第一章:秘密のプレリュード
むっとする熱気が教室に満ち、窓の外ではうんざりするほど蝉が鳴いていた。期末試験が終わり、明日から始まる夏休みに誰もが浮き足立っている。
そんな解放感と、来年に迫った受験への焦りが奇妙に同居する7月の放課後。第二音楽室に、いつもの仲間たちが集まっていた。 倉前順子が奏でるショパンの『別れの曲』が、西日に染まる部屋に切なく響く。
その最後の音が消えるのを待って、宮前静香が口を開いた。
「私、東京に行く。歌手になりたいの」
まるで硬い決意を一つずつ確かめるように、静香は言葉を続けた。
夏休み中に最後のオーディションがあること。それに受かれば、文化祭を最後に学校を辞め、上京するつもりだということ。
「は? 何言ってんだよ、静香」 村上豊の間の抜けた声が、重い沈黙を破った。恵は言葉を失い、ただ親友の顔を見つめる。
静香の瞳は、冗談を言っている人間のそれではなかった。
一人だけ、藤原浩一は黙って窓の外を眺めていた。仲間たちの動揺を遮断するように、彼の横顔は冷静そのものに見えた。
だが、机の下で、彼の指が制服のズボンを強く握りしめているのを、恵は見逃さなかった。
(やっぱり……) 恵が抱いていた微かな疑念が、確信に変わる。
静香が時折浩一に向ける視線と、それを受け止めようとしない浩一の硬い表情。
それは、ただのクラスメイトの距離ではなかった。
あの夜、浩一は自室のベッドに沈み込み、闇の中で天井を睨んでいた。
耳の奥には、数時間前の静香の声が、まるでレコードの最後の溝のように何度も繰り返されている。受話器を握りしめていた指が白くなるほど力を込めていたことを、今になって思い出す。
『ごめんね、浩一。私のわがままで』 その声は、涙で震えているのに、どこか未来への期待に輝いているように聞こえた。
それが、浩一の胸をナイフのように抉った。
『……謝るなよ。お前が決めたことだろ』 そう答えるのが精一杯だった。本当は、喉の奥までせり上がってきた言葉があった。『行くな』。その一言が、叫び声になって口から飛び出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。その腕を掴んで、どこにも行かせないと、引き留めたかった。
だが、浩一の脳裏には、去年の夏祭りの光景が焼き付いていた。小さな野外ステージで、楽しそうに、そしてどこまでも自由に歌う静香の姿。彼女が歌う時、彼女自身が光になることを、浩一は知ってしまったのだ。
彼女から歌を奪うことは、その光を消し去り、彼女の魂を殺すことと同じだった。 だから、言わなければならなかった。自分の本心を、分厚い嘘で何重にも塗り固めて。
『お前の夢を、応援したい』 それは、彼女に捧げる最大限の愛情であり、自分自身に対する、最も残酷な裏切りだった。ガラスの破片を飲み込むような痛みを伴うその約束を交わした瞬間に、二人の未来は決定的に分かれたのだ。
残酷なほどに青い空の下、最後の夏休みが始まった。隣を歩いて笑い合う一瞬一瞬が、まるで借り物のようにきらめいては消えていく。線香花火の最後の火花が落ちるように、二人の時間は刻々と終わりに向かっていた。
長い夏休みが終わり、二学期が始まった日。静香は、オーディションに合格したことを仲間たちにだけ、そっと告げた。
浩一はその報告を、仲間たちと同じ輪の中で、平静を装って聞いた。おめでとう、と口の端で笑みを作りながら、心の中では、東京行きの列車が走り出す無慈悲な号砲の音を聞いていた。もう、引き返すことはできない。
九月のホームルーム。文化祭の出し物について、担任の斉藤先生が事務的に説明している。「……参加は任意だが、クラスとして何か出すのが望ましい。これは、お前たちの将来のための、社会性を学ぶ良い機会でもあるからな」その言葉の裏にある「内申書」の存在を、誰もが理解していた。どうせやらなくてはいけない義務。クラス全体が、そんな諦めの空気に支配されていた。
その空気を破ったのは、木村恵だった。すっと立ち上がった彼女は、教壇の前に立つと、クラス全員を見回して言った。
「提案があります。今年の合唱コンクール、宮前さんのためのステージにしませんか」 ざわめきが起こる。
当の静香が、驚いて恵を見つめた。
「静香のソロパートを作るの。彼女が、この湊高校で歌う最後のステージになるかもしれないから。どうせやるなら、私たち2年B組の仲間として、最高の形で送り出してあげたい。……どうかな?」
夏の間、ずっと考えていた。親友の覚悟と、二人の秘密の恋。自分にできることは何か。答えは一つしかなかった。恵の真剣な眼差しが、クラスメイトたちの心を射抜く。
浩一は、壇上の恵と、戸惑いながらもその瞳に確かな光を宿し始めた静香を、ただ見つめていた。胸の痛みは消えない。
だが、光が差し込んだような気がした。 幕は、上がろうとしていた。切なく、そしてどうしようもなく眩しい、彼らの17歳だけのステージの幕が。




