婚約破棄も存外悪くない ~家を飛び出した私と小さなティールーム~
アナイス・ドゥラノワはソファに腰かけ、じっと婚約者のクレマンを見つめていた。
先日十九歳になったばかりの彼女の胸は、不安でいっぱいだった。
目の前で深々と頭を下げるクレマンは、いつもの穏やかな彼とはまるで別人に見える。
顔は青白く、両手は小刻みに震えている。
部屋には両親と妹もそろっていたが、その場の空気は重苦しく張りつめていた。
「アナイス、婚約を破棄してほしい」
クレマンは膝をついて深く頭を下げる。
その声は掠れ、まるで病人のようだ。
婚約破棄?
アナイスの心臓が大きく跳ねた。
二人は決して仲が悪かったわけではない。
小さな喧嘩さえしたことがないくらいに良好だった。
クレマンは、絞り出すように言葉を続けた。
「ドゥラノワ伯爵……実は……セシルと、その……」
もごもごとした喋り方と、何故か出てきたセシルの名前に、その場の空気が変わった。
セシルはアナイスの妹である。
二人の父である、ドゥラノワ伯爵の眉がぴくりと動く。
「わたし、子供が出来たの!」
母親の横にちょこんと座っていたはずのセシルが、突然声を上げた。
ドゥラノワ伯爵の顔が、みるみるうちに真っ青になっていく。
しかし、母親は違った。
「まあ!」と声をあげて、セシルを抱き寄せたのだ。
アナイスの母は十六歳で父と結婚した経験から、早い結婚が良いと考えていた。
そして何より、自分と同じ髪と瞳の色を持つセシルを溺愛していた。
小さな頃からセシルは、ドレスの色から髪飾りの種類まで、アナイスが選ぶものをすべて欲しがった。
ピアノのレッスンを始めれば自分も、乗馬を習えば自分も、刺繍を学べば自分もと。
しかし、乗馬は馬を怖がってすぐに止め、刺繍は針で指を刺して放り出した。
唯一続いたのはピアノレッスンだけ。
これは、アナイスが途中でやめたからこそ、意地になって続けていたようだった。
本来ならアナイスは、十六歳で婚約者のクレマン・ボナールと結婚するはずだった。
しかし、十六歳の頃から、クレマンの家業である貿易の役に立てればと経営学を学び始め、それに夢中になってしまった。
もう少し続けたいと両親に頼みこみ、結婚は十九歳まで延期になった。
その間にクレマンと妹セシルの関係が深まってしまったのだという。
アナイスは呆れ、ため息をついたあとに吹き出した。
目の前にいる婚約者が、一瞬にして得体の知れない気持ち悪いものに見えてきた。
「破談で構いません」
自分の冷静な声に、アナイス自身が驚いた。
まるで他人事のように、あまりにもあっさりと口から出ていた。
クレマンはぽかんと口を開け、セシルも目を丸くしている。
「では、私はこれで失礼いたします」
そう言い残し、アナイスは背筋を伸ばして部屋を出て行った。
廊下を歩きながら、アナイスはまた吹き出す。
婚約が破談になったのに、こんなに普通でいられる自分がおかしかった。
ふと、幼い頃から何度も聞かされた母の言葉が頭をよぎる。
「あなたが生まれた時、髪も目もお父さんそっくりでがっかりしたのよ」
その言葉を聞くたび、どうしようもなく傷ついていた幼い自分を思い出す。
アナイスは深いため息をつき、自分の部屋へと入った。
――二日後
ドゥラノワ家の書斎に、両家の当主が向かい合って座っていた。
長い謝罪と短い話し合いの結果、アナイスとの婚約破棄、セシルとクレマンの婚姻が決定した。
お腹に子供がいる以上、これ以外の選択肢はなかった。
帰り際、ボナール伯爵夫妻はアナイスに頭を下げる。
「アナイス、君が我が家に来てくれることを、ずっと楽しみにしていたんだ」
伯爵は今にも泣きそうな表情を浮かべ、夫人は涙を拭いながら何度も謝罪の言葉を口にした。
二人はアナイスのことをとても気に入っていた。
将来の為にアナイスが経営を学んでいると知った時、ボナール伯爵はたいそう喜んだ。
それだけに、今回の破談は余程ショックだったのだろう。
アナイスも、こんな落胆した二人の姿を見るのは、婚約を破棄したことより胸が痛んだ。
「あのっ! おとうさま!おかあさま!」
突然の大声に皆が一斉に振り返る。
そこにはセシルが立っていた。
淡いピンク色のドレスを着て、両手を胸の前で組み、なぜか目に涙を浮かべている。
こんな日だというのに、蜂蜜色の髪は母の手で綺麗に結い上げられていた。
少し離れた場所にはクレマンが立っている。
アナイスは心の中で小さくため息をついた。
セシルは今自分がどれだけ失礼なことをしているのか、わかっていない。
誰からも本気で叱られることなく、甘やかされて育ち、十六歳で身ごもった妹。
ボナール伯爵の困惑した表情と、クレマンの気まずそうな顔がその場の空気を物語っていた。
ここにいても仕方がないと、アナイスがその場を離れようとした時、セシルが呼び止めた。
「待ってお姉さま! 花嫁のヴェールにレースをつけてほしいの!」
「え?」
この国には古い慣習がある。
花嫁になる者は、婚礼で身につけるヴェールに刺繍を施さねばならない。
姉の婚約者を奪いながら、その姉に結婚の支度を手伝わせようとするセシルに、アナイスは言葉を失った。
ボナール伯爵夫人は両手で口を覆い、顔を強張らせている。
セシルの声を聞きつけた両親が、慌てて部屋から飛び出してきた。
伯爵夫妻の前で、取り繕うようにセシルを止めに入る姿が滑稽に見える。
セシルはふくれっ面をして、甘えた声で母に何かを言っている。
十六歳にもなってこの幼さ――それなのに妊娠しているという現実に、アナイスは寒気がした。
「……失礼いたします」
アナイスはボナール伯爵夫妻にあらためて一礼し、足早に自分の部屋へ駆けこんだ。
クレマンの顔は、一度も見ることがなかった。
✧✧✧
部屋に入ると、テーブルの上にボンボンショコラが山盛りに用意されていた。
その横には『お飲み物が無くて申し訳ございません」と、侍女の文字で可愛いメモが添えてあった。
紅茶はすべてボナール家からのものなので、きっと気を遣ってくれたのだろう。
アナイスはボンボンの包みを開け、口の中に放り込んだ。
ショコラの香りと、中に入っているアプリコットのジュレのフルーティな甘さが口に広がる。
「んーーーーっ!」
あまりのおいしさに頬を押さえた後、アナイスは大きく伸びをした。
もう夕刻だというのに、朝から何も口にしていなかった。
それにしても、今の自分の感情がどうも整理がつかない。
怒りや悲しみではなく、なぜかすっきりとした胸のつかえがとれたような気分……。
婚約者だったクレマン・ボナール。
伯爵家の三人兄弟の長男で、弟たちはまだ8歳と10歳。
クレマンとは幼い頃に「将来の旦那様」と紹介され、それが当たり前だと思っていた。
もちろん彼のことは嫌いではなかった。
金色の髪に青い瞳の彼は、初めて会った時に童話に出てくる王子様みたいだと思っていた。
「婚約者」という響きにときめき、これが恋なんだと思っていた。
しかし、成長していく過程で、気になるところが増えていった。
ボナール家は貿易を営み、近年は茶葉の扱いで成功を収めている。
国内の茶葉シェアの多くを占めるほどだ。
穏やかで少しのんびりしたクレマンは、勉強が得意ではなかった。
家業を何となく継ぎ、父であるボナール伯爵のようにやっていけると思っている節があった。
アナイスが経営学を学びたいと言うと「そんなこと必要ないだろ」と一蹴され、不信感が募った。
十九歳を迎え、楽しかった勉強が終わってしまった。
結婚のことを考えるだけで、なぜか気持ちが沈んでしまう。
友人たちは幸せそうに結婚前を過ごしていたのに、私はどうしてなんだろう。
この不安や落ち込みは、マリッジブルーなのだとアナイスは考えていた。
でも、今回の婚約破棄ではっきりした。
もちろん妹の不義による妊娠は驚きだったけど、それ以上に大きいのは解放感だ。
小さい頃に家同士で決められた婚約者。
好きだと思っていたけど、それは恋心とは全然違っていた。
結婚のことを考えるたび、憂鬱な気分になっていた正体が、やっと理解できた。
――私はクレマンのことを愛していなかったんだわ。
アナイスはふうっと息を吐き、またボンボンの包み紙をあけた。
口に入れると、今度は濃厚なガナッシュが溶け出した。
「んんーーっ」
また満足そうに頬を押さえ、ふと考える。
自分は大丈夫とはいえ、これから周囲で噂が立つのは避けられない。
社交界はスキャンダルと色恋が話題の中心だ。
妹に婚約者を取られた姉……しかも相手は、この街では有名な貿易商ボナール伯爵の令息となれば、格好のネタになってしまう。
廊下から、母と誰かの話す声が聞こえ、足音が近づいてきた。
またセシルが何かしているのかもしれない……。
アナイスは、急にこの家にいることに耐えられなくなってきた。
喉もカラカラに渇いている。
しばらく考えたあと、アナイスは歩きやすい靴に履き替え、小さなバッグを持った。
厨房へ行き、侍女にボンボンのお礼を伝えると、少し外に出てくると言って屋敷を後にした。
✧✧✧
夕方の街を歩くのは久しぶりだった。
それでも風は軽やかで、空気は澄んでいる。
屋敷に漂っていたあの重苦しさが嘘のようで、アナイスは思わず頬をゆるめた。
アナイスは、街の中心部とは反対に向かう石畳を、ただ黙々と歩いた。
いつもは馬車で通る道も、こうして自分の足で進むと気分転換になる。
向かっているのは、小さなティールーム。
三年前、勉強の合間の息抜きに散歩をしているとき、偶然見つけた小さなお店だ。
この街には珍しく、とてもシンプルな外観。
白い外壁にブラックウォールナットの扉、建物の正面には黒いアイアンで作られた控えめな「Daryl's Tea Room」の文字。
格子状の窓には金の装飾が施されていた。
開店したばかりだといっていたこの小さなティールームが、アナイスにとって特別な場所となっていった。
飲み物はストレートティーの一種類のみ。
それでも、ここの紅茶は特別だった。
ボナール家が輸入する茶葉とは全く違う、華やかな香りと美しい紅色。
オーナーが個人的に仕入れていると聞いて、アナイスは驚いた。
菓子はバタークッキーやビスケットが中心で、時折タルトやマフィンが並ぶこともあった。
そして何より、氷砂糖を果実のシロップに漬けたものが格別に美味しい。
少し紅茶に入れるだけで、まったく違う味が楽しめる。
それを、異国から取り寄せたという美しい茶器でいただくのが、アナイスの楽しみの一つだった。
この店を切り盛りしているのは、二人の男性。
一人は給仕を担当するグレゴリー・エヴァンス。
銀髪に眼鏡をかけた紳士で、その洗練された所作は全く隙が無くて完璧だ。
そしてもう一人が、オーナーのダリル・アッシュベリー。
「ダリルさん……」
三年前のことを思い出しながら歩いているアナイスの足がぴたりと止まった。
ダリルのことを思い浮かべると、少しだけ胸がくすぐったい気分になる。
黒に近い褐色の髪に、吸い込まれるような菫色の瞳。
ダリルに美味しい紅茶のことを尋ねてから、どんどん親しくなっていった。
勉強に行き詰ると店を訪れ、経営の話や知らない国の話を教えてもらった。
ダリルと話しているとき、アナイスはこれまでにない感情を自分が抱いていることに気づいた。
けれど、私にはクレマンという婚約者がいる……。
だからこの気持ちは、ただの憧れに過ぎないと思っていた。
「ふぅ」
小さくため息をつくと、アナイスは再び歩き出す。
今日は勉強を終えてから、約一か月ぶりにティールームを訪れることになる。
ここ数日、いろいろなことが起こりすぎてしまった。
せめてグレゴリーさんには、婚約破棄のことを話そうかな……。
でも、ダリルさんに聞かれるのは、なんだか嫌だ。
そんなことを考えているうちに、いつもの白い建物が見えてきた。
光沢のあるグレーのカーテンが開けられ、入り口にはオープンの札がかかっている。
いつも通っていた店なのに、なぜか緊張で僅かに手が震えてしまう。
アナイスは大きく息を吸い込んで、黒い扉に手をかけた。
扉を開くと、たった一か月ぶりなのに、目の前の光景がとても懐かしく感じた。
少し高い天井に、真っ白なリネンクロスをかけたテーブル。
整頓された碧色のベルベットが張られた黒いチェア。
ティールームはいつものように静かで洗練されていた。
ショーケースのお菓子はすべて売り切れており、遅い時間のせいか客は一人もいない。
扉の音に気付いたグレゴリーが顔をあげ、少し驚いた表情を浮かべたあと、優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませアナイス様」
「こんにちはグレゴリーさん」
笑顔で頭を下げるグレゴリーに、アナイスの肩の力が抜ける。
「お久しぶりでございますね、お元気でしたか」
「ええ。実は、勉強が終了したんです」
「それは素晴らしい! アナイス様は優秀でしたから、先生もきっと喜んでいたでしょう」
「もう、グレゴリーさんったら」
いつもの軽やかな会話に心が和む。
席に案内され、「少々お待ちください」とグレゴリーが移動すると、その後ろからダリルが顔を覗かせた。
久しぶりに見るダリルの姿に、アナイスの心臓が大きく跳ねる。
「やあアナイス。こんな時間に来るのは初めてだね」
「はい……」
いままであんなに話せてたのに、今日は緊張して上手く言葉が出てこない。
アナイスは緊張のあまり俯いてしまう。
そこにグレゴリーが声をかけた。
「アナイス様は、勉強が終わられたそうですよ」
「ああ、そうなんだね。最近顔を見ないなと思っていたんだ」
「はい……」
にこにことアナイスを見つめるダリルに、すかさずグレゴリーが咳払いをする。
「ああそうだ! お茶をご馳走するよ、僕からの小さなお祝い」
「そんな! 申し訳ないです」
「いいの、いいの。遠慮しないで」
ダリルの言葉にグレゴリーが頷き、二人でカウンターへと向かって行った。
嫌なことばかりだと思っていたけど、やっぱりここに来てよかった。
優しい二人に甘えさせてもらおう、アナイスがそう思った瞬間、突然胸がぎゅうっと苦しくなった。
息を吸おうとするが、上手く吸うことが出来ない。
目の前に、妹とクレマンの顔が浮かび上がる。
困ったといいながら、楽しそうな母の様子も思い出す。
優しい父はずっと頭を下げていた、クレマンの両親にも、私にも……。
なぜ私が、こんな気持ちにならなければいけないの。
別に、クレマンとの婚約破棄に腹を立てているわけじゃない。
それでも、こんなのおかしすぎる!
もっとあの場で怒ってしまえばよかった。
でもそうしたら、妹のセシルは私以上に泣いて騒いだに違いない。
そしてまた皆でセシルを慰めて……ああもう! そんなの馬鹿らしい。
胸が苦しくてたまらない。
私、これからどうすればいいんだっけ?
あの家でこれからも暮らすの?
頭の中の整理がつかず、アナイスは俯いてしまう。
すると、「お待たせ」という優しい声が聞こえてきた。
顔を上げると、そこにはたくさんのマフィンとクッキーをトレーに載せたダリルが立っていた。
グレゴリーは大きな紅茶のポットと、全種類のキャンディスが並んだトレーを持っている。
「少しお疲れかな?」
ダリルとグレゴリーが優しい笑顔で、テーブルの上に紅茶とお菓子を並べていく。
それを見た途端、アナイスの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
自分でも驚くほど、止めることが出来ない。
驚いた表情のダリルは、すぐにポケットからハンカチを取り出しアナイスに差し出した。
グレゴリーは素早く店の看板の明かりを落とし、店内の窓のカーテンを閉め始める。
「あのっ、ごめんなさいっ……私……」
「アナイス、今は話さなくていい。大丈夫だ」
「うぅ……」
ダリルの言葉に、アナイスはもうどうしようもなかった。
まるで小さな子供のように、人目も気にせず思いきり泣いた。
目の前のハンカチを拡げ、止まらない涙を拭い続ける。
気付けば、呼吸がしやすくなっていた。
いつの間にか、胸の痛みも苦しさも少しだけ楽になっている。
私どれだけ泣いてたんだろう……。
そう思った途端、今度は恥ずかしさが込み上げてきた。
慌てて顔を上げると、ダリルがそれに気づいて静かに微笑む。
間近で見るその美しい顔と、自分の顔がきっとぐちゃぐちゃだろうという現実に、一気に頬が熱くなった。
「あの、急に泣いてしまって……私、ご迷惑をおかけしちゃって……」
「謝ることなんて何もないよ。では、新しいお茶を淹れてこようか」
いつもと変わらないダリルの声、詮索するような様子はまったくない。
その優しい態度に、また泣いてしまいそうになる。
ああ、もう私ったら!
アナイスはぐっと体に力を入れ、ダリルに向かって大きく頷いた。
「少し待っててね」
ダリルが笑顔で席を立つと、グレゴリーがカウンターの奥からやってきた。
わずかに、パンが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
アナイスは、自分がお腹がすいていることに気づき、そっとお腹を押さえた。
それに気づいたダリルが、アナイスを見て頬をゆるめる。
「アナイス、お茶の前に何か食べるかい?」
「えっ、いえ、そんな……」
そう答えると同時に、アナイスのお腹がきゅるると鳴った。
ダリルは目を細めて楽しそうに笑う。
「決定だね」
そう言って軽くウインクをすると、ダリルはグレゴリーのもとへ歩いていった。
アナイスは熱くなった顔を、涙でぐしょぐしょになったハンカチで覆った。
✧✧✧
グレゴリーは手際よくテーブルセッティングを始めた。
テーブルを二つ並べ、大きなクロスを広げる。
中央には一輪の薔薇を活けた花瓶を置き、真っ白な皿と人数分のカトラリーを並べていく。
カウンターの奥から、ダリルが楽しそうに眉を上げ、ワインのボトルとグラスを持ってきた。
温かい紅茶がアナイスに用意され、ダリルたちのグラスには白ワインが注がれる。
やがてグレゴリーが三人分の食事を運び、テーブルの上に並べはじめた。
ダリルがナプキンを手に取り、アナイスへ差し出す。
「どうぞ」と微笑むその顔は、子どものように無邪気だけどやっぱり美形だ。
「ありがとうございます」
「これは、ハムとチーズを挟んだパンだよ。ブロッコリーのポタージュは平気かい?」
「はい」
アナイスは頷いた。
ダリルも一緒に頷いている。
「あとはオニオンときゅうりのピクルス。もちろんマフィンとクッキーもあるからね」
「はい」
「では、いただこうか」
ダリルがワイングラスを軽く掲げ、三人で乾杯を交わす。
アナイスは、まず目の前にあるパンを手に取った。
カリカリに焼けたパンに、塩気のきいたチーズとしっとりとしたハム。
一口頬張ったアナイスは、思わず目を見開いた。
この街にこんなに美味しいパンのお店あったかしら!
小麦の香りがたまらない。
淡い緑のポタージュは濃厚で、あっという間になくなってしまう。
グレゴリーが小さな皿によそってくれたピクルスも、歯ざわりと酸味が格別だった。
アナイスは久しぶりに心から美味しいと思える食事を味わっていた。
「あの、どれも食べたことがないくらい美味しいです」
「よかった。これは、グレゴリーのおかげなんだよ」
「グレゴリーさんの?」
「アナイス様のお口に合ったようで光栄です」
グレゴリーがグラスのワインをくいっと飲み干し、笑顔を見せた。
「実はわたくしの姉がこの近くに住んでおりまして……」
「まあお姉さまが!」
「はい。料理が好きなので、こうやって色々なものを作っているのです。この店で出している焼菓子も姉からの教えで」
「素敵! ここのお菓子はどのお店のより美味しいもの! グレゴリーさんは素敵なお姉さまがいらっしゃるのね」
「ありがとうございます」
いつもクールなグレゴリーが、少し笑みを浮かべ、またくいっとワインを飲み干した。
グレゴリーさんにお姉さんがいたなんて……。
アナイスは自分の妹であるセシルを思い出す。
今日の両家の集まりでは、新調したばかりのワンピースを着ていた。
私の婚約破棄の件などまるで気にしていないかのように振る舞い、一人ではしゃいでいたので、ボナール伯爵夫妻は困惑していた。
「はぁ……」
全身がどうしようもない気持ちに包まれ、アナイスはまた息苦しさにため息をついた。
ダリルとグレゴリーが心配そうにアナイスを見つめる。
今の和やかな雰囲気に、ため息は似合わない。
そう思った瞬間、アナイスは自分の身に起こった事を話してしまいたい衝動にかられた。
この理不尽な出来事を聞いてもらいたい、という方が正しいのかもしれない。
さっき散々泣いて迷惑をかけたばかり。
でも、この二人ならきっと……。
「あの……実は私、今日婚約破棄されたんです」
気付けば、アナイスの口から勝手に言葉が出ていた。
突然の告白に、ダリルは美しい瞳を見開き、長い睫毛を何度も瞬かせる。
グレゴリーは肩をびくりと上げ、またワインを一気に飲み干した。
続けて、アナイスは自分の幼い頃からの話をしはじめた。
こうなってしまったらもう止まらない。
家族のことや勉強を始めた理由。
婚約破棄の原因となった妹セシルとクレマンの関係、そして妊娠のことまで。
アナイスが話し終えると、ダリルは深くため息をつき、グレゴリーは何度も首を横に振った。
思っていた以上に重苦しい空気になってしまい、アナイスは少し恥ずかしくなってしまう。
「ごめんなさい、急にこんな話をしてしまって」
「いや……何かあったのだろうとは思ってたが、想像をはるかに超えてた。あまりに酷すぎて言葉が見つからないよ」
グレゴリーもダリルの言葉に頷き、額を押さえて首を振っている。
アナイスは、二人がこんなにも真剣に話を聞いてくれたことに驚き、申し訳なさを感じていた。
ドゥラノワ家では、家族の会話はほとんどなかったからだ。
父は優しいが、爵位を継ぐために婿養子に入ったせいか、母に頭があがらない。
その母は、自分に似た容姿の妹を可愛がり、特別扱いしている。
おかげで妹は、年齢のわりにわがままで、いつまでも甘えん坊のままだ。
もちろんアナイスも、勉強はたくさんさせてもらった、それには感謝している。
それでもやはり、ずっと自分の居場所がないような気がしていた。
「ありがとうございます。あの、小さな頃に親同士が決めた婚約者なので、失恋とかそういう気持ちは無くて、ただ驚きの方が大きくて」
グレゴリーが大きく頷き、またワインをグラスに注いでいる。
一本が空になってしまったようだ、大丈夫だろうか。
ダリルもアナイスの話を聞きながら、横目でちらりと確認する。
「それで……まだ婚姻まで準備があるみたいで、当分妹は家にいるんです。私は家には居たくないなって思ってしまって、それが今一番の悩みです」
笑って話すアナイスに、ダリルは真剣な表情のままだった。
「アナイスの家族だから強くは言えないが、普通ではないよ。本当なら君の妹を何としてでも家から出すべきだ。君が我慢する必要なんてこれっぽっちもない」
「その通りです!」
グレゴリーがダリルに同意しながら、また新しいワインのボトルを開けている。
「ありがとうございます。二人がそう言ってくださるだけで……」
「それで、この先の話し合いは?」
「それはまだ全然。本当に今日すべてが終わったばかりなので……」
アナイスが言い終わらないうちに、はあっと大きなため息が聞こえてきた。
見ると、それはグレゴリーからだった。
頬が赤く染まっているのは、先ほどからかなりワインを飲んでいるせいだろう。
「アナイス様! 先ほど少しお話しましたが、この街には私の姉がおります。マーガレット・バルサム。子爵家の未亡人で、子供たちは皆独立し、今は広い屋敷で一人暮らしをしているんです!」
「グレゴリー……もしかして」
ダリルが恐る恐る尋ねると、グレゴリーは胸を張り、嬉々として頷いた。
「はい、アナイス様は私の姉の元で暮らせばよいと思います」
「まあ!」
「そして、この店で働いてくださいませ!」
「ええっ!」
アナイスとダリルが同時に声を上げた。
ダリルが大慌てで、グレゴリーを止めに入る。
「グレゴリー! 何を言ってるんだ、アナイスだって困るに決まって――」
「私、働きたいです!」
「えっ!」
「はい、決定でございます!」
上機嫌なグレゴリーが、グラスにワインを注いでダリルに乾杯を強要している。
ダリルは困ったように眉を下げていたが、やがて苦笑しながらグラスを掲げた。
その様子を見たアナイスは、思わず笑ってしまう。
気付くと、身体を包みこんでいた靄のようなものははすっかり消えていた。
私、ここで働けるの?
あの家から出られるの?
これから先、何がどうなるかはまだ分からない。
それでも、胸の奥から込み上げる嬉しさはどうしようもなく、アナイスは今にも飛び跳ねたい気分だった。
「では、善は急げでございます。わたくしは姉に連絡をしてまいります」
グレゴリーはそう言って手際よく皿を片付けると、あっという間にテーブルをきれいにして姿を消した。
静かになった店内に、アナイスとダリルが残された。
「驚かせたね、彼は本当に君のことを心配しているんだ……もし無理をしているなら、後で断ってくれても大丈夫だから」
「とんでもありません。あの、本当にお世話になってもいいんでしょうか?」
「そんなの大丈夫に決まってる! 僕も嬉しいよ」
子供のように目を細めて笑うダリルに、今まで以上に胸がドキドキしてしまう。
やっぱりダリルと話していると楽しい。
「私も嬉しいです」
その言葉を聞いたダリルは、澄んだ菫色の瞳でアナイスを見つめ、そっと手を差し出した。
アナイスはためらいながらその手を取り、二人は握手を交わした。
✧✧✧
それから、嘘のように物事が進んだ。
グレゴリーは姉の子爵夫人に連絡を取り、すぐに承諾を得たという。
アナイスさえよければ、明日にでも屋敷を訪れることが出来ると言い、アナイスもそれを望んだ。
その後、ダリルから菓子をたくさん持たされ、アナイスはドゥラノワ家へ戻る。
時刻は遅くなっていたが、今日婚約破棄をしたばかりの娘を咎める者はいなかった。
侍女から「旦那様が書斎から出ていらっしゃらない」と聞いたアナイスは、すぐに父の元を訪れた。
「お父様……」
「アナイス」
「私、この家を出て行こうと思ってるの」
「なんだって!」
ドゥラノワ伯爵はアナイスに駆け寄り、悲しげな瞳で娘を見つめたあと、優しく抱きしめた。
「クレマンなどより遥かに良い婚約者を探す、お前ならすぐだ。だから、それまで家にいてくれないか?」
「その間にもセシルのお腹は大きくなっていくでしょ……それを見るのは耐えられない」
アナイスの言葉に、伯爵は静かに頷いた。
「実は、お世話になる先も決まってるの」
「なんだって? どういうことだ?」
「セシルのことを許したでしょ、……私にも少しくらいわがままを許してほしい。きっと、お母様も何もおっしゃらないわ……」
「……そうだな」
「明日、我が家に来て下さるの。そのまま出て行こうと考えてる……」
「そんな、急すぎるじゃないか」
「最後の……わがままです」
アナイスが真っ直ぐに父の目を見つめる。
ドゥラノワ伯爵は目を伏せて頷き、「すまない」と呟くと、アナイスをぎゅっと抱きしめた。
父が母に話を通してくれると言い、アナイスは母親と顔を合わせることなく自分の部屋へ向かった。
自分の持ち物を鞄に詰め、大事な本を紐で縛る。
わずかな洋服と履き慣れた靴、宝飾品はほとんどない。
クレマンからの指輪も、セシルとお揃いのネックレスも、すべて置いていくことにした。
部屋にいくつもあるぬいぐるみも、セシルと色違いで合わせた母の趣味。
全ていらないと、クローゼットに押し込んだ。
部屋の片づけもあっという間に終わり、もういつでもこの家を出て行ける状態になった。
窓を開け、夜風を感じる。
小さい頃から住んだこの部屋、窓から見える景色、聞きなれた周りの音。
ここを出て行くのは、結婚する時だと思っていた……。
生まれた時からいたこの場所には、もう帰れない。
ううん違う、帰りたくない場所になっていた。
胸がいっぱいになってしまうが、涙は出ない。
私には新しい生活が待っている。
しかも仕事をすることまで決まっている、不安より期待の方が大きい。
アナイスは夜空を眺め、窓を閉めた。
酔っぱらったグレゴリーを思い出してくすりと笑う。
ダリルの優しい声、別れ際の握手。
あの手の温もりを思い出すと、頬が熱くなる。
ベッドに入り、その手を胸に当ててゆっくりと目を閉じた。
✧✧✧
翌朝。
アナイスはいつもより早く目覚め、一人で着替えをすませた。
セシルが嫌いな色だという理由で、一度しか着る機会がなかったラベンダー色のワンピース。
髪も一人でハーフアップに結い上げる。
結構うまくできたとのでは? と思っていると、突然扉をノックする音が響いた。
「アナイスお姉さま、セシルよ」
アナイスは息を呑んだ。
なぜこんな時間にセシルが?
絶対に会いたくない。
妹のセシルが生まれてから今まで、すべて妹に合わせて生きてきた。
妹と母の望むように振る舞い、自分の意志など二の次。
もう今さら、話すことなんて……。
アナイスが動けずにいると、またノックの音が聞こえた。
「お姉さま、このお家を出て行くって本当?」
扉の向こうから、セシルの悲しそうな声が聞こえる。
アナイスは下唇を噛んだ。
この扉を開けてしまえば、またいつものことが始まる。
セシルが泣きながら被害者のように振る舞い、何を言われても、結局私が彼女に対して許しの言葉を言わなくてはいけない。
そうしないと、母が怒り、父が困る羽目になる。
こんなふざけたことにもう付き合いたくない。
私がこの家を出て行く原因のセシルに、優しい言葉をかけて最後まで気を遣う?
そんなの馬鹿げてるでしょ!
「セシル、まだ支度中なの……」
アナイスはやっとのことで声を出した。
「私、平気よ。お姉さまとお話がしたいの」
「……」
私が平気ではない。
どうすればいいの。
これ以上放っておくと、母までやってきてしまう。
アナイスは少し考えたが、やはり扉を開けるという選択肢は無かった。
こうなったら……無視だわ。
うん、それでいい。
だってここを出て行くんだもの。
泣かれたって、後のことは知らない。
母が出てきたってもう構わない!
アナイスは荷物を扉の前に置き、ベッドの上に座った。
またノックの音が部屋に響く。
その後、誰かの話し声が聞こえてきた。
ああ、もうお母さまが来たのね……。
アナイスは息をひそめて耳をすました。
「おはようございますアナイスお嬢様。お客様がお見えです」
侍女の声に、アナイスは慌てて扉に駆け寄る。
まだ扉を開けてはいけない。
セシルが侍女に頼み込んだ嘘かもしれない。
「お客様って誰?」
「マーガレット・バルサム子爵夫人という方です」
「‼」
アナイスは急いで扉を開け、入り口に置いてあった鞄と本を持って廊下に飛び出した。
セシルが驚いた顔で「お姉さま!」と声をかけてくるが、無視して階段を駆け下りる。
玄関ホールに行くと、グレゴリーが正装で立っており、横には、グレゴリーと同じく銀髪の美しい老婦人が立っていた。
階段を下りてきたアナイスを見て、優雅に微笑んだ。
この人がグレゴリーさんのお姉様……。
なんて気品があって素敵な方なんだろう。
それにしても二人の装いの美しさ。
服装に興味がない人でも、明らかに仕立てが良いのは分かる。
少し細身に仕立てられたスーツは、洗練されていて、とても素敵だ。
アナイスはマーガレットに深々とカーテシーをした。
「まあなんて素敵なお嬢様なの」
「よろしくお願いいたします、アナイスです」
「とんでもないわ、こちらこそよろしくね。私はマーガレットよ、話は全部弟から聞いたわ」
マーガレットはアナイスに近づき、耳打ちした。
少し肩をすくめ、とてもチャーミングな笑顔を見せる女性だ。
横でグレゴリーが頷いている。
その時、客間から誰かが出てきた。
「ダリルさん!」
「やあアナイス」
アナイスを見つけたダリルが、手を振りながら近づいてくる。
見慣れない正装に身を包み、少し髪型を変えたその姿は、いつも以上に素敵に見えた。
ダリルの正装に、アナイスは思わず見とれてしまいそうになる。
後ろから慌てたように、父が出てくるのが見えた。
「君の父上に、バルサム夫人の連絡先を渡して、少し話をしてきたんだ」
「本当にありがとうございます」
ホールの端に数人の侍女たちが、顔を覗かせているのが見えた。
美しいダリルの姿を一目見ようと、こっそりと様子を窺っているようだ。
「では、参りましょうか」
グレゴリーが手を差し出して、アナイスの荷物を持った。
「他の荷物は?」
「これだけです」
「これだけ?」
アナイスの荷物を見て、三人は驚きの色を隠せなかった。
貴族の令嬢が旅立つにしては、あまりにも持ち物が少なかった。
「ええ、特に何もないので」
「じゃあ、やり残したことはない? 誰かに挨拶はしなくてもいいのかい?」
ダリルの言葉に促されて振り向くと、いつもより一回り小さく見える父が佇んでいた。
母の姿はどこにもない。
そうだろうとは思っていたが、本当にいないという現実が、アナイスの決心を強くした。
「お父様、お体にお気をつけて」
「アナイス……」
ドゥラノワ伯爵が何か言いかけたその瞬間、階段の上から軽やかな足音が響いてきた。
白いドレス姿のセシルが、勢いよく駆け下りてくる。
そして、父とアナイスの間に、会話を遮るように飛び出してきた。
「アナイスお姉さま、この方は?」
セシルは息を弾ませ、頬をわずかに上気させている。
アナイスに質問しているが、視線は上目遣いでダリルのことしか見ていない。
初めて会うというのに挨拶もない、他にも知らないお客様がいるのに何なの……。
本当にこの子はいつまで経っても変わらない。
これでお腹に子供がいるなんて……。
「……」
クレマンの子供を身籠っているにもかかわらず、いつもと変わらない態度を取るセシルにアナイスはゾッとした。
お腹を隠すふんわりとしたドレス。
しかし胸元は相変わらず大きく開いており、その無邪気さが不気味に映る。
これが私の妹……。
アナイスが眉を顰めたのを見て、ダリルが彼女の顔を覗き込んだ。
「挨拶も終わったみたいだし、行こうか」
ダリルの声は、いつもより優しく聞こえた。
セシルのことは一切見ようともせず、質問に答えることもない。
アナイスは静かに頷いた。
それに気づいたセシルは、あらためて頭を下げ今度ははっきりとダリルに向かって言った。
「セシル・ドゥラノワです。アナイスお姉さまの妹よ、三歳離れてるの」
そう言って唇をきゅっと結んで口角をあげ、愛らしい笑顔を作って見せる。
「ああ、どうも」
ダリルは無表情のまま短く答えると、セシルを完全に無視してアナイスに手を差し出した。
グレゴリーたちは父親に丁寧に頭を下げ、先に屋敷から出て行った。
笑顔を浮かべたダリルは、そっとアナイスの背中に手を添える。
「え?」
セシルの声を背中に受けながら、アナイスとダリルはドゥラノワ家を後にする。
馬車に乗っている間、誰もセシルの話題には触れなかった。
バルサム子爵夫人が気を遣い、これから向かう屋敷の話や、グレゴリーの子供の頃の話などをしてくれた。
車内に穏やかな空気が流れ、馬車はそのままバルサム家へと向かっていった。
✦✦✦
アナイスがドゥラノワ家を出てから季節が二つ過ぎ、半年以上が経過していた。
婚約破棄から始まった新しい生活は、信じられないほど順調に進んだ。
こんなにも幸せでいいのかと、アナイスはかえって不安になるほどだった。
アナイスが身を寄せることになったのは、グレゴリーの姉であるマーガレット・バルサム子爵夫人の邸宅。
マーガレットは優しく穏やかでありながら、非常に聡明な女性だ。
彼女には二人の娘がいるが、遠方に嫁いでおり、なかなか会えないのだという。
ご主人を病気で亡くしてからは、ずっと一人で暮らしていたそうだ。
おやつは手作りが多く、美味しい焼き菓子の作り方をアナイスに教えてくれる。
ダリルの店で出る焼菓子が、彼女のレシピだと聞いていたため、その美味しさは納得だった。
しかも、夫人のピアノの腕は素晴らしかった。
アナイスが途中でやめてしまったピアノも、夫人のおかげで再び始めるようになった。
それが予想以上に楽しく、アナイス自身も驚くほどだった。
自分の母にはない優しさを、初めて大人の女性から受けたアナイスは、毎日が少女時代をやり直しているようで楽しかった。
こういう大人の女性になりたいと、心から思った。
ティールームでの仕事も順調だった。
アナイスは主に裏方を担当していた。
経営の知識を活かして、帳簿の整理や仕入れの管理、売上の分析などを行っている。
陶器の輸入にも同行することが決まり、近々グレゴリー、マーガレット、そしてダリルと共に一泊で国外へ行くことになった。
しかし、アナイスが生まれ育った国では、二十歳にならなければ自分の意志で旅券を取得できない。
婚姻していなければ親の保護下に置かれるため、アナイスはもうすぐ訪れる二十歳の誕生日を心待ちにしていた。
今日もいつもどおりティールームで仕事をしている。
厨房から聞こえてくる音に耳を澄ませる。
お湯を沸かす音、食器に触れる小さな音。
これだけで、幸せな気分で胸がいっぱいになる。
ふと気づくと、アナイスは自分の手が止まっていることに気がついた。
三年前に働き始めた頃は、単純な憧れだと思っていた。
けれど今では、その気持ちが何なのかはっきりとわかる。
アナイスはここで過ごすうちに、ダリルに特別な想いを抱いていることに気付いていた。
クレマンと一緒にいた時には感じたことのない、胸の奥が締めつけられるような感覚。
ダリルに優しくされると息が苦しくなり、声をかけられると心臓が跳ねる。
きっと、これが恋なんだろう。
それでも、この気持ちは決して伝えてはいけない。
ここで楽しく働き続けるためには、胸の奥にしまっておくしかない。
最近、店の帳簿を見る機会が増えて、その資金規模の大きさに驚いた。
ダリルが他国の貴族だということは知っていたが、これほどの財力があるなら、わざわざ店を営む必要などないはずだ。
グレゴリーの立ち居振る舞いを見ていても、彼が普通の給仕ではないことは明らか。
ダリルとは、きっと身分が違いすぎる。
しかも自分は、婚約破棄をされている。
恋心を持ち続けたとしても、憧れとして止めておかなくてはいけない……。
書類の整理を終えたアナイスは、紅茶にミントの氷砂糖を追加した。
小さな窓から店内を覗くと、席はほぼ埋まっていた。
アナイスは自分がここで働いていることを、誰にも教えていなかった。
それは、余計な噂でダリルたちを巻き込みたくないという思いからだった。
町外れの店とはいえ、時折見知った令嬢たちの姿を見かけることがある。
そのおかげで、クレマンとセシルの近況は嫌でも耳に入ってくる。
父親から婚約破棄について激しく叱責されたクレマンは、当分家に戻ってくるなと追い出され、今はドゥラノワ家に身を寄せているという話だった。
やはり家を出て正解だった……と、アナイスはあらためて思っていた。
しかも、アナイスが家を出てから一か月も経たないうちに、二人の関係がうまくいっていないという噂も聞こえてきた。
セシルは小さな頃から、とにかく買い物やパーティが好きな子だった。
交友関係も広く、アナイスの知らない貴族の事情にも詳しかった。
おそらく、思うように動けなかったり、体調の変化に戸惑っているのかもしれない。
それでもきっと、母親になれば気持ちが変わるはず。
そういえば、あの時の子供はもう生まれる頃かしら……。
アナイスはふうっとため息をついて、紅茶を飲んだ。
カップの紅茶がゆらゆらと美しい茜色に揺れ、口の中にほのかな清涼感が広がる。
あの二人のことを考えたところで、もう自分には関係ないことだ。
だって、一生会うつもりはないのだから……。
アナイスは今の穏やかに過ごせる毎日に満足していた。
小さく伸びをしながら時計を見ると、そろそろ午前の営業が終わる時間だった。
今日はマーガレットに教わった、小さな玉ねぎとキュウリのピクルスを持ってきている。
昼食に食べてもらおうと思っているだけなのに、アナイスはとても緊張していた。
マーガレット直伝なので味は間違いないはずだが、それでもどきどきがとまらなかった。
グレゴリーが店の扉を閉め、カーテンを下ろしはじめた。
これからティータイムまで、休憩時間となる。
小窓から覗くと、ダリルがカウンターの飾り棚にティーカップを並べているのが見えた。
アナイスはノートを片付け、机の上を整理し始める。
もう誰もいないので、店の中に出ても大丈夫だ。
「お疲れ様です!」
「ああ、アナイス。お疲れさま。ここを片付けたら昼食にしましょう」
「はい!」
「僕はもうお腹が空いて倒れそうだよ」
ダリルがふざけてお腹を押さえ、子供のような表情をしている。
その無邪気な様子に、アナイスは思わず微笑んだ。
「では、私はテーブルセッティングしますね」
「ありがとう」
アナイスは席に掛かっている真っ白なクロスを取り外し、食事用のテーブルクロスへと掛け替えた。
三人分のテーブルマットとカトラリーを並べる。
その時だった。
店の入り口の扉を、誰かが無理矢理こじ開けようとする音が聞こえてきた。
木製の枠がガタガタと、今にも壊れそうなほど激しい音を鳴らしている。
慌ててグレゴリーが扉に向かって走り、そっとカーテンの端を捲った。
そこに立っていたのは、真っ青な顔をしたクレマンだった。
✧✧✧
アナイスはその場で、身動きが取れなくなった。
カーテンを閉めようとするグレゴリーに向かって、クレマンは大きな声を上げながら扉に激しく体当たりをしている。
ダリルが静かに近づいて扉を開くと、クレマンは勢いよく店内に転がり込んできた。
「アナイス聞いてくれ! ドゥラノワ伯爵が倒れたんだ!」
その瞬間、アナイスの心臓が止まりそうになった。
いままで見たことがないほど、クレマンが震えている。
「お父様が?」
「今すぐ来てくれ!」
呆然としているアナイスの腕を、クレマンは強引に引っ張ろうとする。
その時、ダリルがすっと二人の間に割って入った。
「僕も一緒に行こう」
ダリルがアナイスの肩に手を置いた。
「君は来なくていい」
クレマンがダリルを睨みつける。
「君こそ、彼女にはもう関係ないだろう!」
ダリルも一歩も引かず、静かにクレマンを見据えている。
クレマンは小さく舌打ちをした。
「わかった、じゃあアナイスは俺と一緒に馬車で!」
またもクレマンは、強引にアナイスの腕を掴もうとした。
その瞬間、ダリルがクレマンの手首を素早く捻り上げた。
クレマンが苦痛に顔を歪めた隙に、アナイスはダリルの後ろへと隠れる。
「私とアナイスは別の馬車で行く」
ダリルの声は低く、威圧感があった。
グレゴリーもいつの間にか、アナイスの横に移動している。
手首を押さえながら二人を睨みつけた、クレマンはまた舌打ちをした。
「じゃあ早く!」
叫ぶように言うと、彼は慌てて外へ飛び出していった。
あの尋常ではない慌てぶりを見ると、父が倒れたという知らせは嘘ではないのだろう。
アナイスの胸に不安が込み上げてくる。
グレゴリーが急いで馬車の手配に向かった。
幸い店の近くに馬車置き場があるため、すぐに一台が店の前までやってきた。
アナイスとダリルを乗せた馬車は、ドゥラノワ家に馬車を走らせた。
馬車の中でアナイスは考えていた。
連絡先としてバルサム子爵家の住所をダリルが父に伝えてはいたが、店での仕事については一切教えていない。
それなのに、なぜクレマンがあの店まで迎えに来たのだろう?
普通なら使用人を遣わすはずなのに、なぜわざわざクレマン自身が来たのか。
しかも、私だけを連れて帰ろうとしていたあの様子も不自然だった。
本当に父が倒れただけなの?
不安と疑念がアナイスの胸の中で渦巻く。
その時、ダリルがそっとアナイスの手を握った。
「アナイス、僕はずっと君のそばにいるから、大丈夫だよ」
美しい菫色の瞳がアナイスを捉える。
その優しい声と温かい手のぬくもりに、アナイスは小さく頷いた。
ダリルが一緒についてきてくれることで、これほど心強いことはない。
それに、自分にはもう帰るべき居場所がある。
家に戻ることなど、もう何も怖くない。
やがて馬車が重厚な鉄の門をくぐり抜けた。
久々とはいえ、まだ一年も経っていない。
それなのにとても懐かしく感じる。
見慣れたアーチも、この季節に咲き誇る薔薇の花々も、何年も前の景色のようだ。
庭には誰もおらず、自分がここで暮らしていた頃に比べて、屋敷全体が静まり返っていた。
何かおかしな雰囲気だ。
玄関前には、クレマンが乗りつけた馬車が既に停まっていた。
続けて、アナイスたちの馬車もその後ろに停める。
アナイスとダリルが馬車から降りると同時に、クレマンが声を荒げた。
「さあ早く!」
クレマン自ら扉を勢いよく開けて屋敷内へと足早に入っていく。
玄関ホールには侍女が一人立っていたが、アナイスの姿を見るなり驚いた表情を浮かべた。
しかし次の瞬間、クレマンを見てあからさまに眉をひそめる。
やはり何かがおかしい。
ダリルもそれに気づいたようで、二人で顔を見合わせた。
階段を上がり父の寝室へ入ると、ベッドに横たわる父の姿が目に飛び込んできた。
父は険しい表情でじっと天井を見つめていたが、扉の音に気づいて首を動かし、アナイスの姿を見て驚いたように身体を起こした。
「お父様!」
「クレマン!」
アナイスの言葉に重なるように、ドゥラノワ伯爵はクレマンの名前を叫んだ。
「なぜアナイスを呼んだんだ、関係ないことだろう」
悲しみと怒りの入り混じった父の声に、アナイスは息を呑んだ。
少しやつれた様子の父。
しかも、声を荒げているのを聞くのは初めてのことだった。
「お父様、倒れたと聞いたの、大丈夫なの?」
「ああ、すまない……ただの過労だ」
何かを隠しているような父の声に、違和感を覚えたその瞬間、遠くから赤ん坊の泣き声が微かに聞こえてきた。
部屋の空気が一瞬にして張り詰める。
クレマンの表情が険しくなり、ぎゅっと額に力が入った。
もう生まれてたのね……。
アナイスの心に複雑な感情が渦巻いた。
たった数か月で、すっかりやつれてしまった父。
その優しい父は、一人でこの部屋にいる。
きっとセシルの部屋には、生まれたばかりの子供と、それを喜んでいる母親がいるはず……。
アナイスの全身を、重い靄が包み込んだ。
それに気づいたダリルが、そっとアナイスの肩に手を置いて自分の方へと引き寄せる。
俯くアナイスに、父が声をかけた。
「アナイス、早く戻りなさい。本当に大丈夫だ」
「でも……」
「よろしくお願いします、ダリルさん」
深々と頭を下げるドゥラノワ伯爵に、ダリルは目を伏せてゆっくりと頷いた。
さっき聞こえた赤ん坊の声で、セシルの子供が生まれていることは分かってしまった。
きっと会わせたくないのだろう。
「アナイス、父上もそう言っておられる。今日は一旦帰ろう」
「待ってくれ!」
扉に向かう二人を阻止するように、クレマンが立ちはだかる。
目は落ち窪み、痩せているのか浮腫んでいるのかも分からない、くすんだ肌。
クレマン、違う人みたいだわ……。
以前のおっとりとした雰囲気はどこにもなく、アナイスはあらためて見るクレマンの変わりように驚いた。
「聞いてくれ! セシルの産んだ子は、俺の子じゃないんだ!」
「え?」
アナイスの口から声が漏れた。
なぜここに来てそんなことを言いはじめたの?
引き留めるためとはいえ、クレマンがこんな馬鹿げたことを言う人だったとは信じられない。
アナイスはクレマンを無視し、目の前のダリルを見上げた。
「行きましょう、ダリルさん」
ダリルは静かに頷くと、立ちはだかるクレマンを迷いなく振り払った。
「アナイス!」
クレマンの叫び声が背後で響いている。
部屋を出る直前、アナイスは父の方へ視線をやった。父が慌てたように目を逸らす。
その瞬間、アナイスの全身が粟立った。
もしかして、今クレマンが言ったことは本当なの?
アナイスの動揺に気づいたダリルが、力強く手を引いた。
「今日は帰った方がいい」
その言葉に、ベッドの上の父は深々と頭を下げるように頷いている。
アナイスはダリルに手を引かれるまま、屋敷の長い廊下を玄関に向かって歩き続けた。
その時、廊下の向こうに人影が見えた。
アナイスが驚いて足を止めると、玄関ホールの端からセシルがひょこっと顔を覗かせる。
「!」
その後ろからは、セシル付きの侍女がやってきた。
侍女は細い腕に赤ん坊を抱いている。
両手に包まれたそのちいさな子は、鮮やかな赤毛の巻き毛だった。
アナイスは一瞬息を呑んだ。
セシルの髪はハニーブロンド、クレマンは童話に出てくる王子のような金髪。
ボナール家にもドゥラノワ家にも、赤毛は誰一人としていない……。
けれど、たった一人だけ、その色を持つ人物をアナイスは知っていた。
こんなにも鮮やかな赤毛は珍しい。
まさか、そんなはず……。
「まあ、誰か来てると思ったらアナイスお姉さま! 嬉しい! セシルの赤ちゃん見に来てくれたの?」
セシルの声は相変わらず高く、舌足らずで子供っぽい話し方だ。
服装もまったく変わらない。
産後とは思えないドレスを着て、髪も可愛く結い上げている。
「ねえ見て、男の子なの! クレマンに似て可愛いのよ!」
大きな声を出すセシルに、横にいた侍女とアナイスの目が合った。
侍女は無表情だが、明らかに頬が緊張している。
セシルは、赤ん坊を抱いている侍女の腰を肘で軽く突いた。
侍女は焦った様子でアナイス達に近づいてきた。
ダリルが一歩踏み出すと侍女は立ち止まり、赤ん坊をアナイスの方へと向ける。
アナイスがその赤ん坊の顔を見た瞬間、心臓がどくんと大きな音を立てた。
何が起こったのか理解できなかった。
アナイスは、ただ、その小さな命から目が離せない。
赤ん坊が、不意にその瞳を開いた。
大きくつぶらな焦げ茶色の垂れ目。
そして、くるくるの赤毛に太い眉。
ハワード先生だ……。
間違いない、そっくりだわ。
幼い頃から二人にピアノを教えてくれていた先生。
私が辞めてからも、セシルはずっとレッスンを受けていた……。
これでクレマンの言葉の意味が繋がった。
「俺の子じゃないんだ!」
そう叫んだときの、あの必死な顔。
まさかこんなことが……。
「ねっ可愛いでしょ! クレマンにそっくり!」
笑顔を崩さないセシルに、アナイスの背中に冷たいものが走った。
本気で言っているのだろうか、いやそんなわけはない。
アナイスと目が合うと、セシルはにこっと笑う。
「お姉さま、どうしてその人の後ろに隠れてるの? そうだ、いまから一緒にお茶しません?」
そう言いながら、セシルは突然ダリルの腕を掴んだ。
甘えるような上目遣い、侍女は赤ん坊を抱いたまま後ろに下がる。
肩をびくりと震わせたダリルは、冷たい顔でポケットからハンカチを取り出し、自分の腕を掴むセシルの手に被せた。
「え? なになに手品でもするの?」
無邪気にふるまうセシルの手を、ダリルはハンカチの上から掴み、そっと取り払った。
「すまない、僕は潔癖なんだ」
「はあ?」
イラッとした表情を見せたセシルを、ダリルはまったく気にも留めずにアナイスの方へと向いた。
「ちょっと、なんなのよ!」
キンキンとした声が、アナイスの頭に響く。
アナイスはダリルに視線を送り、自らセシルの前に進み出た。
「なんなのはこっちの台詞よセシル。私は父が倒れたと聞いてここに連れて来られたの。あなたに子供が生まれてたことは今知ったわ」
「ねえちょっと、おめでとうとかはないの?」
セシルはあきらかにムッとしている。
そこに、父の部屋から追いかけてきたクレマンが現れた。
「ああアナイス、セシルの子供を見ただろう?」
縋るような目と哀願するような声。
だから何だっていうの?
確かに、どう見てもクレマンの子ではない。
でも、そんなことが私に何の関係があるというの?
目の前のセシルは、無言でクレマンを睨みつけている。
アナイスはこの状況と、二人に対しての抑えきれない嫌悪感に、全身が熱くなるのを感じた。
それでも思い切りの笑顔を作る。
「二人ともおめでとう。元気そうな子ね、あなたたちも立派な父親と母親になってね」
「おかしいだろ! 俺の子じゃない! はめられたんだ! 君のことが大好きだったのに、いや今でも君が忘れられない!」
「ちょっとクレマン! ひどいじゃない!」
「ひどいのは君だろ、セシル!」
目の前で二人が喧嘩を始めた。
馬鹿らしいったらない。
アナイスは話すのも嫌になり、もはやため息すら出なかった。
「ねえクレマン。あなたは騙されたって言うけれど、そういう関係になったのは事実でしょう?」
「それは! セシルが……」
「セシルがなんなの? 自分の婚約者の妹、いずれは義理の妹になる相手に、そんな感情を抱いたのはあなたよ? 人として軽蔑する、気持ち悪くてたまらない」
「気持ち悪い……」
「ふんっ、お姉さまの言うとおりよ! それに誘ったのはクレマンじゃない!」
セシルはなぜか腕組みをして、偉そうな態度をとっている。
わがままで小さな頃から好き勝手ばかりしていたが、まさかこんな最悪なことを起こすなんて。
アナイスは、セシルが自分の立場を理解しているのかと呆れていた。
子供が人目に触れるようになれば、クレマンの子ではないことは明白になるだろう。
そうなれば、セシルは社交界になど顔を出せなくなる。
ハワード先生の評判も地に落ち、彼の妻や子供も巻き込まれてしまう。
間違いなくドゥラノワ家も社交界から警戒され、人々は関わりを避けるようになるはずだ。
アナイスの目には救いようのない未来しか見えなかった。
父のことを思うと胸が痛むが、それでもこの二人が招いた結果だ。
「セシル、あなたも偉そうに言ってるけれど、私はあなたのことも軽蔑している」
「ひど!」
「ひどいのはどっちよ。私はあなた達に謝られてもいないわ」
「だって!」
「もういい加減にして! これからどうなるか考えてもごらんなさい、社交界の噂は早いわよ。赤ん坊のことはすぐバレるわ。あなたは噂される側の人間になるのよ」
「……」
「あなたはこれからずっと、誰からも相手にされなくなる」
セシルの顔から血の気が引いていく。
その瞬間、まるで場の重苦しさに耐えかねたかのように、赤ん坊が大きな声をあげて泣き始めた。
侍女が赤ん坊をあやしながら、アナイスに深々と頭を下げて部屋へと戻っていく。
部屋の扉が開いた瞬間、一瞬だけ母の姿が見えた気がした。
セシルは頭を抱え、赤ん坊のように大きな声で泣いている。
「いつまででも、困ったらそうやって泣いていればいいわ」
アナイスは言葉を吐き出すと同時に、長年胸に溜まっていた重いものが消えていくのを感じていた。
深いため息をついて振り返ると、目の前にダリルがいた。
ダリルは優しく微笑み、アナイスの乱れた前髪をそっと直す。
その指先が、少しだけアナイスの頬に触れた。
アナイスは恥ずかしそうに首をすくめ、二人は玄関に向かって歩き出した。
追いかけるようにして、悲痛な表情を浮かべたクレマンが、アナイスに手を伸ばした。
ダリルがそれを阻むように、片手を差し出す。
「もう話は終わってるだろ。アナイスは私の大事な人だ。今度から彼女に用事がある時は、必ず私を通してくれ、元婚約者殿」
その言葉に顔をゆがめ、クレマンは動けなくなった。
アナイスは息を呑んだ。
驚いてダリルを見上げると、彼の美しい菫色の瞳が静かにアナイスを見つめていた。
「行こうか」
「はい」
二人は振り返ることなく、ドゥラノワ家を後にした。
✦✦✦
一週間後。
ドゥラノワ伯爵から、バルサム子爵家に手紙が届いた。
見慣れた家紋が押された封蠟を開けると、そこにはアナイスに宛てた父からの謝罪の言葉が綴られていた。
妹が生まれてから我慢をさせていた事、もっと守ってやれたはずなのにと、後悔の念が滲む内容だった。
アナイスは父に十分に愛されていたことをわかっていたので、胸が痛んだ。
手紙には、ボナール家と話し合いを行ったことも記されていた。
ボナール伯爵は改めてクレマンの行いを詫び、その息子を家から追放したことをアナイスに伝えてほしいということだった。
クレマンには小さな弟が二人いる。
その弟たちに家督を継がせる決意を固めたと書かれていた。
アナイスは二人の少年を思い出す。
10歳と8歳になる彼らは、兄のクレマンとは対照的に、勉強熱心で聡明な子供たちだった。
特に次男は既に父の仕事に強い関心を示しており、アナイスが遊びに訪れるたびに、幼いながらも熱弁を振るう姿が微笑ましかったのを思い出す。
ボナール伯爵は、クレマンへの教育の失敗を認め、だからこそ、彼に家督を継がせるわけにはいかない、という苦渋の決断だったようだ。
そして、クレマンとは既に縁が切れた我が家ではあるが、アナイス嬢は嫌なことを思い出すだろう。
それでも、何年先になってもかまわない、もし気が向くことがあれば、いつでも家を訪ねてきてほしい、と。
アナイスは、ほうっと溜息をついた。
まだ婚約していたころ、クレマンとの関係に後ろ向きにならずに済んだのは、ボナール家の雰囲気が良かったからだ。
婚約者であるクレマンは少し頼りないが、彼の両親と弟たちとの仲は良好だった。
少し前まで、あの家族の中で過ごすことを想像していた自分を、アナイスは思い返していた。
次の便箋に目を移し、アナイスは「えっ?」と小さな声を漏らした。
そこには、父が母と離縁をする予定だと書かれていた。
想像もしていなかった内容に、指先が冷たくなった。
父は婿養子であるため、爵位はセシルの子供に譲ることになるそうだ。
これについては、父が離縁を持ち出した時、母からの申し出があったと書かれていた。
すべての手続きが整った際には、あらためて連絡をするという言葉に続いて、最後の便箋には「アナイスのことをいつも思っている。どうか幸せに」という言葉で手紙は締めくくられていた。
アナイスは手紙を胸に抱きしめ、深い溜息をついた。
様々な感情が心の中で渦巻いていたが、時計を確認してティールームに向かうことにした。
いつもより少し早い時間、それでも手紙の内容をダリルに話さなくてはと考えた。
あんな騒動に巻き込んでしまったのだ。
その後どうなったのかを、伝えておくべきだと思った。
ティールームの扉を開けると、グレゴリーが花を飾っていた。
「おや、おはようございますアナイスさん。今日はお早いですね」
「おはようございます、グレゴリーさん。少しダリルさんにお話があって……」
「ん、僕に話? 何かあったのかい?」
ダリルがシャツの袖を直しながら、カウンターの奥から出てきた。
グレゴリーは二人に頷くと、テーブルにクロスをかける作業を始めた。
アナイスはダリルに手紙を差し出した。
ダリルは封筒を見て驚いたような表情を浮かべる。
「僕が読んでもいいの?」
「ええ、ダリルさんにはその後を知っておいてほしくて」
「わかった」
二人でテーブルに着き、ダリルが手紙を読むのをアナイスは横で眺めていた。
文字を読む長い睫毛が僅かに揺れている。
ふと、ドゥラノワ家で「大事な人だ」と言われたことを思い出し、顔が熱くなった。
あの場をしのぐための嘘だったのはわかっているが、思い出すだけでくすぐったい気持ちになる。
読み終えたダリルは、小さく頷いた。
「実は、ボナール伯爵とは、一度仕事で話をしたことがあるんだ」
「まあ、そうだったんですね」
「ああ、とても明確な仕事内容と、素晴らしい理念を持っていた。とても感じが良くて、クレ……彼とは全然違うタイプの人だね」
「ええ、とても良い方です」
「それに下の弟たちはしっかりしてるようだ。彼らが君の婚約者じゃなくてよかったよ」
「えっ、どうしてです?」
「あんな形で君に告白のようなことをしてしまったけど、僕がアナイスに本気だからだよ」
「……えっ?」
先ほど考えていたことを読まれてしまったのかと思い、アナイスは驚いた。
これは、クレマンたちの前でのことを言ってるのよね?
え? ダリルさんが私を?
どんどん顔が熱くなっていくのが自分でもわかる。
きっとこれは冗談だ、それでも胸の鼓動が速くなっていく。
「アナイスがこの店に来て、いつの間にか話をするようになって、本当に楽しくて君のことが気になっていた。それでも貴族の令嬢で婚約者もいると聞いていたから、陰から応援していたんだ」
「……」
「それが、半年以上前かな、君がこの店に来て泣き出して、婚約破棄の話を聞いてどれだけ腹が立ったか……その時に、自分の気持ちがごまかせないってわかったんだ」
「え、あの……」
「本当は言うつもりはなかった……だって、今こうやって働けているだけでも、十分幸せで楽しい日々を過ごせてるから」
「!」
アナイスは、ダリルが自分と同じ気持ちだったと知って胸がいっぱいになった。
思わず顔を見つめると、いつもの美しい顔が僅かに眉を下げ、見たことのない表情をしている。
目が合った瞬間、心臓が跳ねる。
「君にそんな気持ちがないなら、はっきり言ってくれて構わない。ああ雇い主だからって遠慮はいらないからね」
ダリルは少しふざけたような調子で、恥ずかしそうに笑っている。
この雰囲気を和ませようとする優しさに、アナイスはやっとのことで声を絞り出した。
「そんな……私も……ダリルさんのことが」
「ん?」
「私もダリルさんのことが、好きです!」
ダリルの瞳が大きく見開かれ、どんどん喜びの表情へと変わっていく。
「アナイス、君のことを抱きしめたくてたまらないんだ」
アナイスは静かに頷いた。
ダリルは優しくアナイスを抱きしめる。
心地よい香りに包まれて、甘くて優しくて幸せな気持ちが胸いっぱいに広がる。
ダリルがアナイスの額にそっとキスをして、「アナイス」と呼んだ。
「はい」とアナイスが答えると、ダリルの腕にさらに力が入った。
グレゴリーは静かにその場を離れ、店の札を閉店に変えて扉の鍵を閉めた。
そしてカーテンをおろし、そうっと裏へと入っていった
二人は顔を見合わせ、静かに微笑み合う。
「アナイス、君のお父さんが落ち着いたら二人で会いに行こう」
「はい」
「アナイス、大好きだ」
その声は、世界で一番心地よく心に響いた。
アナイスは静かに目を閉じ、小さく頷いた。
完
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7/26:
日間のランキングに入っていました!
初めて書いた短編ですが、たくさんの方に読んでいただけているようで感激しています。
そして、誤字報告ありがとうございます!
大変助かります ( *´꒳`*)