第二夜 死体
邸を離れる前、湊は一度、後ろを振り返った。
──黒百合家。
忌まわしくも、母が愛した場所。
命が、愛が、呪いが焼き付いた場所。
湊は躊躇いながらも、颯を布に包み、森の奥へと歩を進めた。死の力が静まり返った今、自分が守るべきものを守るために。
だが__
「……?」
森の中に、人影が動いた。
視線を向けると、そこには白を基調とした衣をまとう数名の影がいた。白百合の紋。黒百合家と双璧を成した、もう一つの「生を司る家系」。
白百合家の者たちは、湊に気づいた様子もなく、邸から出ていくところだった。その手には、何かを封じたような木箱や、重い包みがいくつも担がれていた。その中に、誰かの腕のようなものが見えた。
「……待って」
湊が声をかけようとした瞬間、その者たちは一斉に振り返ることなく、森の中へと姿を消した。その気配は、まるでこの世の存在ではないように掻き消えていく。
湊は急いで邸に戻った。
そして、目を見開いた。
「……ない……」
死体が、ない。
床に飛び散っていたはずの血も、千切れたはずの衣も、倒れた柱さえ整えられていた。祭壇に刻まれた呪式の痕跡までもが、すべて綺麗に拭い去られている。
そこには、まるで「誰も死ななかった」ような沈黙だけがあった。
湊は崩れた石畳に膝をついた。
否、何かは"意図して"隠されたのだ。
何者かが、証拠を、記録を、記憶さえも消し去ろうとしている。
「……白百合が、関与しているのか……?」
黒百合家と白百合家。
生死を司る二つの家系は、長らく互いを"鏡"のように見ていた。
だが、どちらが正しく命を扱うべきか。死を司るフィーネ神、生を司るリイヴ神。どちらがそれぞれの神に近いか。その答えを、彼らは選んだのかもしれない。
湊は膝に手を置き、深く息を吐いた。
再び腕に颯を抱き、ゆっくりと立ち上がる。
もはや、ここには何も残っていない。
「消された……すべて……」
残っているのは、自分の中にある魂たちの声。
そして、腕の中の赤子の、静かな鼓動だけ。
その夜、湊は邸を離れた。
もう二度と戻ることはなかった。
だが彼の背には、黒百合の呪いと、白百合への疑念、そして名もなき死者たちの囁きが、静かに付きまとい続けていた。
──終わったはずの黒百合家の惨劇は、
まだ、幕を閉じてなどいなかった。