ミリア・フライベルグの日常 補足
◇◇◇◇◇
再び時間は遡る。
少し入った路地の先。「暗がりの手袋」という小さな店。そこに立つのは、少なくとも店にとっては招かれざる客だっただろう。
使用人。赤髪。オレンブルグ出身の奴隷。暗殺者。組織の手先。護衛。まぁ色々とその正体への説明はあるのだが兎も角……その当人アンナは、リューンがこじんまりとした酒場の戸を開けるのを後ろから眺めていた。その背中からは「頭にくる」などと言う言葉を先程聞いたが、そう荒れ狂っている風でもなく見える。
狭めの店内でこちらを見て目を見開く若者は情報通りの4人だった。うち一人は先日脇腹に指先を突き立ててやった浅黒い若者だ。
たまり場という前情報通りで、狭い店内には他の客もいない。本当はもう少し頭数もいる頃なのだろうが。ここにいない人間は既にアレンさんの所に攫われているのだろう。
まぁ、いい具合だ。こちらを確認するように振り返る主人が、多少暴れたり大声を出しても差し支えない。
「さーて。言ってたんで連れてきたっすよー?」
「……じゃあこいつらで間違いないんだな?」
「え?」
先程まではいつもと変わらない穏やかな表情を浮かべていたリューン。その視線からあっさりと感情が消え失せる。力量を見定める鋭い視線を当てつけられながら、虚しく響く虚勢。
「ふざけんなよ? 1人でこんな所に……おいちょっ!」
言葉が切れたのは。前口上を聞くのが面倒になったのか、リューンが手近にあった椅子を力任せに投げつけたからだった。その椅子はまるで放物線など描かず、手近な青年の顔面へとまっすぐ吸い込まれる。
慌ててちびた刃物を取り出した若者は直後、顔面をテーブルに叩きつけられて大人しくなった。残る二人もそれぞれ一撃のもとに殴り飛ばされ……店には、ほんの数秒だけの嵐が吹き荒れ、続くのは小さな呻き声だけだった。
店の店主はこの中では比較的に状況理解が早かったらしい。客の姿を見て即座に悟り、店の中で一番高価な酒瓶2本を抱えてカウンターの裏にしゃがみ込んでいた。
その頭上から若者の一人が降ってくるとは思わなかっただろうが。
「ちょ……」
そんな一連の風景に、思わず間抜けな感想が漏れた。
先程までの静かな雰囲気は何だろうか。とりあえずの口上は述べてその後殴り倒す、そういった流れを想像していた。これでは……只の襲撃だ。
相変わらず何の表情も浮かべていないリューンが、手近な一人に歩み寄る。
「で。お前らでいいんだよな?」
「こんな事してただで済むと思って――」
(いやいや、その言い方はまずいっすよ)
それを勇気と言うのは間違いだろう。そして絞り出した虚勢は最後まで告げられる事もなかった。
言い終える前に振り出された右足が肩口にめり込み、余計な事を口走った若者はテーブル2枚分ほど吹き飛んで静かになる。
無表情に次の浅黒い若者の前に立つリューン。
「もういい。お前らも仲間も、全員さっさと殺す方が楽だ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! すみません、本当にちょっと小銭が欲しかっただけで――」
(そうそう。とにかく謝って許してもらうしかないっすよね)
「もう待った。ここにいない仲間にも、あの世で謝っとけ」
「――!」
(はい?)
相変わらず無表情に告げられる言葉。それは、もう済ませる事にしたという意思を表していた。
目を見開いた若者。その黒目に、右手を弓引きする大きな体が映り込む。
「ちょ、ご主人!」
流石に慌てて駆け寄り、その右腕を両手で掴んだ。
相変わらず無表情な顔が振り返る。
「なんだ?」
「ここ、普通に街中っすよ?」
「……何か関係あるか?」
「ちょ、あるに決まってるじゃないっすか!」
自分が引きつった笑顔を浮かべているのが分かる。
夕暮れの酒場を襲撃してそこにいた若者数人を殴り殺す。脅されていたんだ、じゃあ仕方ないな、などというおめでたい結末にすんなり持っていくのは難しい。面倒な相手でも出てくれば下手をすると降格だのなんだのという事にもなりかねない。
アレンさんに根回しすれば余計な事を言う人間も黙るだろうが……聞いている限りこの人はそんな事は頼まないだろうし、黙っていてもそうなると期待している風でもない。
そうだ。この手の人種は一定数いる。要するに、そんな事はまるで気にしていない。
「う……」
「す、すみませんでした!」
(そうそう、死ぬ気で謝らないと本当に死ぬって)
「……。」
数秒にして立ち上がる事も出来なくなった若者たちは、意外な所から命を救われながらそれぞれ言葉を口にする。そこに響く小さな舌打ち。
再び顔を上げた浅黒い若者の顔面に拳がめり込んだ。そのまま後ろのカウンターにぶち当たって動かなくなる。
「ちょっとご主人!」
「殺さなきゃいいだろ」
「ていうか、それ死んじまいますよ!?」
「一応、手加減してる」
(どこが!?)
幸いにも少し遠くでうずくまっていた1人。相変わらず感情の籠らない声が足元でうずくまる若者へと上から響く。
「二度と俺達の周りに顔を出すな。余計な事も喋るな。次は本当に皆殺しにする」
「……はい」
「仲間も……当面は表も歩けない風だったが、生きてるだけ幸運だろ。町の中で良かったな」
「ほんとに、すみません……」
(あー。マジであぶねぇこの人)
床に向けられたよくわからない返事も聞かず、リューンはカウンターへと歩み寄り、その向こう側をのぞき込む。
「マスター。悪いが修理代は適当な金額を後で払う。悪いが今晩は店を休んでくれ」
「いえ、修理代なんて――」
(多分、もう関わりたくないんだと思うんすよね)
「払うって。あと、こいつらは死なない程度に手当てして放り出していい。必要以上にする事はないから」
「はい……わかりました」
「悪いな」
やっと表情らしいもの、それもひどく億劫な風のそれを浮かべたリューンが振り返る。
その向こう、店の奥の窓から上半身を飛び出したまま動かない若者から慌てて視線を外し、思わず引きつった笑みを浮かべて見せた。
「じゃ、帰るか」
「は、はいっす。です」
「付き合わせて悪かった。いやこの場合は、ありがとう、ってのが正しいか」
「いやいや、大丈夫っすよ」
「アレンには……一応、礼を言っといてくれ。そのうちにまた顔を出す」
「はい。わっかりました」
(いや。マジで着いてきてよかった)
息が上がる訳でもなく。来る時と同じ、散歩でもするように歩き始めた背中を眺めつつ、今回のそもそもの目的を思い返す。
「怖いもの知らずなふざけた馬鹿どもを黙らせる」その点からすれば、まぁ正しい結果かもしれないが。
アレンさんからは、少し突っ走ることがあるから気を付けろと言われていた。
……どこが「少し」なものか。冗談ではない。普通に歩いていたと思えば、その直後には全力疾走している。
「……ミリアさんもレイスさんも大変っすね」
「? 何か言ったか?」
「なんでもねっす」
とは言え。自らの経験を汲んだ上でなお、その立ち回りには若干舌を巻いていた。
少し喧嘩慣れした程度の若造と、数えきれない死線をくぐったであろう人間で、そもそも勝負になるとは思っていなかったが。それにしても一方的で短時間過ぎた。まして……素手だ。
仮に。この人を何かしらの折に暗殺でもしろなどと言われた場合、感情論は抜きにして自分にやれるだろうか。この調子ではどの瞬間に気が抜けているかなど分かったものでは無い。特に何を気にするでもなくただ歩いているその背中に、軽く殺意を向けてみる。
「なぁアンナ?」
「は、はい!?」
「今更だが。確かに殺さないで良かったかもしれない。止めてもらって助かった」
「いやほんと気にしないで貰っていいっすよ。ですよ」
「そうか。いずれにせよ助かった」
「ベルタさんにうまく言ってもらえるだけで十分っす」
「……忘れてた」
「いや、そこはお願いしますって」
来るときと変わらない。緊張感をまるで感じない雰囲気と共に、家への道を歩く。
あまり手伝う事もなかったが、そろそろ料理は完成しているだろうか。
鞄の中に転がるにんにくと使い慣れた2振りの小型ナイフを確認しつつ、アンナは目の前を歩く背中から視線を逸らした。




