03
頭上の太陽は半ば頂点に差し掛かろうとしている。
昼前のもはや爽やかさを微塵も残さない空気と、目の前で先程からちょこまかと良く動く小娘。その肩越し、見慣れたベンチの上で遂に舟をこぎ始めたミリアの姿に、小娘の方へ手を広げて見せる。
「悪い、少し休憩だ」
「あんたさ。そんな余裕そうな顔で休憩も何もないでしょうが」
アルメが浮かべた不満げな表情を横目に、もはや完全に居眠りをしているミリアの元へと向かう。足音に目を覚ました彼女が慌てて取り繕うように浮かべた真顔に、軽く噴き出してしまった。
「えぇと。先生、今のは甘かったね」
「寝てたくせに甘いも何もあるか」
「だよねぇ。最近眠くてしょうがないんだよ……」
「今日は切り上げる。少し横になった方がいい」
「ごめん、でもまだ大丈夫だよ?」
「無理するなって。当面、いい勝負にもならなそうだしな」
確認するよう振り向いた先のアルメが、わざとらしくしかめ面をして見せていた。
「ごめんね。我儘言っちゃって」
ベッドの上、既に薄目になっているミリアがこちらを見上げている。ゆっくりと首を横に振って見せ、柔らかい髪に幾度か指を通している間に……部屋には静かに寝息が響いていた。
あれから数日と開けずに小娘が家を訪れ、そのたびにミリアを日向ぼっこに付き合わせていた。そのこと自体は悪いことではないらしく、家の中でだらだらとしているよりは余程良いらしい。その理由についてはどうかと思っているが。
「いや、我儘は俺の方だよな」
「……別に口に出すほどではありませんよ?」
ぼやきながら部屋を出たところで、ちょうど寝起きのレイスと顔を合わせた。
「そうだといいんだけれどな。いま起きたのか?」
「すみません。グラニスさんから借りてきた本に、興味深い事が書いてあって……」
説明しながら欠伸をする彼女の髪に、ゆっくりと手を伸ばす。軽く目を閉じて素直にそうされながら、レイスは再度の欠伸と一緒に言葉を続ける。
「ミリア、大丈夫ですか?」
「いま眠ったところだ。よく眠くなるらしいから素直に――」
「リューン様、それは当然大事なことなのですけれど、そっちじゃなくて、です」
「お前もそんなこと言うのか」
「違いますよぉ……」
先日アルメが早朝に訪れた折。やはり昼前まで眠っていたレイスに、ミリアがあれとの関係について冗談半分の文句を言ったところ、レイスは吹き出しながら「あの人は絶対にないと思うから大丈夫」などと述べていた。
「そういえば。ミデルさんは一緒に来ないんですか?」
「あいつは養成所に行っているらしい。基礎からやり直すとかなんとか」
「あの人の場合は剣士としての戦い方を覚えるのがいいのか、難しいですよねぇ」
「基礎の補強、ってところだろ。今までどうしていたのか気になるけれど」
何の気ない話を続けながら足は広間に至る。
テーブルの上を拭いていたエステラからじきの昼食を告げられ、礼を言いながら椅子に座り込んだ。
「構え方とか、結構さまになっていたように見えましたけど。ふあぁ……」
「大丈夫か? そんなにしていたらお前が先におかしくなる。本当に無理しないでくれよ」
「無理はしていないですよ。でも本を読んで考え込んでっていうのは、夜中の方が集中できるんですよね」
「そりゃあそうかもしれないけれど……」
再びの欠伸で右目に涙を浮かべているレイスは、この所いつもグラニスの家に出掛けるか、自室で本を読んでいる。その内容については――言うまでもないだろう。
「以前スライさんも言っていましたが、クラストは精神支配に関わる魔術の研究はもう行われていないんです。それをグラニスさんに相談したら、王都にある昔の書物を集めて頂けて――」
「そりゃあ……礼だけじゃあとても済まないな」
「何か得るものがあれば報告して貰えれば十分で、成果がなくとも既に不要なものだから構わない、だそうです。そうは言っても、とは思いましたが」
「そうだよなぁ。……ところでその得るもの、はあったのか?」
「まだ他の文献と整合性をとらないといけませんが――」
レイスから少し遠慮がちに語られる概要。
以前聞いたことと大差はないが、やはりあのとき俺がかけられた狂化の魔術は、少なくとも今ある文献からすれば特殊なものであること、そして術者の手を完全に離れ久しい今、なお効果を残す魔術は……対象を未来永劫、その呪いの対象とし続けること。
「あまり自覚はないけれどな。怒られるのも承知の上で正直に言うと、ここぞという時に無茶が効くという点では有難いとさえ思った。こうならなければ俺かお前が死んでいた、という場面があったのは否定できない」
「……それはそうかもしれません。でもこれもスライさんが言っていた通り、いつか元に戻らなくなる時が来るかもしれません。ある日突然、誰彼構わず襲い掛かることになるかもしれません。魔術の正体さえ明確じゃあ無いし、今まで元通りになっていたのが奇跡だった可能性もあります」
「そういった意味では、結果ここへ戻ってこられた事まで含めて奇跡だったのかもしれない――あぁ、いや、頭ではわかっているんだ。確かに、あんなのはおかしい」
レイスは軽く頷いて見せながら説明を続ける。
「それで。今の魔術がわからないので、別の方法を考えました」
「別の方法?」
「うまくいくかはわかりませんが発想は単純です。正常でいて下さい、という別の精神支配をかけるという乱暴な方法です」
「それは……正気を取り戻させる魔術、とかそういったものか?」
興奮状態に陥った者を正気に戻す、という魔術はいつか聞いた事があった。神官であるライネもそういった類の心得はあるのではないだろうか。しかし当時聞いたところによれば、結局のところ対象を取り押さえた上で行使する魔術であり、そういった意味では使い道がない、という所までが一連の記憶だった。
狂乱状態に陥った俺を取り押さえ、正気に戻す。……その間に相当の死人が出るだろう。
「結果は近いですが、少し違いますね。私が言っているのは……」
「?」
「あぁすみません、なんでもないです。いずれにせよ今は確実な方法がないんです。クラストには精神支配の魔術を広く扱えるような人が正式にはいないようで、私が習得する努力をした方が早いかもしれません」
「正式? それにお前がって……」
「居るかもわからない術者を探し出すのにそのくらいの時間を要するかもしれない、というお話ですね」
「結局お前に苦労をかけている。……楽な生活を送らせてやれるはずだった。」
その言葉に軽く見開かれた右目が、ゆっくりと目尻を下げた。
「何を言ってるんです。私は十分に幸せですよ? それに、あなたがおかしくなってしまったら全て台無しじゃないですか」
「最悪、俺一人狂って何処かに行くなら仕方ない。引き換えになるのがお前たちならば、俺は喜んでそっちを選ぶ」
「どっちも駄目です。大丈夫、何とかなりますよ。今までだってそうでした。少し状況が違っていたら私もミリアもここにはいなかったかもしれない。けれど上手くいった。だから――」
テーブルの上。俺の左手にそっと添えられる彼女の右手。
「……。」
「今は子供の名前を考えてください」
「……なんでそこに飛ぶ?」
「大事な事だと思いますけど。ミリアにもそろそろ怒られますよ?」
「考えてない訳じゃあないが、なかなか思いつかないんだよ」
くすくすという笑い声と共に、左手をそっと撫でる彼女の小さな傷だらけの掌。それを捕まえようとする俺の右手から逃げるよう、レイスは立ち上がった。
「飲み物をもらってきます。」
「……ああ」
すたすたと部屋を出ていくその姿を見ながら、小さくため息をついた。あれは、何か言いづらい事を考え込んでいる風だ。
いつか隣国を目指したころ。今は廃墟になっているのであろう北の都市を目指したころ。相当に考え込んでいたその考えを口に出してくれたのは、相当の時間が経っての事だった。今回、それを口にしてくれるのはどれだけ先の事だろうか。そして……今回も、俺の事で悩ませている。
しかし、今はあの時のように何か大きく舵を取る先がある訳ではない。それに現況を考える限り、少なくとも俺よりも彼女の判断に従った方がうまくいくだろう。
しかし、何でも鵜呑みに聞くから、というのは却って重荷にでもなるのだろうか。それならば――
「あー、ごしゅじーん?」
緊張感のない声にいったん考えを放り出して振り向くと、アンナが扉から顔を出していた。
「なんだ? あぁ、レイスが飲み物を取りに行かなかったか?」
「ちょうどお湯使い切ってたんで待って貰ってるんすけど、何すげぇおっかない顔してるんすか」
「おっかねぇ、って。俺だって考え事くらいある」
「そんな事よりご主人、お客っすよ」
そんな事などと扱われる俺の考えについては兎も角。また厄介事ではないかという懸念に、つい独り言が漏れる。
「当分はおとなしく――」
しかし。この先を口にして、そのあと本当に大人しくしていられた試しがない事を思い出し、慌てて言葉の続きを飲み込んだ。




