ホワイトリスト
朝、やかんの蒸気だけが白く上がり、台所はほぼ無音だった。私は流しの縁に手を置き、湯の匂いを確かめる。寝室のドアが開く。夫が歩いてくる。床板はわずかに沈むが、耳には何も入ってこない。新しいイヤフォンは、外の世界の音をほとんど消してしまう。私の世界は、必要なときに必要な声だけを通すよう編集されている。
「おはよう」
届いた声は、低めで落ち着いていた。私はコーヒーを落としながら、初めて互いの声紋を登録した日のことを思い出す。アプリが「相手の許可を得て登録」と画面に表示し、私たちは並んで同じ文を何度も読み上げた。最後に「許可しました」が同時に点灯し、その瞬間から、雑音は遠のき、彼の声だけが輪郭を持って近づいてきた。あれは少し誓いの儀式のようでもあった。
「今週末、母さんのところに寄る段取り、早めに決めようか」
私はうなずく。彼の唇の動きは少し急いでいるのに、耳に届く声には焦りの成分はない。イヤフォンは相手が高ぶっても声のトーンを整えてくれる。便利だと分かっていても、ときどき温度が抜け落ちている気がして、どこに本音があるのか分からなくなる。
夕方、職場の更衣室でイヤフォンを外すと、音が一気に戻ってきた。ロッカーの金具が鳴り、ヘアドライヤーが空気を巻き込み、誰かが笑う。音は重なり、私の肩にのしかかる。数十秒もたたないうちに再び装着し、世界を静かに閉じる。外側と内側の境界が、耳の中に一本の線として引かれる。その線の内側にいると安心するが、ときどき寒さも覚える。
帰りのバスでは窓の外を見ていた。横を走る自転車の少年が友だちに向かって何か叫ぶ。口は大きく動くが、音はない。私は端末でホワイトリストを確認する。夫、上司、夫の姉、クリーニング店。名前の横に小さなチェックがついている。義母の名前は入れていない。まだ迷っている。今日は寄らないから、問題は起きないはずだ、と自分に言い聞かせる。
夜、食卓に皿が並ぶ。箸が当たるはずの音も、水がグラスに触れるはずの音も、私の世界には入ってこない。彼の声だけが、テーブルの上に灯りのように落ちる。
「今週末の移動、俺が運転して、途中で実家に寄って——」
「全部自分でどんどん決めるのね」
言ってから、胸の奥で躓いた。言い方を選び損ねたと分かる。彼の眉がわずかに動く。喉ぼとけが速く上下する。私は端末の小さなスイッチに触れ、彼との会話に感情フィルターをかける。乱れた声は、穏やかな音色に整えられて届く。
「そういう言い方、しなくてもいいだろ」
耳に届くのは落ち着いた声だ。けれど目の前の彼は、少し早い呼吸をしている。音が整えられるほど、体の動きとのずれが際立つ。私の返事は、宙に浮いたまま着地できない。怒りが届かなければ反発の機会も失われ、謝るタイミングも見失う。
「怒ってるの?」
「怒ってない」
言葉はそう言う。整った音の向こうに、言外の温度が見える。違和感は薄い膜のように残り、指先で破ろうとするほど、膜はむしろ強く張る。
食後、彼は書斎で仕事を始めた。私は洗面所で歯を磨き、鏡越しに自分の顔を見ながら考える。誰の声を、どれだけ許可すれば安心なのだろう。許可された関係は近づくのか。それとも、許可という手続きが、互いのあいだに透明な壁を立ててはいないか。
リビングに戻り、私は夫との会話だけ感情フィルターをオフにしてみる。怖さは少しあった。けれど今夜は、本当の温度で話がしたかった。書斎のドアをノックし、「ねえ」と声をかける。彼は画面を見たまま手だけ上げ、待つよう合図をする。返事が来ない数秒が長く感じられる。彼の端末でも、私はホワイトリストのままなのだろうかという考えが、波のように押しては引く。
やがて彼は肩の力を抜き、「ごめん、今詰まってて」と言って振り向いた。届いた声は少しかすれて柔らかい。私は一歩だけ近づく。
「週末のこと、一緒に行こう。行きたくないなら、言ってほしい」
彼が私の左後方にある何かを見ながら、あるいは見るふりをしながら申し訳なさそうに言う。
「行きたいよ」
思いの外自分の声がまっすぐなことに戸惑う。私の声は彼にどのように届いているのだろう。
夜更け、彼は先に寝室に入った。私はリビングの灯りを落とし、ソファに座る。イヤフォンを外すと、遠くで犬が二度吠え、どこかのドアが閉まる音がした。小さな音がいくつか生まれては消え、部屋の空気がわずかに震える。聞こえないものの存在を確かめたくなる夜は、ときどきやってくる。
テーブルの上の端末が光り、夫の姉からメッセージが届く。「母の検査が来月になりました。日程がわかったらまた連絡します。無理はしなくて大丈夫。一応報告です」とある。私は「承知しました。ご連絡ありがとうございます」と返し、迷っていたホワイトリストの義母の欄にチェックを入れる。許可するという行為は、相手に「近くにいていい」と伝えることだ。優しさにもなるし、緊張の種にもなる。刃物のように、間違えたらまず自分の手が傷つくことも分かっている。
寝室に入ると、彼は眠っていた。枕元に彼の端末が伏せられている。触れたい衝動を抑える。代わりに自分の端末を開き、夫の欄の設定をもう一度見る。感情フィルターをオンに戻す。私が欲しいのは、関係の安定か、会話の生々しさか。どちらかに決められない夜は、仮の静けさに身を置くしかない。
金曜の夕方、フロアに残るキーボードの打鍵がまばらになったころ、私は窓際の席で日報をまとめていた。イヤフォンの片方を外すと、空調の低い唸りが戻る。背後で「おつかれさま」と声がして、井上課長が紙コップを差し出した。ホワイトリストに登録している数少ない職場の声のひとつだ。
「来週、先方の新製品の内覧会があるんだ。もし時間が合えば、一緒にどう?」
誘い方は控えめで、仕事の延長にきちんと収められている。私は予定表を開くふりをして、しばらく画面を見つめる。胸の内側に、小さな結び目のようなつながりができているのを自覚する。返事を遅らせればほどけそうで、早ければ強くなる。
「すみません、その日は義母のことで動くかもしれなくて」
断りの言葉は穏やかに選んだ。彼は「そっか、また今度」と笑って引いた。声だけを聞けば、ただの業務連絡と変わらない落ち着きだ。それでも、紙コップに生まれた指の跡の温度を、私は不意に覚えてしまう。帰り道、端末のホワイトリストを見直す。上司の名前の横のチェックは、そのままにしておく。消すほどでも、近づけるほどでもない場所に、しばらく置いておくしかない。
週末、車で義母の家へ向かう道。助手席で私はイヤフォンを外し、窓を少し開ける。潮の匂いが入り、風が髪を押し上げる。道路脇の雑草が揺れ、タイヤが路面の継ぎ目を拾う音がまっすぐ届く。彼はハンドルを握り、横顔は集中している。
「帰りに寄りたい場所があるの」と私は言った。
「どこ?」
「海。あなたが最初に私の名前を呼んだ場所」
彼は短く笑い、その笑いは空気を震わせて車内に広がった。私はホワイトリストの画面を閉じ、ポケットに戻す。今日だけは、許可のいらない音たちを少し間借りしてもいい。
海は誰にも登録されず、風は誰の承認もいらない。二つの音に混ざって、彼の声が届く。間違いなく、私が許可した相手の声だ。でも「登録」という言葉は、耳の中でほどけて別の意味になる。聞く、という意味に。
私はうなずいた。窓の外で世界が追い越してゆく。そのなかで、私たちは同じ速度で並んでいた。ホワイトリストは静かに眠り、聞こえるものと聞こえないもののあいだに、細い橋が一本だけ架かっている。いまのところ、それで足りている。
ChatGPT-5にノイズキャンセリングイヤフォンについての架空の設定を与えて物語を書いてもらい、必要と思った場所にエピソードをひとつ挿し挟んでもらいました。そして公開してからちょっとずつ文章の体裁を整えています。
それにしてもChatGPTの初稿は十分な出来映えでした。