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泣きそうな顔でひたすら文字を練習させられているレイス。
今日は……動物の名前らしい。
自分が子供の頃に行ったであろうそれを眺める先、ミリアがそりゃ駄目だね、などと笑いながら指摘している。
見慣れた光景になりつつあるそれから目を逸らし、欠伸をしながら窓の外を眺めた。
何人かが家の前に並んでいる。
こちらへ歩いてくる少し懐かしくも感じる騎士の姿。
そして程なく響くノックの音。
「はいはい、今行きますよー」
適当な赤髪の声と、開くドアの音。
不抜けた表情で歩いて行った赤髪――アンナが、ひどく恐縮した顔で戻ってきた。
「フライベルグさん、お客様です。ヴァンゼル家の――」
「取り合えず客間へ。何か飲み物を出してやって」
「はい」
恐らくは教育を受けた折のすっかり丁寧な口調に戻っている赤髪の背中を見送る。
大きく息を吐きながら立ち上がり、こちらを見上げる2人の視線に答えるように口を開いた。
「……やっと、だと思う。一緒に来てくれ」
飲み物が運ばれるのを待って客間へと移る。
あの後、まともに足を踏み入れていない客間の中を軽く見渡した。
来客用の1人掛けソファが3脚。
そこに小さなテーブルを挟み、3人掛けのソファが置かれている。
上座にあたる1人掛に座るミネルヴ。その後ろに2人の男が立っている。
その1人、少しうれしそうな顔のクレイルが口を開いた。
「お久しぶりですね」
「お前が最初に喋ってどうするんだよ」
「あぁ、確かに」
相変わらずのようだ。
「ミネルヴさん。お久しぶりです」
「少し待たせましたか?」
「いえ。待遇には本当に感謝しています。まずは御礼を――」
「それには及びません。思っていたよりも事態は好転しています。この場合、切っ掛けはあなたでした。感謝しています」
「それこそ、それには及ばないという所でしょう。……グレトナは?」
「今も南の国境付近にいらっしゃるかと」
「そう……ですか。まだ落ち着かないという事ですか?」
「そこについてのお話もありますが、それは後ほど。まずは――」
見慣れない壮年の騎士が、鞄から数枚の書類を取り出してミネルヴに差し出す。
それを受け取ったミネルヴが立ち上がった。
「リューン・フライベルグさん。あなたを中級騎士として、ミネルヴ・ヴァンゼルがここに任命します」
まるで何か適当な手紙でも読むように言いながら、それをこちらに差し出す。
思わず顔を歪ませながら受け取るその紙ぺら。
「……。」
「本来であれば。私の立場から始まり騎士としての忠誠を云々、など諸々ありますが。あなたがそういった人種でない事は私も分かっています。省略しました」
「……そうですか」
なんと言うか。
ありがたみがまるで無いそれに、返す言葉がない。
いや。ありがたいのは事実なのだが。
「それで俺は。これから何をすればいいのですか?以前はギルドの関連と聞いていましたが」
「それも後にしましょう」
再びソファに腰を落としながら、こちらにも座るように手でソファを指す。
それを見ながら、クレイルともう1人の騎士が残るソファに腰掛けた。
その正面で3人掛けソファの真ん中に座る。
俺の左右で其々遠慮がちに腰掛けるレイスとミリア。
その様を見ながら、目を細めるミネルヴが再び口を開く。
「家は。気に入って貰えましたか?」
「ええ、勿体ないくらいですね」
「所でレイスさん、調子は如何ですか?」
突然向けられた矛先に裏返った声で、えっ?などと答えるレイス。
「えぇと……本当にありがとうございます。井戸までついていて……」
訳のわからない答えを返すレイスを眺めるミネルヴが再び口を開く。
「そちらの側室の方は如何ですか?部屋にも予備がありますので――」
隣で空気が変わるのを感じた。
斜向かいのクレイルでさえ大丈夫か?というような顔をしている。
かつて自身が吐いた事ながらも。
ミリアが怒気をはらんだ声を絞り出す為、息を吸い込むのを察した。
それを吐き出す前に遮る。
「ミネルヴさん。私は2人共を家族として迎える事に決めました。……私の家族になる者に対して、嘲りのような言葉は控えて頂きたい」
別に、側室や妾などと言う風習自体を嘲りだとは思わない。
双方がそれでいいなら別にいい話だ。
しかし。今の言葉には……悪戯と言うには度が過ぎる物が含まれていた。
静まり返る部屋。
わざわざ首を回さなくとも分かる、左右から浴びる視線。
ミネルヴの軽く見開かれた目。
クレイルの少し笑いをかみ殺すような顔。
それらを無視し、こちらから口を開く。
「リンダウ家のミリア。パドルアでの文官の家です、詳しい紹介は後日にでも。それよりも先程から後で、とおっしゃられていた件を教えて頂けますか?」
「……失礼いたしました。少し悪乗りが過ぎましたね」
「それはスライも心配していました」
「そう、ですか」
軽く釘を刺すような、彼女の幼馴染の名が含まれたその言葉に、少し考え込むような顔を浮かべたミネルヴは。
そしてやっと本題について語り始めた。
「あなたに通常の業務をお願いするつもりはありません」
「ギルド云々というのは?」
「私たちの意図が含まれた仕事の発注と管理を、という所でした。当然、ある程度の権力は与えます。お話は伺いました。先日のような緊急時の対応にも期待しています」
「あぁ……成程」
「そして今。その仕事があります」
「……。」
「南に行って下さい」
「ワイバーンを?」
「いえ。あなたにお願いしたいのはこちらですね」
言いながら差し出す数通の便箋。
「これは?」
「南への親書です」
南、という表現にはいくつかの意味があった。
当然、方位としての意味。
しかしこの場合、違う意味だろう。
クラスト王国の南の国境にある山脈。
その向こう側には広大な森林が続いている。
そこに住まうエルフと呼ばれる種族。
華奢な体。
美しい外観。
長い寿命。
そして。人間を毛嫌いしている。
彼らには国家と言う概念がなく、部族間の関係で社会が成り立っていると聞く。
……この場合の”南”というのは彼らの世界を指し示していた。
「彼らに、これを?」
「各部族の王たちに渡して貰いたい」
「無理でしょう……」
「断りますか? まぁ初回です。今回はそれでも良しとしますが」
その言葉は要するに。
次は断れない、という意味に他ならない。
「一体どんな内容ですか。彼らと顔を合わせられたとして。内容によってはその場で殺されかねない」
「要は私達との同盟です。そう前ではありません、西のスノアと彼らは戦争状態に入りました」
「……敵の敵は味方だと?」
「平たく言えばそうなりますね」
「それでスノアとやりあうのですか?」
「もしその必要があれば。既に我が国とスノアの関係は最悪ですが」
「実は中身は喧嘩を吹っ掛ける内容で、使者の犠牲をその火種にしたい、なんて事は?」
「南との関係を悪化させる必要がありません。心配であれば中身を見せましょうか?封も持って来ています」
「そこまでは言いません。しかし……」
「今、答えなくても結構です。ただ、先日と同じであまり時間はありません。出発はそこまで急ぎませんが、無理ならば他を当たる必要があります」
その言葉に、事実上断れないだろなどと心の中で愚痴りながら。
……口を開いた。
「分かりました。行きますよ」
左右からの軽い戸惑いの視線を感じながら続ける。
「ただし、成功すると思わないで下さい。私の知り得る限り、彼らは人と交わろうとしないでしょう」
「出来る限りを行って頂ければ結構です。しかし意外ですね。結局は受けて頂けると思っていましたが、回答は後日にすると思っていました」
「どうせ受けるのであれば引き延ばす意味がありませんから」
「……詳細は再度打ち合わせに参ります。宜しいですか?」
「はい。わかりました」
彼らを送った後、再びソファに腰掛けた。
空いた席に座らず同じ場所に座る2人。
その他の席は空席で、この長ソファだけに3人が並んで座っている。
傍から見れば少しおかしな光景だろう。
「先生、本当に行くの?」
「ああ。何某かと戦ってこい、って話よりは余程いい」
「そりゃそうだけど……」
「今回断ったら、次にもっと面倒な話が来た時、更に断わりづらいだろ?」
「うーん」
「大丈夫だって。子供の使いだ。無理ならさっさと帰ってくる」
少し不満顔のミリアに笑顔を作って見せる。
「しかし。買われているのか、無理難題を言ってみただけなのか」
「前者でしょう。グレトナさんの事も含め、何か期待されている風ですね」
「まぁうまく行かなければ仕方ない。相手のある話だからな」
「そうですね」
振り返る先、レイスは軽く微笑んでみせた。
内心穏やかではないだろう。
久しいとは言え、自分の出身地と事を構える前段階になるかも知れない話だ。
しかし端的に俺たちの事だけを考えれば、戦う前提などではない。
その危険性を楽観している部分もあるのだろう。
もっと言えば。
うまく行く筈がないと思われている内容であれば、失敗しても大した問題ではない。
危険であれば逃げる事だって出来る。
前線で兵達を指揮するような話とは違うのだ。
しかしそんな事よりも。
俺達にとってこんな話よりも余程大切な事がやっと進められる。
今はその事実が大きい。
2人の間から立ち上がり、振り返った。
「ミリア、家に行く。いつなら具合がいい?」
「うちに?どうかしたの?」
「……何だか。後日でもいいような気がしてきた」
「??」
考え込むミリアを呆れた顔で眺める視界の端、レイスが苦笑いを浮かべていた。




