サラゴサ砦の戦い ‐前哨戦3‐
正面と側面から銃弾をほぼ無防備な状態で浴びる王国軍の損害は目に見えて増えていきます。その時私は、作戦が上手く行ったことによる喜びと、それに伴う苦痛を感じていました。
もしこれが少佐のような愚鈍な人間であればよかったのでしょうか。
人狼族が目や耳などの知覚に優れているのは周知の通りです。私の目は、遠方にいる敵の様子を細部までハッキリと捉え、私の耳は人間の断末魔や悲鳴を鮮明に受け止めています。
敵とは言え、気持ちのいいものであるはずがありません。
ですが、目を閉じたり、耳を塞いだりするわけにはいけませんでした。
サラゴサ砦にいる人狼族が私だけである以上、敵の様子をハッキリと観察するのは私だけにしかできないことなのです。
「狼狽えるな! 伏兵と言えども敵は我が軍に対して圧倒的に少ない。態勢を立て直せば、恐れるに足らん!」
敵軍の指揮官の命令が、敵軍の悲鳴や断末魔、合衆国軍の発砲音の隙間からハッキリと聞こえました。どうやら優秀な指揮官が、王国軍を指揮しているようです。
「撃て!」
少佐の、今日この日何回か聞いた射撃命令も、そろそろ危うくなっていました。
私たちの放った銃弾は確実に敵の戦力を削っていましたが、ですが敵も態勢を立て直しつつあります。敵の正面に立って迎撃を続ける私たち第一小隊の被弾数も時間と共に増してきました。
塹壕と隘路で防衛する私たち合衆国軍は総勢180名。それに対して王国軍は1500名。このまま行けば数において私たちは圧倒的に不利に立たされているのは間違いありません。
「少佐、そろそろ限界です!」
「……面倒ね」
いつもと同じ台詞なのに、ハーコート少佐のそれは緊張感と切迫感に満ち満ちていました。
「敵の戦力を多少なりとも削り士気を削ぐことは出来たと思います。これ以上の交戦は……」
「カミラの言う通りね。じゃ、逃げますか!」
随分簡単に言う少佐でしたが、敵正面からの撤退と言うものほど難しいものはありません。ですが少佐には考えがあるようです。
「敵も側面から攻撃を受け続けている現状、私たちを追うんじゃなくて一旦下がって態勢を立て直し、今度は森の中を用心して調べて進軍してくると思う。それが一番確実だし被害も少ない。彼我の戦力が絶大なのだから、王国軍にとって無理して進撃する意味はない……と思う」
最後の一言だけがやけに自信無さげでしたが、少佐の言葉には珍しく説得力があります。
「次の斉射命令の後、各員は森の中にある連絡用塹壕を通って砦に撤退するわよ」
「今塹壕にいる人たちの事も忘れないでくださいね」
「当然。カミラのおかげで忘れ物はしなくなったわ!」
しそうになったじゃないですか、出撃するとき。と突っ込んでいる暇はありませんでした。さっさと鞄から紙薬包を取り出して再装填作業にかかります。
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アイリア・S・ハーコート少佐の読み通り、カルロス王子が率いる……いや、ディアス大佐が率いる王国軍は撤退を開始する合衆国軍を追撃しようとはしなかった。
既にこの時、全体の2割にあたる300名が死亡または負傷により戦闘不能となっていたのである。ディアス大佐は負傷者を治療し、かつ連隊の士気と戦列を立て直す意味で、合衆国軍を追撃せず整然と後退を始めた。
これだけ見れば、単にディアス大佐が優秀で敵の作戦にまんまと引っ掛かったカルロス王子は無能の極みであるのだが、この前哨戦において思いもよらぬ効果が出てしまったのである。それは王国軍にとっては幸福なことであり、合衆国軍にとっては致命的なことであった。
「ディアス大佐。余は卿を勘違いしていたようだ」
後退を終え、連隊の再編をしているディアス大佐に対し、カルロス王子は謝罪したのである。謝罪と言っても彼は王族であり、ディアス大佐は一介の将校である。そのため王子の言葉はやや大仰なものだったことは否定できず、謝罪と言う言葉が適切かどうかはわからない。
だがそんなことは、続くカルロス王子の言葉の前には細事であった。
「今後、サラゴサ砦を攻略するに際して貴官に作戦を練ってほしいのだ」
「……は?」
ディアス大佐はつい聞き返してしまった。無理もない、カルロス王子は合衆国軍と戦う前、ディアス大佐に職権を犯されるのを嫌がっていたのだから。
この人が変わったような出来事には、無論理由はある。
それは戦いの前、ディアス大佐がカルロス王子に対して放った言葉が原因である。
ディアス大佐は戦いの前、合衆国軍の動きが罠であることを見抜いていた。残念ながらそれは具体的な証拠を伴わなかったためにカルロス王子の耳には届かなかったが、罠であることは戦いの後証明された。
またカルロス王子が罠にハマり側面攻撃を受け狼狽しているとき、ディアス大佐は連隊に秩序ある行動を促しそれを成功させている。自分に出来なかったこと、考えも及ばなかったこと、これらを実行したディアス大佐と言う人間に、カルロス王子はいたく感心した。
即ち、ディアス大佐が優秀な人間であることをカルロス王子が理解したのである。
「最早ここまで来て撤退する、というのはできない。だが卿の識見と手腕で以って合衆国軍から彼の地を奪還すればいくらかマシと言うものだ。責任は私が取る、遠慮なくやりたまえ」
最早別人とも言って良いカルロス王子の変容ぶりに、ディアス大佐は合衆国軍から側面攻撃を受けた時以上に狼狽したが、すぐに持ち前の平静さを取り戻した。
「殿下のご期待に沿えるよう、微力を尽くす所存にございます」
王国軍は確かに無視できぬ損害を被った。だが、その一方で軍隊にとって致命的な確執が取り除かれたのもまた事実である。
これがどのように戦局を動かすかは、聡明なディアス大佐は勿論、呑気なハーコート少佐にもわからなかった。