かんがえない、かけがえない
行ける! あと10メートル、あと5メートル……ゴール!
「やりました! オリンピック初出場の牡鹿 志保、近代五種女子金メダルです!」
どこかから歓声が上がった。2012年、ロンドンで開催された第30回夏季近代オリンピック、近代五種女子の金メダリストはオリンピック初出場の牡鹿だった。
「オリンピック金メダル、おめでとうございます」
牡鹿と同じ日本人のレポーターがマイクを向ける。外国語を話すレポーターが来ないかと思っていた牡鹿は内心ほっとした。
「ありがとうございます」
「いまの心境をお聞かせ下さい」
「そうですね……。世界一のランナーになれて光栄です」
牡鹿は自分が世界で競争できるランナーに成長できたことが嬉しかった。
金メダルを首にかけた牡鹿が会見場に姿を現した。近代五種競技がオリンピック種目に登録されて100年。それを記念して、2012年のロンドンオリンピックでは近代五種が最後の競技にされた。男子が先に競技を行なったので、女子近代五種の牡鹿が今回のオリンピック最後の金メダリストであり、4年後のリオデジャネイロオリンピックまで世界最新の金メダリストということになる。
白人の記者が手をあげる。通訳がいないと牡鹿は彼が何を話しているのかわからない。
「今後の意気込みをお願いします」
「はい。4年後のリオデジャネイロオリンピックに出場できるように頑張ります」
閉会式に参加し、翌日の飛行機で牡鹿は成田空港に降り立った。国際線到着ロビーを出ると、そこには無数の人だかり。テレビカメラもあるようだ。
「金メダルおめでとう!」
「日本の誇りだよ!」
出発前にはこんなに大勢の人はいなかった。近代五種で活躍すればみんなに愛される。それが嬉しくて、牡鹿は近代五種をやっている。
オリンピックが終わって1週間。牡鹿は何となく不快感を覚えていた。恐らく、妬みをインターネットの掲示板に書かれているのを読んだためだろうと思っていたが、どうやら違うということがわかった。
牡鹿が東京から帰ってきた金沢駅には『石川の誇り』、実家のある白山の市役所には『白山の誇り』と書かれたのぼりが掲げられていた。他にも石川県のホームページに牡鹿のことが書かれていたり、全国ニュースでも度々『同じ日本人として誇りに思う』というコメントを聞いたりしていた。
まるで私の成績を利用されてるみたい。もしかして、私は自分が他人に「誇り」と言われるのが嫌なんじゃないの?
そのことを友人に言うと、こんな答えが帰ってきた。
「そんなこと言うもんじゃないよ。みんな志保を祝福してるんだから」
確かに、とその場では志保は納得するそぶりを見せ、話題を変えた。
近代五種競技のオリンピックが始まって100年、日本がメダルを獲得するのはこれが初めてだ。
牡鹿は祝福されていることを好意的に受け止めようとした。しかしある日、インターネットのブラウザを起動すると、トップニュースの文字が飛び込んできた。
「なにこれ! どういうこと?」
そのニュースは、長崎県にある小値賀町という小さな島が牡鹿関連の商品を発売したというものだった。
牡鹿は長崎県に行ったこともない。西はせいぜい大阪までだ。それなのに、これはどうしたことだ。
牡鹿はさらに自分の名前をインターネットで検索した。すると自分の知らないところで自分に関する情報がいくつも出てきた。
「男子近代五種は日本全滅! それに対し女子は牡鹿が金メダル! やっぱり男より女が強かった!」
「ロンドンオリンピックで使用されたストップウォッチに疑惑! これは牡鹿選手の記録も怪しいかも」
「五輪金メダリスト牡鹿志保は と ん で も な い 人物だった! これは日本乗っ取られるで……」
「ニュースで話題の牡鹿は左翼⁉︎ 『日本の誇りと言われたくない』と言っていた」
「なんで……何が気に入らなかったの?」
震える声で言った。部屋には誰もいない。
世界のトップアスリートになった証のメダルを取り出した。勝利の女神が牡鹿に微笑んでいる。
いつしか牡鹿は机に伏せて眠ってしまった。テレビや雑誌の取材が最近多かったからだ。
「私の勝利は、私のものじゃないのかな……」
牡鹿は目の前の女神に問うた。
「いいですか。人は仲間がいないと生きられません。あなたが1人でメダルを掴んだのではないように。そして人は、1番狭い範囲の共通点を見るのです」
気がつくと、窓の外は真っ暗だった。パソコンの画面まで暗い。
「志保、ご飯だよ」
夫の声だ。隣の部屋から聞こえる。
「仕事から帰ってきたらお前が寝てたからさ、びっくりしたよ」
「あら、ごめんなさい」
「大変だろうけどさ、俺はお前を応援するよ。リオデジャネイロ目指すんだろ?」
レトルトのハンバーグを食べながら夫が言った。
「がんばれ。お前がメダル取った時は俺が世界で2番目に嬉しかったよ」
「夫婦の誇り、ってこと?」
「なんだそりゃ?」
夫は不思議そうな目で牡鹿を見た。
いい加減な人だなあ。
自分は難しく考えすぎていただけだろうか。牡鹿と金メダルの共通点は自分1人だから、他人は他人と思っていたのかもしれない。夢の女神が言っていたように。
「たまには何も考えないのもいいかもね」
「やっぱり意味がわからん」
2人で笑いあった。隣の部屋では、机の上で黄金の女神が微笑んでいた。
金メダルすら霞んでしまう、かけがえのない夫婦の時間。牡鹿1人では、手にすることはできなかっただろう。
現実の2012年ロンドンオリンピック女子近代五種金メダリストはリトアニアのラウラ・アサダウスカイテ選手です。日本は男女共にメダルを獲得していません。