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躊躇なく振り上げる大斧の影が、必要以上に配置された松明の炎で不規則に揺れる。
それは小枝のように軽く、自分の理解からすれば極めて危険な状態だったが……今にあってはこれ以上有り難い事などなく、最早神の恵みにさえ思えた。
振り上げるよう、彼女の目の前を薙ぐ大斧。
空中でなす術もなくそれに捕らえられた青年は、ばんっ!などという派手な音を立てて視界の端に消える。その顛末を確認する必要などないだろう。
軽く目を見開いている彼女に左手を差し出し、握りなれた右手を感じながら引き上げた。
殺戮に心酔するような感覚には支配されていない。未だ奥底で燻るその感覚は消えないが、それでもまだ暫くはこのままで居られる確信がある。問題はその暫くをどう使うかだ。
「まだ大丈夫だ。出来る範囲で潰して見せる。お前も守り切る。もう少し近くに居ろ」
「駄目ですっ! スライさんだって――」
「あっちは大丈夫だ。ついて来い」
「やめて下さい!」
必死な声を上げる彼女に見当外れな答えを返しながら、伸ばされた細い右手が体に届く前に軽く握り返す。
「そうは持たないからその後は守ってくれ。大丈夫だ、上手く行く」
「そんな……」
まだ言葉を続けようとする彼女から視線を外し、当初の目的であった方向へと視線を泳がせる。
憤怒に任せた叫び声。全てというのは当然無理だが、その中の十人でも叩き潰して見せれば風向きも変わるだろう。
再びこちらを見上げる彼女に一度視線を合わせ、駆け出した。
味方の奇異の視線を振り切るように足が地を蹴る。異常に研ぎ澄まされた感覚はこの戦いの最中であってさえ、彼女の軽い足音が俺に少し遅れてついてくるのを理解させていた。
手入れが行き届いた剣で正規兵の一人を肩口から脇腹まで切り飛ばした中年の男。悲鳴を上げて後ずさりする兵達の隙間を縫うようにその前へ躍り出た。怒りに燃えるその顔に視線を合わせる。
「□□□□□□□----------っ!!」
目の前で発せられたその絶叫が途切れるのを待たずに大斧を横薙ぎで繰り出す。目が覚めたように薄く輝きを放つ剣を肩口に構え、足を滑らしながらも受け止める男。
さして驚きもない。押し返そうとする力に任せて斧を手放し、反動で軽く前に出たそれへと力任せに右の拳を叩きつけた。めり込む拳は薄い鉄板の胸当てを変形させ、それは地面を転がりながら血へどを撒き散らす。
早々に視線を外し、次の獲物へとざらつく感覚を泳がせた。
次の二匹。俺のすぐ脇から飛び出した氷の槍が一人の足に突き刺さる様を見て、残る片割れに向かって駆け出した。
互いの武器が届く距離まであと数歩の距離。翻る槍を見ながら構えていた大斧を投げつける。それは細い棒きれの先端を突き出そうとした動きのまま、胸元から上を撒き散らした。
足を縫い付ける氷の槍をようやっと引き抜いたもう一匹、その頭に腰の後ろの安物を叩きつけるのも忘れない。
巡らす視線が次の獲物に狙いを定めた。
良く似た年恰好、その怒りの表情までが似通っている青年2人。脇腹に折れた刀身をぶら下げている一匹に氷の槍が掠める。すんでの所でそれを躱し若干崩れた態勢のそれへと刀身を叩きつけた。腰を落とした姿勢でそれを受け止められ、しかしその剣ごと押しつぶすように力を籠めるがもう一方も黙ってなどいない。
風切り音を立てて振り下ろされる刀身を左腕は受け止め切れず、小手の立てる派手な音を聞きながら半ば転がるように右へと跳躍した。その瞬間、俺がいた場所を目掛けて降り注ぐ氷の槍。
致命傷ではないが威嚇には過ぎるそれに目を逸らしてしまった片方、その頭から脇腹に掛けてを雑な刀身が通り抜ける。
直後、残る片割れが繰り出す一撃を何とか振り戻した安物が受け止め、姿勢を崩されながらもその膝を蹴り折る。よろけながら、しかし俺の目の前で地面に伏した青年。その頭を躊躇なく右足が蹴り抜き、不細工な果物を随分と遠くへと転がした。
「囲んで一匹ずつ殺せ!」
味方を鼓舞するための咆哮は先程と比べるとひどく雑だったが、少なくともそんな事に意識を向けていられる余裕は無い。
何しろ既に目的が霞みつつあり、勝敗や後先もどうでもよくなりかけていた。全力で振るう力。撒き散らされる死。体は異様に軽く、拡張されたような感覚は対峙した相手の動作を鮮明に見切っている。誰が相手だろうと負ける気がしない。高揚した精神が、次の獲物を求めていた。
様々な視線を感じながら辺りを見渡す。薄暗い中、先程放り投げた大斧が転がっているのを見つけて拾い上げた。これは必要だ。いや、あると便利といった所だろうか。
具合を確かめるようにそれを大きく振るう。ひどく軽く感じるがまだ大丈夫だ。
まだ、殺せる。
どれだけの時間が経ったのだろうか。どれだけの相手を屠ったのだろうか。
今まさに殴り潰した肉塊を見下ろす。噛み締めた歯の隙間から漏れる歓喜の吐息は、既に自分の物だと思えない程の愉悦に染まっていた。これを躊躇せずに口から吐き出したらお終いだ。
終い? 込み上げる絶叫を堪える理由を考え込む。それは一体何だったろうか。何か大切な事を忘れているような気もする。
……そう興味もないが思い出せれば幸いだ。目を伏せて大きく頭を振る。
視界に入り込んだ左腕、その親指が後ろを向いてしまっていた。道理で痛いわけだ、などと吞気に考えながら手首を掴み、その向きをぐるりと戻しながら再び視線を上げた。味方の先に敵兵の姿を見つけ、思考を放棄し力任せに大斧を放り投げる。
それを追うように駆け出そうとする俺の腰に回された細い右腕。振り向くと、しがみつくようなレイスが必死で首を振っていた。
「もう十分です!」
「邪魔するな! まだ敵がいるっ!」
「もう大丈夫です! あなたの指示通り、後は私が守りますから!」
「指示? まもる? 何を言って――」
その必死の剣幕と、先程自らが発した言葉で我に返った。
何も握られていない両腕はどす黒く染まっている。染め上げているのが人間の中身なのは間違いなかった。
白々しい程に酷く痛みはじめた左腕は使い物にならないだろう。斧はどこまで飛んで行ったのだろうか。腰の後ろに回した右手が空を切る。安物の剣もいつの間にかどこかにやってしまったらしい。
唯一安堵するのは、左の脇に収めていた小剣がまだそこに残っていた事だろうか。
「ここに座って下さい!」
そんな戦場とはかけ離れた言葉を聞きながら見渡す視線。……少なくとも敗走するような雰囲気は去りつつある。
そんな判断と同時に笑い始める膝はあっさりとその用をなさなくなり、意図せず彼女の言葉に従う事となった。つまり、立っている事が出来ない上に左腕も動かせない。先程彼女に頼んだ通り、もはや守って貰う必要がある状態だ。
「……左腕、使い物にならないな」
「見ればわかります! もうっ!」
泣き出しそうなその目が俺から外れて辺りを警戒し始める。軽く上げた右腕とその周りでくるくると回る小振りな氷の槍。振り向いたどこかの部隊の兵がそれを見て目を丸くしている。
「すまない。状況は?」
「駄目だって言ったじゃないですか! もう十分ですから座ってて下さい!」
相変わらずな謝罪に返るのは泣き出しそうな大声。
前線は門の中へと押し込みつつあり、今この周りに差し迫った危機はないだろう。
やたらと耳についた雄叫びはもう聞こえない。スライがうまくやったのだろうか。それとも行使できる頭数の制限だろうか。
何れにせよ、多大な犠牲を払いながらも狂戦士たちを退けた前線は門の中へと移動しつつある。後は掃討戦という、帰る所を無くした者達への無慈悲な虐殺が始まるのだろう。
……全身を覆い始めた痛みは先日よりも更に酷く、特に左の肘と肩は焼けるようだ。
寄り添うように立つ彼女。この状況でさえ気を抜かず、その右腕の周りに浮き上がった氷の槍はひどく心強く感じる。
低い視界に映るのは、足元の土といつかパドルアで彼女に買い与えたブーツだった。
「なぁレイス」
「なんですか?」
「怒ってるか?」
「すみません、私が気を抜いていたせいです」
「いや。怒ってないなら良かった」
「嘘です。怒ってます」
遠ざかりつつある戦いの音に、気の抜けたやり取りを始めていた。
そんな折、街の中心部辺りで大きな爆発音が響く。
「スライは大丈夫だろうか」
「少なくとも今は。……なんというか、怒って帰ってきそうな気がします」
「無事ならそれでいいけどな。いい加減、殴られると思うか?」
「少し怒った顔しながら、まぁいいけどよぉ、なんて言うと思います」
「……似てないな」
「べ、べつに真似なんてしてないですよ!?」
やはり続く気の抜けたやり取りへの抗議のように、再び街の中心付近で上がる爆発音。
頭の中で奏でられていた甘美な誘惑は、前線と共に遠ざかりつつある。少なくとも彼女の命を救ったという点でのそれへの感謝と……我を失っていた事での恐怖を感じていた。
俺は『死ぬまで戦い続ける』の一歩手前にいたのだと思う。先程、制止したのが彼女以外であればどうだっただろうか。もし、あれを振り切って駆け出していたら。
そんな考えを頭の外へと吐き出させる全身の痛み。特に左腕は以前ウルムで潰された部位に近く、痛いという言葉を通り越している。しかし逆にそのおかげもあってか戦いへの誘惑は完全に霧散しており、先程までの自分の行動への後悔だけが湧き上がっていた。
少しひきつった表情を浮かべたまま、月明かりを背負うようなレイスを見上げていた。暫くの後、ようやっと安全だと判断したらしい彼女が目の前にしゃがみ込む。
「駄目だな。正直、少しおかしかった」
「少しじゃありません。長めに休んで頂かないと。左腕、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃあないが我慢するしかないだろうな。……しかし毎度毎度、無事に片付く事がない」
「いつも無茶するからです。次こそは危なくなったら逃げて下さい」
「ああ。そうする」
「……本当ですか?」
「この間は逃げただろ?」
彼女が思い切り眉間に皺を寄せるのを見て、慌てて取り繕う。
「いやいや、本当に悪かった」
「あなたは。そうやっていつもいつも――」
まさか今から再び戦う事など叶わないだろう。
自分のせいではあるのだが……聞き慣れつつある非難じみた説教に相槌を打ちながら、未だ続く戦いの音が途切れるのを待つ事にした。




