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君の死ぬ夏の日

作者: 雲丹深淵
掲載日:2026/02/16

 Today is a good day to die.

 死ぬには良い日だ、とはネイティブアメリカンの言葉だったか。

 人生の最後にふさわしい日とはどのような日なのだろう。何となく空は晴れているような気がする。陽光はあらゆる物体に降り注ぎ、眩いばかりの光が世界を満たす。風も吹いているだろう、あまり強くはないそよ風。どことなく甘い匂いが漂っているんじゃないか。気温は高いが、かといって高すぎもせず、上着を一枚羽織るくらいがちょうどいい。とすると春だろうか? 四季の始まりは、確かに死期にはぴったりなのかもしれない。

 僕は顔を上げ、窓を見る。窓の外には分厚い雲が垂れ込め、日の光は部屋にまで届かない。天気予報では午後から雨だった。時折強い風が木々を揺らし、ザワザワと葉の揺れる音が不気味に聞こえてくる。死ぬには良い日が、今日のような日ではないことだけは間違いない。

「いや、私いやだ」

 病室に少女の泣き声が響いた。僕は窓から柳川さんへと目を戻す。

「死なないでよ、お父さん」

 娘さんが手で顔を覆い、絞り出すように言った。確か明菜といっただろうか。大人しい子で、あまり話したことはない。自分を出すことが苦手な子だから心配だと、柳川さんは言っていたっけ。そんな子が人前で涙を見せている。こんな場とはいえ、父が思っているよりずっと強い子なのではと思う。

 奥さんは明菜の肩を抱き、気丈に振る舞っていた。しかしやはり耐えられなくなったのだろう、指先で涙を拭う。末の息子の優太だけが、父親ではなく僕の顔を見つめていた。この子にはあまり実感がないのだろうと思う。まだ小学校の低学年。この年ではそれも仕方の無いことなのだろう。それでもこれからの光景は、恐らくこの先何年も彼の中に残るはずだ。それもまた仕方のないことだ。

 柳川さんは穏やかな顔で家族たちに語りかける。感謝の言葉を語る。これからのことを語る。自分にはもう関係のないこれからを。全てを語り終えた時、ゆっくりと僕を見た。

「最後に、もう一度確認します。本当によろしいのですね」

 と、僕は言った。その声には、自分で聞いても見事なくらい何の感情もなかった。

「ええ、もちろんです」

 柳川さんは微笑みを浮かべ、肯いた。

 僕は一つ目の注射を手に取る。柳川さんがそろりと右の手を差し出した。明菜が「ひっ」と声を上げ、奥さんが顔を背ける。皮膚の下を通る青い線。動脈と静脈の間に針を差し込む。ほどなく柳川さんの目は虚ろになり、昏睡状態に陥った。

 僕は二本目の注射を手に取る。優太は相変わらず僕の顔を見つめている。その見開かれた目に暗い影が広がっていくのを見て、掌に汗が滲んだ。思わず注射を落としそうになる。

 君のお父さんは放っておいたら半年後には地獄の苦しみでのた打ち回ることになるのだと言ってやりたかった。言葉の代わりに、針を刺し込む。三十秒もかからないうちに柳川さんの胸は上下をやめ、心拍は完全に停止した。

「死亡時刻、十一時三十二分」

 感情を出さず、抑揚もなく、僕は言う。そうすれば、誰の心にも残らない。

「ありがとうございました」

 僕の方を見ずに奥さんは言った。明菜は優太の頭を撫でている。彼はもう僕のことを見ていなかった。ぼんやりとした目で、唇を噛みしめながら父親の姿を見つめている。

 僕は頭を下げ、部屋を出た。


 ポケットからガムの入ったケースを取り出し、三、四粒を掌に落とすと、ガバッと口に入れた。ガムを噛みしめながら、窓から空を見上げる。分厚い雲は日の光をすっかり飲み込んでいる。雨はまだ降っていない。

 柳川さんは膵臓癌のステージ3だった。手術でもどうにもならない。これから訪れる激しい苦痛を前に、どうか死なせてほしいと僕に頼んだ。家族たちは病状を知った時点で、既に諦めていたようだった。それならどうか苦痛の少ないうちにと、そういうわけだ。僕は審査委員会に病状を提出し、既定の通り他の医師にも相談した。間もなく許可は下りた。だから、処置を施した。それだけのことだ。

 安楽死が合法化されてしばらく経つが、処置を施す医者はそう多くない。病院自体が禁止を掲げているところも多く、そのためにうちには死を望む終末患者が全国から集まって来る。その中でも、患者の要望を素直に受け入れる医者は僕だけなので、必然担当になることが多い。

 患者は「死にたい」とはあまり言わない。「この痛みを終わらせたい」と言う。家族は「生きてほしい」と言うが、「これ以上辛い思いをさせられない」とも言う。僕は全員の話を聞き、何度でも話し合いをさせる。書類に落とし込み、委員会に回し、時間をかけて人を殺す正当性を作る。

 積極的安楽死だとか、消極的安楽死だとか、自殺幇助だとか、尊厳死だとか、細かな分類の上に書類と捺印が重なって、ようやく一本の針は法律的に許可される。だが、腕に針が刺さる瞬間、そんな分類なんて全て病室の外へ押し出される。残るのは、死を求める人たちと、死を与える一人の男だけだ。

 そうやって、僕は去年六人を殺した。そういう医者になった。

 もちろん、最初からそうなりたかったわけではない。でも、誰かがやる必要のある仕事で、結果として僕だけが残ったというだけの話だ。


「先生」

 看護師の声で、現実に戻る。僕は診療室の自分の机で、味のしなくなったガムを噛み続けていた。処置を施した後は、しばらく考え事が増えてしまう。

「先生、いいですか。患者さんがいらっしゃってます」

 看護師が、ほんの少しだけ目を伏せる。

「……どなた?」

「新規です。ご家族と」

 そして、彼女はクリップボードを手渡した。

「どうぞ、お連れして」

 看護師が出て行くと、僕はガムをティッシュに吐き出した。

 クリップボードを確認する。透明の板の下に紙が何枚か挟まっている。問診票、紹介状のコピー、検査結果の一覧……処置を求める、初めての患者だ。すぐに次は来る。感傷に浸っている暇なんてない。

 書類に目を通していると、ふと名前が気になった。見覚えがある。一瞬、空調の音が遠くなる。代わりに、耳元で誰かの声が聞こえた気がした。

 間もなくドアがノックされ、ゆっくりと開いた。

「失礼します」

 入って来たのは、車椅子の女性だった。その後から、車椅子を引く父親と、母親が続く。僕は向き直りつつ、ハッと目を見開いた。車椅子の女性が静かに顔を上げた。

 ……彼女だ。

 記憶の中よりも、痩せている。長かった髪は肩より短く切られ、耳の後ろに押し込まれている。目だけは変わらない。人を真っ直ぐに見て、相手に気まずさを与える目だ。

 それは、僕の高校時代の恋人だった。

 大学進学を期に僕は上京し、彼女は地元に残った。大学での忙しい日々の中で、僕は故郷に帰る時間をとれず、そのまま疎遠になってしまった。久しぶりに帰省した時、彼女は既に別の人と結婚していた。それ以来、会っていない。

「どうぞ、お掛けください」

 僕は机の前の椅子を指し、両親に目配せをした。二人は小さく頭を下げ、揃って座る。

 問診票に目を落とす。旧姓に戻っている。喉の奥まで声が出かけ、そのまま止める。

「……お久しぶりです」

 彼女がぽつりと呟いた。僕が問診票から顔を上げると、彼女は口角だけを上げていた。笑ったというより、笑い方を思い出そうとしているみたいだった。

「ああ……うん」

 少し遅れて、僕は声を出す。「やっぱり君だったか。顔を見てすぐに分かったよ」

「お医者さんになれたんだね」

 彼女の声は少し掠れていた。あまり普段話さないのかもしれない。

「うん、なれた」

 それだけ言うと、問診票をめくり、次の紙に目を通した。

 診療情報提供書――。

 脳動静脈奇形が破裂し、半身麻痺に。病変が深部のため手術が困難。もし治療できたとしても再出血のリスクがある……。それらを読み終えると、僕は彼女と向き合った。

「……私を死なせてほしい」

 開口一番に、彼女は言った。

「今日は、安楽死の申請をお願いしに来ました」

 父親が続けて言う。声が震えていた。「本人の意思です。ずっと……話し合ってきました」

 その隣で、母親はハンカチを手の内で握り続けていた。

 僕はペンをとり、カルテの余白に日付を書いた。

「ご本人の状態と、意思の確認をさせてください」

 彼女は車椅子の上で、姿勢を正す。

「今、どんな不自由がありますか」

「右は、動きません」と、彼女は言った。「手も、足も、指も。自分の身体じゃないみたい」

 母親がさらに強くハンカチを握るのが目に入る。

「痛みはありますか?」

「あります」

「どういう痛みですか?」

 彼女は視線を落とした。

「ずっと……じゃないですけど……時々、ズンって、頭の奥が重くなるみたいに痛みが来ます」

「他には?」

「あと、痺れ。何も感じないはずなのに変ですけど……ビリビリと痺れる感じがあります」

「薬で抑えられていますか」

「少しは」と、彼女は言う。「……でも、そんなのは我慢できるんです」

「他にも何か?」

「怖いんです」

 彼女はそっと僕から目を逸らす。「次、また……破裂したら。今度は全部動かなくなるって――」

「植物人間になるんでしょう?」

 耐えきれないように、父親が続けた。

 僕は小さく頷いた。

「意識が長く戻らない状態になる可能性はあります。医療用語では、遷延性意識障害と呼びます」

「……私は、そうなる前に……自分で決められるうちに、終わらせたいんです」

 僕はその言葉を、紙の上ではなく頭の中に書き留めた。昔、進路について語っていた時を思い出す。この子はいつも自分の進む道を誰に相談するともなく決めていたっけ。僕は一緒に東京の大学に行くんだと思っていたのに――。そんなこと、今思い出すべきではないことは分かっている。

「今の生活を支えていらっしゃるのは――」

「私たちです」と、父親が答えた。

「ご本人の意思は、今この場で確認できました」

 僕は形式的な文言を、なるべく形式と思われない調子で口にした。

「ただ、制度上すぐにはできません。複数回の面談と、委員会の審査が必要です」

 母親が小さく頷いた。父親は「はい」と言った。彼女だけが、頷くまでに時間がかかった。

「……何回くらい?」

「必要なだけです」

 と、僕は答えた。「今日はこれで終わります。問診票と、診療情報の写しはお預かりします。追加で必要な検査や書類をお願いするかもしれません」

 彼女は小さく顎を引き、長い息を吐いた。

「次回は――」僕は彼女の目を見た。「皆さんそれぞれと個別に面談させていただきます」

「構いません」

 それから、次回の来院の日にちを決めると、最後にきちんと制度の規則を説明した。

「途中でやめることもできます」

 僕が言うと、父親が小さく息を吐いた。母親はやはりハンカチを強く握りしめた。でも、当の本人だけは固い顔をしたままだった。

「……では、本日はこれで」

 彼女たちが出て行った後も、僕はしばらく椅子の上から立ち上がることができなかった。

 掌で目を覆い、しばし物思いに耽る。今の今まで忘れていたというのに……今やあの人との思い出が、頭の中に溢れていた。

 忘れたままでいた方が、お互いに幸せだったろうに。


 〇


 柳川さんの葬式に出た。斎場は冷えていて、線香の匂いに包まれている。

「先生、本当にありがとうございました」

 遺族たちは僕を白い目で見るどころか、頭を下げ、礼を言ってくれた。

 そんな言葉は必要ないのに、と思う。明菜も母親とともに、何度も頭を下げる。親戚も、友人たちも。優太だけが僕を睨みつけていた。母親の足にしがみつき、敵意のこもった眼差しを向けられる。

 思わず笑いそうになり、咳をして誤魔化した。そんなことで救われた気になる自分を、苦々しく思った。


 〇


 数日後、再び彼女とその両親は病院を訪れた。

 面談室の窓は曇っていて、外の景色がぼやけている。ガラスの向こうで雨粒が細く走り、駐車場の白線だけが妙にくっきり見えた。看護師が父親を先に通し、扉が閉まった。

 父親は背筋を伸ばして座った。膝の上で両手を組み、解いてはまた組む。

「本当は……死んでほしくなんてないですよ」

 しばらく質問を重ねた後、彼は呻くように言った。「でも、あの子が……本当に辛そうで」

「辛そう、というのは」

 僕が問うと、父親は視線を床に落とした。

「あの子は言いませんでしたけど……起き上がれない日があるんです。頭が痛いって」

 そして、バッと顔を上げる。

「体の痺れだって、本当はもっときついはずです。でも、言わないんです。体のことだけじゃない、心だって……本当はもっと――。介護が必要になって、旦那には自分から別れを切り出しました。あの子はそういう子なんですよ。先生も知ってるでしょう?」

 僕が頷くと、彼は手で顔を覆った。

「本当に強い子で、弱音なんて絶対吐かなかった……。でも、そんな子が死にたいって言って来たんです……」

 僕が答えられずにいると、父親は充血した目で僕を見た。「どうして死なないでなんて言えますか?」

 それは僕に向けた問いではなく、自分自身に向けた問いだった。

「……あの子が望むなら、その通りにさせたいんです。親として、間違ってるかもしれない。でも……」

 言葉が途切れた。続きを言えば堪えられないと分かっていたんだと思う。そのまま、頭を下げた。

 次は母親だった。

 入って来た時にはもう目の周りが濡れていた。椅子に座ろうとして滑り落ちそうになり、言葉を発するのにも時間がかかった。ハンカチが掌の中でくしゃくしゃに縮まり、縮まった布は戻らない。

 最初は、付き合っていた当時のことについて話した。彼女の家に行くことも多かったので、この人には何度か会ったことがある。母親は、懐かしそうに目じりを緩めた。

「……親のエゴですけど」

 本題に入ると、彼女はゆっくり、言葉を選びながら答える。「……やっぱりあの子には死んでほしくありません」

 言い切った瞬間、頬を涙が伝った。

「いつまでも私が支えてあげたいって、そう思うんです」

 震える声でそう答え、目にハンカチを押し付ける。

「……本当に大切に育てて……優しい、いい子なんです。どうして、こんなことに……」

 そこからは言葉にならなかった。母親は泣き続け、面談はそこで終わった。終えた、というより、それ以上続けられなかった。

 最後に彼女が入ってきた。車椅子の車輪が床の段差に触れ、小さく音を立てる。看護師が出て行ってしまうと、彼女はほうっと息を吐く。

「ごめんなさい、お母さんが取り乱して」

「いいんだ」

 僕はそう言うと、椅子から立ち上がる。

 窓の外で、雨が弱くなっていた。雲の隙間から光が薄く差し込み、濡れたアスファルトを照らしている。

「雨、上がったね」

 僕が言うと、彼女は窓の方へ視線を動かした。

「ちょっと外に行こうか」

 許可を取るより先に、僕は車椅子の背へ回った。


 雨の匂いの残る歩道の上を、車椅子を押して歩く。

「覚えてる? 最初のデート」

 そっと、僕は呟いた。

「覚えてるよ。公園を歩いたよね、ずーっと」

「ハハ、どこに連れてけばいいのか分かんなくてさ。とりあえず歩けば、何か起きるかなって」

 彼女はクックッと肩を揺らした。

「でも、楽しかったよ。いつまでも喋っていられたし」

「そうだね、楽しかった」

 少し歩くと、病院の敷地内の小さな庭に出る。木の下を通ると、ポツリと水滴が落ちて彼女の頭の上で撥ねた。僕はポケットからハンカチを取り出す。

「正直に言えばさ。どっちでもいいんだよね」

 不意に、彼女は呟いた。

「え?」

「死ぬでも、生きるでも、どっちでも」

 僕は返答に迷い、とりあえずハンカチをしまった。

「でもさ、両親も年だし……介護って、ずっと続くわけでしょう? 負担も、医療費も。色々考えると、今死ぬのが一番いいかなって」

「二人とも、やっぱり生きていてほしいみたいだけど」

 僕がそう言うと、彼女はクスクスと笑う。

「そりゃ、親だもん。そう言ってくれないと悲しすぎるよ」

 そっと、彼女の右の肩に手を置く。彼女は気づかない。

「本当に、後悔しない?」

「後悔とかじゃないんだよ。このまま生きていても、一人だけでは生きられない。誰かに頼るしかない。なのに、もっと悪くなるかもしれない。二度と起き上がれなくなって、喋れなくなって……そうまでして生きていたいとは、どうしても思えないの」

 僕はポケットの中で、ガムのケースを揺らす。小さく、ジャラジャラと音がする。

「君が本気でそう考えているなら、誰にも止めることはできない」

 彼女はうつむき、黙った。それから数分、誰も言葉を発しなかった。水滴が地面に落ちる音だけがやけに大きく聞こえる。

「でも……夏までは生きていたい――かも」

 しばらくして、彼女は言った。

「え?」

「だって、誕生日と命日が同じ日の方が、何かと便利でしょ」

 僕は思わず渇いた笑いを浮かべてしまう。

「そうだな……今から準備を始めるとして」

 僕は口の中で季節を数えた。冬。春。梅雨――その先。

「夏までは、伸ばせると思うよ」

 そして、彼女の肩を握る手に力を込める。

「その間に、もう少し一緒に考えよう」

「何を?」

「『どっちでもいいこと』について」

 彼女は返事をしなかった。代わりに、肩の力が抜けた。重い息を吐いてしまうと、最後に言葉だけが残った。

「……うん」


 僕は委員会への対応を急がなかった。必要な検査の段取りを少しずつ後ろへ回す。面談の日程も詰め過ぎない。診断書の作成に時間をかける――問題のない範囲で時間を稼ぐことにした。

 その間、彼女と話した。診療室で、談話スペースで、公園で。売店のコーヒーを買って、窓の外の木が枯れていくのを眺めながら。高校時代の話もしたし、互いに相手の知らない時代の話もした。僕が東京で見て来たもの、彼女が故郷で積み上げて来た日々。結婚してからのこと。離婚した日のこと……。

「先生さ」

 ある日、彼女が紙コップの縁を指でなぞりながら言った。先生、という響きにどこかからかいが混ざる。

「昔より静かになったよね」

「そうかな」

「もっとお調子者だったじゃない」

「まあ、大人になったってことだろうね」

 僕はわざとらしく肩をすくめた。

 彼女は薄く笑い、「なんかムカつく」と言った。


 正直に言えば、僕は彼女に死んでほしくはなかった。

 でも、そんなこと絶対に口にできない。「残された人の気持ち」だとか、「命の尊さ」だとか――無責任に口にされた「死ぬな」が誰のためにもならないことは、痛いほど知っているから。

 彼らが僕の元を訪れる時、大体の場合、答えは既に出ている。痛みが限界を超え、身体が崩れ、家族が消耗した末に「お願いします」に辿り着く。そこから「やっぱりやめよう」となるには、別の支えが必要だ。支えになるというのは、励ますだけではない。毎日傍にいて、その痛みを共に受け入れることだ。

 僕は支えにはなれない。医者と患者としてならできるが、彼女の生活を背負うことはできない。

「生きていてほしい」は、覚悟のいる言葉だ。どうしてそんな無責任なことが言えるだろう。彼女を自分が介護するわけでもないのに――。

 そんなことを考えながら、家に帰る。ドアを開けると、

「お帰り、パパ!」

 小学生の娘が走って迎えてくれた。

「ただいま」

 抱き上げると、娘は僕の首に腕を回し、頬を押し付けて来る。その温もりが、病院で凍えた心を溶かしてくれる。

 リビングに入ると、妻が料理をしていた。その膨らんだお腹を見て、改めて思う。

 僕にはあの人の人生なんて背負えない。だって、背負うべき人生はここにあるから。


 春が来て、病棟の窓から見える木が色づいた。彼女は談話スペースで外を見ながら「最後の桜かな」としみじみ呟く。僕は「また見れるよ」と答えた。

「最近……あの子、よく笑うんです」

 彼女の父親との面談をしていると、そう言って彼は笑った。「補助をしても、前みたいに申し訳なさそうな顔をしなくなったし……それが嬉しいんです」

「それはよかった」

「だから……期待してしまうんです。あの子が、生きていようって思い直してくれるんじゃないかって。もっと一緒に生きられるんじゃないかって」

 僕は口を開いたが、やっぱり何も言えなかった。

「でも多分、そうじゃないんですよね。ええ、分かってます」

 口元を抑え、うつむく。「変ですよね。前までは希望が欲しかったのに。でも、いざ希望が湧いたら……辛くて溜まらない。あの子といる時間が続けば続くほど……」

「お気持ちはよく分かります」

「……あなたは残酷ですよ」

 僕を睨みつけながら、声を震わせて彼は言った。

「申し訳ありません」

 僕は、ただただ頭を下げるしかなかった。


 ある日、診療室に戻ると机の上にメモが置いてあった。

『ご家族より処置前倒しの要請あり。説明責任未履行の指摘あり。至急、面談記録を提出のうえ、処置予定の再検討および方針の提示を行うこと』

 僕はメモを拾うと、引き出しを開ける。中には同じようなことの書かれた紙で山ができていた。中に放り込み、そのまま閉める。

 ポケットからガムのケースを取り出す。最後の二粒だった。少しの間、掌の上でガムを転がして、口に放り込む。そして、空になったケースをゴミ箱に捨てた。


「聞いたよ。お父さんと揉めたんだって?」

 前方の車椅子の上で彼女は言った。心地よい風が吹き、彼女の髪を揺らす。

「まあ、色々とね」

「ごめんね、私のせいで」

「いいんだよ。こういう仕事だとよくあることだから」

 僕は車椅子を押し、来た道を引き返す。

「奥さん、そろそろでしょう?」

「うん。今、臨月」

「なんだか不思議だね。あなたはさ、この短い間で死と誕生に立ち会うわけだ」

「そういうことになる」

「予定日って、もう分かってるの?」

「確か――」

 僕は彼女に出産の予定日を告げた。

「じゃあ、私もその日にしようかな」

「何でだよ?」

 僕は驚き、思わず立ち止まってしまう。

「だって、忘れられないでしょう?」

「……ずるいよ」

 彼女は何も言わなかった。ただ、その肩がわずかに震えている気がした。


 そして夏が来た。

 病棟の空気は空調で冷やされているのに、いつも熱を感じる。窓の外が眩しく、蝉の声が絶えず聞こえているからだろうか。彼女は窓際で、手の甲を光にかざした。指をゆっくりと、開いたり、閉じたりする。皮膚の上から、血の色が淡く透ける。

「ありがとう、わがまま聞いてくれて」

「いいんだ」

 彼女は僕を見る。

「暑いね」

 そう、噛みしめるように言った。

「夏だからね」

 と、僕は答えた。


 処置の日、彼女は病衣の上に薄いカーディガンを羽織っていた。明るい黄色だった。好きだと言った夏にわざわざ似合う色を選んだのかもしれないし、母親が選んだのかもしれない。どちらでもよかった。彼女にはとても似合っていたから。

「ごめん、終わったらすぐに連絡するから」

 僕はスマホをポケットにしまう。

 それから、一つ息を吐く。ガムが欲しかった。

 病室に入ると、両親は隅に座っていた。父親は膝の上で手を組み、母親はハンカチを握り潰している。涙はまだ出ていない。

 僕と彼女は目を合わせた。目が合うと、言葉が出なくなる。でも、お互いの考えていることはなんとなくわかる。昔からずっとそうだった。

「ねえ」

 彼女が言った。声は小さい。「今日、いい天気だね」

 僕は窓を見る。雲一つない青空。光は病室の床にまで届いて、ベッドの柵の影を長く伸ばしている。

「ああ、いい日だ」

 僕は答えた。それ以上の言葉は、口にしなかった。

「夏、好きなんだ」

 彼女は小さく言うと、まぶたをゆっくり閉じた。麻痺のない側の指が、シーツの端をそっと摘まんだ。

 僕は最終確認をする。声はいつもの通り平坦で、必要なこと以外は喋らない。

「本当に――よろしいですか」

 彼女は目を閉じたまま、頷いた。両親も、静かに頷く。

 一本目の注射器を手に取る。透明の筒の中で液体が揺れる。彼女の腕を取り、皮膚の下を通る青い線へと針を差し込む。

 彼女は最後にもう一度目を開ける。母親を見て、父親を見て、最後に僕を見る。薄く笑みを浮かべると、彼女は眠りに落ちるように目を閉じた。

 僕は二本目を手に取る。

 母親の喉が鳴った。父親の肩がわずかに揺れた。二人とも声を出さない。声は、もう必要なかったから。

 夏の光は変わらない。蝉の声も変わらない。機械の音だけが種類を変え、波形が一直線になる。線になったまま、戻らない。

「死亡時刻――」

 僕は言いかけて、そこで一瞬だけ息を止めた。

 ポケットの中で、スマホが震えている。

「っ――」

 言葉にならない。頭の中で色々な感情が一緒くたに混ざり合った。溢れ出そうになる感情を、何とか飲み込む。

「死亡時刻、十時十六分です」

 時刻を告げる声はいつもの通り何の色もなく、機械的に響き、そして誰も聞いてなんかいなかった。両親はベッドの彼女にすがりつき、僕のことなんて忘れてしまったようだ。


 廊下に出ると、僕はポケットの中からスマホを取り出し、画面を眺める。でも、ぼやけて何も見えなかった。廊下を歩きながら、スマホを耳に当てる。

「……生まれた?」

 返事を聞いて、僕は一度だけ頷く。「そうか、うん……。こっちも終わったよ」


 窓の外では、強い光が世界を満たしている。

 僕は一人、影が伸びた廊下を歩き続けた。

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