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02

肩を大きく上下させる目の前の女。

確かこいつの名前はアルメと言ったが――それが誰であれ、今やるべき事は変わらない。強いて言えば適当な手加減をする必要がある点は忘れず、その足元に注視しながら軽く姿勢を下げる。


「言った通り、続かないだろ」

「うるさい。次こそ決めるから問題ないっての」

「やれるもんならな」

「このっ」

一歩を踏み出してくる空気。それに合わせ、右腕を軽く弓引きしながらこちらも深い一歩を踏み出す。

相手にとっては意外な動き、しかしそれに合わせるよう軽く後ろに跳躍しながら振り出される右足。足止めを狙ったのであろう、しなるように繰り出されたその先端――恐らくは姿勢を下げた俺の首元を目がけていたその先端は伸びきることなく。

下げた姿勢からの肩口での単純な体当たり。それをもろに受けた小娘は、体重差をそのまま表すよう数歩分先でひっくり返ると、大きく息を吐き出した。


「いっつつ。くっそ」

「今の距離なら組み付くか肘だったな」

「卑怯者。今までただ眺めていたくせに」

「卑怯も何も。そもそもだな――」

土の上、恨めしそうにこちらを見上げる姿を眺めながら、自分の経験則が教える限りの良くない点をだらだらと述べる。


そう、そもそも。何故こいつが家の庭で転がっているかという点。

昨日のやり取りからすればそう疑問に感じる点などないのだが、本音を言えば本当に翌日に来るとは思っていなかった。

少し時間は巻き戻る。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



柔らかいベッドに差し込む薄暗い朝日。すぐ隣で静かに寝息を立てるミリア。その頬に軽く触れ、ずれた毛布を軽く直す。

もう一度ベッドの中を覗き込み、彼女が目覚める気配がないことを確認した俺は、静かに部屋を出た。


大きく息を吸い込む。まだ少しひんやりとした空気が体の中を駆け巡る感覚。そしてそれを吐き出すと日課――丸太への一方的な暴行――に取り掛かったところで、後ろからの珍しく控えめな声に手を止めた。


「はー。そんな木偶相手に戦ってるんじゃさぁ」

巡らせた視線の先に居たのはその口調からすれば想定通りの相手だった。生意気な小娘、白目を剥いていた奴、ある意味での同業者。そういった形容詞が付く小娘が腰に手を当て、わざとらしく欠伸をして見せている。


「木偶相手でも何もしないより余程いいだろ。それに反復練習っていうのは……というか。本当に来たのかよ」

「勝ち逃げされたままだと気分悪いし」

「……そうか。まぁ、なんだ。顔なしでやるか?」

「冗談」

ゆったり十歩ほどの距離。そこで小娘は軽く手をまわして見せると、静かに姿勢を下げる。


別に嫌な話ではなかった。防具も既視感のある小手も身に着けていないこいつは完全に素手だ。別に殺し合いでもなんでもなく、先日ここを立ち去った英雄様と殴り合っていた延長、癖も体躯も違う相手が見つかった程度の話である。武器無しでの実戦にも慣れている筈のこいつは、(グレトナ)とはまた違った緊張感が必要なのかもしれないが。

何れにせよ特に起点もなく始まったこの場に、随分と遠い間合いからこちらを伺うその姿を細かく観察しながら、姿勢を下げるでもなく敢えて不躾に間合いを詰めていく。


それは5歩目に差し掛かった所だった。

何かに弾かれる様にこちらに飛び出すアルメ。姿勢は低く、驚異的な速度だった。その速度に内心では少し舌を巻きつつも、それを吹き飛ばすよう、腰高より低い程度で思いきり右脚を振り出す。その瞬間。小娘は俺の肩辺りまで跳躍し、おまけに既に背中を向けていた。

回転で速度を増して突き出される踵を見て、胸の息を吐き出しながら仰け反る。その軌道は、一瞬前まで俺の顔があった筈の空間を射抜き、素早く引き戻される。


大した身体能力だ。それに、恐らく一切手加減などしていない。あんな物をもろに食らえば、この早朝から神官を当たって回る羽目になる。緊張感が必要、どころの騒ぎではないかもしれない。

だがどうも今日は調子がいいらしい。そんな予想外の動きにも目が追いつく。しっかりとこちらを見据えて音もなく着地した小娘を見ながら一歩下がり、今更ながら改めて構えをとる。




「……顔は無しって言わなかったか?」

「ち。仕留めたと思った」

「手加減、要らないな」

「私は手加減してやる」

そんな軽口を言いながらも、再び一気に詰められる間合い。


目の前で突然変わるその突進の軌道そして、そこから体を捩るように繰り出される左脚。それを軽く上げた右脛が受け止めたものの、瞬時に切り替わった右脚が俺の胸元を掠める。

やり過ごし今度は間合いを詰めようと踏み出したものの、即座に先程と同じ数歩ほどの距離に逃げられてしまった。再びの小さな舌打ちを聞きながら、改めて構えなおす。


「これじゃあいつまでも決着がつかないだろ。見世物か何かか?」

「は? 次で決めるから」

「なんて言うか、もう大丈夫そうだ」

「……ち。」

舌打ちと共に詰められる間合い。


やはりすんでの所で掠めるつま先。踵。脛。肘。何れも当たれば相当な痛手を負いそうなそれを続けて数度ほど受け流しきり、再び同じ間合いに戻る。


「もう朝食になる。何なら食ってくか?」

「逃げてばっかりな癖に」

「お前の距離は遠すぎる。俺は獲物も持っていない。人数も俺一人だ。この場合、やり口を変えるべきだろ」

「くっそ」

大きく上下している肩が止まり、再びの突進を受け流す。構える事もやめて棒立ちに戻った俺は、軽く息を吐き出した。


「正味な所、俺が武器持っていた方がやり良いだろ。それも、なるべく大きい獲物」

「何なのよ」

「最初は少し戸惑ったが。多分もう大丈夫だが、あと3回待ってやる」

「ふざけてんの? ずっと逃げるばっかりな癖に」


「確かにそうだけどな」

「実戦だったらもう取ってる」

「それはどうだか。何れにせよ、この後何回でもってほど息が続かないだろ。こういう時はどうすべきだ?」

「……絶対に泣かす」

「そうだな。全力を見せてみろ。後が無いぞ」

「言われなくても!」


少し大きくなった不満げな声を聞きながら……更に3合を躱し切り、完全に息の上がった小娘を眺めていた。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「別に動きが大きいこと自体はそこまで問題じゃあない」

「じゃあ何だってのよ?」

「それが普通になり過ぎてる事がまずいんだろ。武器を持った相手、その圏外から一気に距離を詰めて、体重の乗った打撃で始末して次の相手に移る。小規模な戦闘だとか、そういう場ならいいと思う。距離の詰め方は俺も見習いたいくらいだ。蹴りばかりなのは少しでも距離を稼ぎたいから結果的にそうなった、って所か」

「……。」


「そこへ来て。今回は相手が一人だ。こっちが素手での戦闘に慣れていて距離が近い。しかも完全にお前だけを見ている。戦い方を変えるべきだった。……呼吸、収まったか?」

「もう大丈夫だっつの。くっそ。そんな簡単に言うけどさ、あんたの方が重いし背も高い。手の届く範囲で普通にやりあって、私が勝つと思う?」

「普通は体重が重い方が強い。分が悪いな」

「あんた、なんか言ってること矛盾してない?」


呆れた、とでも言いたげな顔で大の字になったアルメが大きくため息を吐く。

防具などは身に着けておらず、動きやすいのであろう薄手のシャツと膝丈のパンツは、汗で少し体に張り付いている。

どうでもいいことだが。未だ少し荒い呼吸で上下する胸は……レイスよりも更に薄く見える。そこで、いつも対になっている青年を思い出しつつ、こちらもその場で座り込んだ。


「そういえば。ミデルはどうした?」

「本当に行ったら迷惑だから駄目だよ? とか昨日の夜言ってたから、起こさないで出てきた」

「ひどいな」

「あー、くっそ。勝てると思ったんだけどなぁ」


「大体。素手なんていう同条件で体格で劣る相手とやり合うなんて、ひたすら不利だ。なんか小さめの木刀でも持ってくるんだったな」

「そんな物持ってないし」

「俺が知るかよ……」

「あーむかつく」

投げやりな回答にこちらも適当な答えを返しつつ。


「で。どうだ?って話だ」

「あいつ、同じ部屋で寝てんのに一回も手出さないって信じられる?」

「自分から行けばいいだろ」

「あんたねぇ」

少し顔を赤くして起き上がるアルメ。こいつも一丁前に照れたりするらしい。


「タイミングを見計らえ。さっきみたいな要領だ。様子を見ておいて一気にだな」

「そんな事できる訳ないでしょうが。何言ってるんですか朝から」

更に赤くなり変な言葉遣いになっているこいつの胸が、例えばミリアのせめて半分ほどでも豊かであれば状況は違ったのだろうか。虫も殺さなそうに見えるミデルも年頃の男だ。そういった欲求を一切感じない訳などない筈だが。




「あー。ごーしゅじーん?」

そこに掛かる、力の抜けた声で振り返った。


「どうした? 珍しいな、こんな朝早くから」

「感心しないっすね。何やってんすか」

「何って、練習だろ。この調子なら負けそうもな――」

「あーいやいや。そういうんじゃねっす。しらねっすよ?」

「知らないって。何がだよ」

呆れ顔で薪をぷらぷらさせて見せるアンナが、目だけで右上の方を指す。その先を追う俺の視線が2階の窓にたどり着くと、不機嫌そうな顔のミリアがこちらを見下ろしているのが見えた。一瞬目が合い……俺が軽く手を挙げて見せる間もなく、彼女は部屋の中へと消える。


「なんか楽しそうな声が聞こえてきたんで見に来たんすよ」

「いや別に楽しいって訳でも……」

「それは主観の問題っすね」

まぁ。確かにあまり感心されないかもしれない事かもしれない。同業者というだけで、こいつがどこそこの誰だ何だなどとは説明している訳でもない。


「なんかご主人、生き生きしてるじゃないっすか。ミリアさんにはレイスさんと一緒に話すといいっすよ」

「……。」

「いったい何の話してんの?」

「ああいや。とりあえず、帰れ」

「あんたが来りゃいいって言ったんじゃん……」

言葉通り、何の話だとでも言いたげに立ち上がる小娘に向き直った時の俺は、恐らく形容しがたい表情を浮かべていただろう。




目の前の皿には焼かれた卵とベーコンが載っている。隣の皿にはまだ熱を持ったパン。そして正面には。


「へー。随分楽しそうだったけどね」

「別に楽しいとかそういうんじゃないって。悔しいからもう一回戦わせろって言っていたが、本当に翌日に来るとは思わなかった、って話なだけで」

「さっきの話だと、来ればいいって誘ったんでしょ?」

「そこは言葉のあやというか社交辞令というか。……何と言うか、悪かった」

寝起きである事と相まってか、ミリアは不機嫌さを隠さない。まさか本気で関係を疑っている訳ではないだろうが。そしてその点について間違いなく有り得ない事を説明してくれるであろうレイスは……昨晩遅かったのかまだ起きて来ていない。


「先生がそういうの気にするとは思っていないけどさー。どうせ、いい練習相手ができたくらいにしか考えてなかったんだろうけど」

「まさにその通りの事を……」

「だよねぇ」

「ついでに言うと、似たような戦い方をする奴だったから興味があったのも事実だ」

フォークでベーコンをぐりぐりとしながら、軽い溜息を吐いて見せるミリア。


「まぁ。わかったよ」

「あぁいや。確かに考えが足らなかった。逆の事を考えたら駄目だ、これは」

「逆?」

「逆に、お前が他所で誰かと何か……それが何でも、知らずに見かけたらいい気はしない。もう迷惑だから来るな、という話を――」


「いやいや。そこまでしなくてもいいってば」

「本当に嫌だし悪いと思ってる。断るから大丈夫だ」

「いいってば。先生のしたいことはどんな事でも邪魔しちゃあいけないな、と思ってたし。でも昼間で、私にも見せてよね」

「わかった。本音を言えば、参考になる事がありそうだからもう少し様子を見たかった。ありがとうな」


「……。」

「学べるものは何でも学んでおきたい。俺自身が直接戦う状況は……なんだその顔」

「……ぷ」

「俺は真面目に――」


「そうやって、朴念仁みたいな顔しながら口説くからなぁ」

「誓ってあれにそういう興味はないし、いつ俺がそんな事した?」

自分の顔を指さして見せるミリアが、苦笑いを浮かべていた。


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