第二章:反発と抵抗
恵の提案がもたらした熱は、しかし、長くは続かなかった。
翌日の昼休み、教室の空気は熱湯に氷を投げ込んだように、急速に冷めていった。
「宮前の個人的な事情に、クラス全体を巻き込むのはおかしくないか?」 口火を切ったのは、クラスでも常に成績上位にいる男子生徒だった。彼は腕を組み、冷ややかな視線を恵に向ける。
「俺たちは、大学受験を控えてるんだ。ただでさえ時間がないのに、なんで一人の道楽のために、貴重な勉強時間を割かなきゃならないんだよ」 正論だった。
そして、その正論は、口に出さずとも多くの生徒が感じていた本音でもあった。昨日まで賛同の声を上げていた数人でさえ、気まずそうに視線を逸らす。進学校という名の船に乗っている以上、「受験」は絶対の羅針盤なのだ。
追い打ちは、学校側からもたらされた。放課後、恵は担任に職員室へ呼び出された。 「木村、お前の気持ちは分かる。だが、学校としては一人の生徒だけを特別扱いするわけにはいかない」 教師は、面倒ごとを避けるような疲れた顔で言った。
「合唱コンクールでソロパートを設けるなど、前例がない。それに、体育館の音響機材――マイクやスピーカーの使用も、コンクールの規定上、許可できない」 壁は、想像以上に厚く、高かった。恵は、なすすべもなく職員室を後にした。
自分の考えが、いかに甘く、無力だったかを思い知らされる。 教室に戻り、学校側の決定を報告すると、クラスは決定的な諦めのムードに包まれた。
「やっぱり無理だよな」「まあ、そうなるよな」。そんな囁きが、重い湿気のように床に溜まっていく。静香は、唇を噛んで俯いていた。
その隣で、順子が心配そうに肩をさすっている。
恵は、二人にかける言葉すら見つけられなかった。
(私のせいだ……。余計なことを言って、かえって静香を傷つけてしまった……) 熱を失った空間で、時間だけが気まずく過ぎていく。
もう、誰も何も言わなかった。この話はこれで終わりなのだと、誰もが悟っていた。
その、重い沈黙を破ったのは、藤原浩一だった。 それまで窓の外を眺め、全てを静観しているように見えた彼が、何の気配もさせずにすっと立ち上がった。クラス中の視線が、音もなく彼に集まる。 浩一は、感情の読めない静かな瞳で、ゆっくりとクラスを見回した。
そして、静かに、だが芯の通った声で言った。
「例年通り、ただ参加するだけでいいと思ってる奴は、それでいい。内申点のためだけにやるっていうなら、それでも構わない」
彼は、反発した男子生徒を否定しなかった。クラスに漂う諦めの空気も、ただ受け入れた。
「でも、俺たちは、宮前のために最高のステージを作りたいと思ってる。だから、頼む」 浩一は、小さく頭を下げた。
「お前たちの気持ちを無理に変えようとは思わない。ただ、俺たちがやろうとしていることを、邪魔しないでほしい。クラスメイトとして、少しだけでいい。協力してくれないか」
それは、情熱的な演説ではなかった。だが、自分の本心を押し殺し続けてきた浩一が初めて見せた、静かで、しかし何よりも固い意志の表明だった。彼の言葉は、冷え切った教室の空気を、再び震わせるだけの熱を確かに持っていた。
誰も、反論の声を上げなかった。浩一はそれ以上何も言わず、静かに自分の席に座った。 諦めムードが完全に消えたわけではない。だが、クラスの中にあった分厚い氷に、確かな亀裂が入った瞬間だった。




