リビングデッド
夕刻の都市に場所を取る寂れたビルがある。
今や物音一つなく静まり返ったその塔は、西日に照らされて周囲に大きな影を落とす。
屋内もこの時間には暗黒の世界だった。
珍しく何かが階段を上る足音が悲しく響くが、それを聞いた者は誰もいない。全てが闇に掻き消される。
足音はひたすらに上だけを目指し、最上階の踊り場で止まった。
屋上に出られる古びた扉、その取っ手に指を掛ける。
弱々しく、中学生くらいの少女が扉を開いた。眼前は最も強い時間帯の夕日に彩られていた。
その眩しさに少女は目を細める。コンクリートの床に緑のよくある類のフェンス、そして……
案山子がいた。
「あった」のではなく、「いた」。
全体重を支える木製の棒は、畑ではなくコンクリートを割ってめり込んでいる。
当然の景色の中に、ただそれだけが不自然に佇む。
少女は何ともない顔で歩き始めた。視線だけは案山子に向いている。
よくある「へのへのもへじ」の顔、古ぼけた感じの漂う縫い合わせだらけの布で出来た胴体、真横に広げた両腕。
目を表す「の」と少女の目が合った気がして、彼女は急いで視線を背け前方に向けた。
少女は案山子が何処となくやつれているようにも見えていた。当然、表情は伺えなかったが。
何か過去に悲惨な経験をしてきた感じがする。
性別は男性。年齢は人で言う三、四十代か。
しかしやはり、そこにいるのは案山子である。
少女はフェンスへと向かっていた。網に足を掛けてよじ登り、とてつもない高さの端に来た。
ゆっくりと慎重に下を覗き込む。遥か遠くで豆粒大の車が往来している。
現実はそんな景色。それが少女には違うように見えていた。
渦巻く都市。やがて景色が混じり合い、そこには謎のワームホールが見えている。
ようやく彼女の表情が動く。引きつった笑顔だった。
唾を飲み込む。大丈夫、このワームホールの先に繋がっているのは、きっとファンタジーな異世界。
次の一歩を踏み出す事でその世界へ旅だてる事を、彼女は知っている。それは誰でも知っている事だ。
汗ばむ掌なんて気にしない。異世界への一歩を踏み出した。
「君、ちょっと待ちな」
少女の耳に声が勝手に入って来た。声が脳に届いた時、視界が一変する。
とてつもない高さだった。傾いた体は既に宙へ浮いており、落下と紙一重で腕をフェンスに伸ばした。
動きが止まる。指は網に引っ掛かっており、少女は恐怖で胴体をフェンスに引き戻した。
頭は真っ白だった。呼吸だけは早い。生きている。
「まぁ逝く前に聞いてくれ。俺も君と目的を同じくしてここに来た者だ」
何かが話し掛ける。周りを見渡しても人はいない。案山子はいた。
フェンスを乗り越えて案山子に近寄る。今度はこちらから。
「あなた、ですか?」
案山子は口を表す「へ」の辺りから、どうやってか声を出していた。
「ああ。俺も飛び降りようとしたよ、人間の姿でな」
「の」の字が少女を凝視していた。案山子は語り始める。
「俺はフェンスの向こう側で、足がすくんで踏み出す事すらできなかった。
気付いたらこのザマだ。情けないよな。だからこんな所に来たのかもしれんね。
君とオッサンには決定的な違いがある。俺の言ってる事が解るかな?」
首を傾げた。飛び下りれば楽になれるのに、何故か今は案山子の話に聞き入っていた。
それはまるで救いを求めるように。
「俺は案山子で君は人間のまま。人生でやっと脚光を浴びられる瞬間だったのに、それすらも俺は無駄にしちまった」
夕日は半分沈んでいき、案山子の顔に影を落とす。
「知ってるかい。人間は自ら死を望む事のある唯一の生物だそうだ。
案山子は人間の成り損ないに与えられる姿なんだろう。
俺なんかにはもったいないくらいの称号だな。
質量があって生きてはいても、中身が死んでる。だから感情も要らないのかねぇ。
人間は第三者なしに自分というものを証明できない。誰かに認められなければ、爪弾きにされてしまう。
人間の姿で生きてはいるが、人間として必要な事を失った。それが案山子であり、生ける屍だ」
案山子は悲しい真理を表情を一つも変えずさらりと話している。
「君は一歩を踏み出していた。それ程の勇気があれば、今のままでも生きていけるんじゃないかな。
扉をまた開けて、現実へ帰ってやりな」
少女は涙を流して頷いた。言葉に従って扉の前まで来るが、そこで唐突に振り返った。
「どうした? 大丈夫だ、君なら安全に地上へと戻れる」
「おじさんは? おじさんはどうするの?」
「オッサンなんか気にすんな」
少女は涙を思い切り拭うと、初めて見せた笑顔で叫んだ。
「私の勇気を止める程の優しさが、おじさんにはある。
それ程の優しさがあれば、おじさんも生きていけるんじゃないかな」
「どういたしまして。でももう手遅れ、俺は案山子だ。地に埋まった足じゃ歩けない」
「私は……おじさんを案山子としては見てなかったよ」
少女は百八十度向きを変え、扉を開けて闇へと消えていった。
夕日は沈んだ。これまでよりも更に静かな夜が訪れた。
ただ、扉は完全には閉まっていなかった。
宵の都市に場所を取る寂れたビルがある。
その屋上には、中年の「おじさん」が直立し、腕だけ真横に広げて佇んでいた。
彼は両腕を下ろす事ができた。
テーマとしては「人生」。タイトルは案山子を意味しています。
なんだかこれまでになくハッピーエンドです。そしてハートフル。