこからは誰彼に対し隠す意図など全く感じられない。
あたりを見渡しながらその傍らにしゃがみ込み、これを見つけた際からの沈黙を静かに破る。
「いや。これは少し時間が経っている」
「……。」
「あれ……いや、彼じゃあないだろうな」
返るのは沈黙に近い相槌。
若干安堵じみたものが混じるそれから耳を背け、周辺の状況に再度気を配る。正直なところこれ以外にも気になることはあった。見渡す限りが静かすぎる。これだけの樹木、死角がある状況で、沈黙していれば耳に入るの風に揺さぶられる枝のたてる音程度などというのは明らかにおかしい。
再びあたりを見渡しながらゆっくりと立ち上がるが、そこに張り付けられた緊張に矢張り言葉は返らない。
そう遠くはない距離に彼がいるのは間違いない。それは全員が五感を総動員させるに十分な理由だった。
少し離れた残りの面子に合図を送る。
小さく響くクラストの神官――若い女だが高位の神官だという――の短い祈りに続く言葉もなく、再び沈黙を纏いながら一団は進み始める。
やがて訪れた日暮れは歓迎し難いものだった。
延々と歩き続けた街道は背の高い木々に囲まれており目線が通らない。月は出ているものの、木々の隙間まで照らしてくれるほどの加護はなく、しかし火を焚くのも考え物だ。先に発見されて乗り込まれれば犠牲は甚大だろう。あれに先手なぞ打たれれば全滅だって普通にあり得る。
そうならない為の手立てである小柄な魔術師の女。彼女に倒れられてはそれこそ収取がつかない。
休みに入らせる順序に一瞬迷ったものの相手の出方などまるで想定できない状況であり、であればなるべく休ませるべき、という結論に至った。大まかに聞いている経緯からもあるが、その顔に浮かべた憔悴じみたものがこの中で一番濃く見えるのも事実だった。
一瞬考えるような素振りをしつつも素直に横になったその姿から視線を外すが、その近くで習うようにリークが横になり始めていた。……おそらく、皆が寝静まったころに何か話したいことでもあるのだろう。こちらを伺うような一瞬の表情に軽く目を伏せて答え、残る人員の休憩の順序を決めていく。
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暫くの義務的な睡眠の後。レイスはふと木々の隙間に見える星空を眺めていた。
以前彼に、自分もそう詳しい訳ではないがという前置き付きで星座をいくつか教わったことを思い出す。その一つでさえ忘れないと思っていたが、懐かしく思う程度に時間の開いた記憶は、その全てにみっちりと埃を積もらせていたらしい。
唯一思い出したのは、三つ首の大蛇を退治した勇者を表すという6つの星の並び。しかしそこに伝わる勇者の物語の最期は、その力を疎む王による謀殺だったという。
「このまま帰れたとして……」
楽観すべきではないものの。共に帰り着いたとして、彼の制御さえ覚束ない力がその英雄の様に利用され疎まれ……彼やミリア、自分が望むような平穏など得られないかもしれない。そんな先のことを心配すること自体、今の状況を楽観視していると言われれば返す言葉もないが。しかし、先のことでも考えなければ絶え間ない不安感でどうにかなってしまいそうな気持ちもあった。
その結果は更に不安が増しただけだったが。
「希望は捨てるべきではないと思う」
「……?」
「いや。独り言だったんだろうな。余計なことだった」
「あ、いえ。えぇと……」
かつて黒い甲冑を身に纏いリュベルと名乗っていた女騎士――いまはリークと名乗っているらしい――の相槌は、無意識に口に出していたらしい言葉に対してのものだった。
「あなたは――」
再びの問いかけじみた言葉の一歩を、やはり大きくかぶりを振って止められる。
「以前、頼まれた仕事は何とか終えられた。勧められた護衛はあまり性に合わなかったが、まぁ、なんとかやっている」
「……はい」
聞きたかったのは過去などではない。彼女の身なりや今ここに至るまでの経緯を見れば、それを大まかに推測するのは容易い。彼の助言通り国に戻り、出自を隠し、冒険者となった。もしも彼がここにいれば、礼でもない明瞭な恨み言でもない何かと共に、今までの経緯などを静かに話し合ったかもしれない。しかし今聞きたいのは。
「うまく言葉にはできないが……なるべく協力はしたいと思っている」
「……。」
「自分の主義と合致した結果だ、諸々は気にしないで欲しい。だがあれの足止め、増して倒せなどというのは私の手には余る、というのが率直な感想だ」
経験則として手に負えなかった、というのが正しい表現ではあったが。
彼との関係を含め経緯を知っている人間以外には全容を把握できないよう気遣われた言葉。この中に聞き耳を立てている者がいても、以前世話になったことがある程度にしか聞こえない内容。それさえも断片的であり、しかしそれは自分にとって十分なものだった。
彼と戦う人間など求めているわけではない。求めているのは彼のために戦ってくれる人間だ。
盗み聞きをしてしまった罪悪感に軽く下唇を噛みながら頷いて見せる。
「……拘束については実際に試したことがあります。その時には、完全に身動きを封じることができました。彼自身もこれでは動きようがない、戦うなんていうのは論外だと」
「あなたの仲間の神官だが、私たちの仲間よりも相当に高位だと聞いた。その拘束のうえ、彼女に期待というのは妥当な流れだろうな」
「そうですね。ただヴァルダさんも言っていましたが、先にあちらを見つけないと危険であることは否めません。私も彼の姿が見えない状態……いえ、ある程度は近寄らないと魔術を行使することができません」
「最悪でも初手に耐えれば何とかなる。そう考えれば勝算は高い。……あと、ヴァルダイ、だ。覚えてやってくれ」
「あ、すみません。その……」
「予定通りに進まなかった場合の事を考えておくべきだろうが、あなたがうまくやれなかった場合は逃げるしかない。考える意味はないんだろうな」
「それは大丈夫だと思っています。ただ私は――」
「あぁいや。私が言っておきたかったのはその次だ。あの神官がうまくやれなかった場合も、また違った意味でどうにもならない」
「……。」
「結論に口を挟むつもりはないんだ。なるべくあなたやあの魔術師の望むように立ち回る気でいる。だが仕事の上のとはいえ……仲間を失うのは耐えがたい。あなたが最初に諦めて、あれとただ戦う羽目になるのは勘弁してくれ」
「……はい」
その言葉は、借りを返すという行為の一部だったのかもしれない。
しかし。私は結局、その時にはどうすべきなのか言葉にすることはできなかった。
本日中ないし夜半過ぎまでにもう1話更新します。




