可愛い子。可哀想な子。どうか生きて。
黒百合家の当主、黒百合凌は、ある日一つの報せを受けた。
「植物の神である夜桜華恵が、怪異を嫁に迎えた。」
その嫁の名は、首切り華。
その姿は恐ろしくも、どこか儚げだった。首を持たず、代わりに色とりどりの華を司る人型の怪異。無数の花弁が宙に浮かび、その中心に、誰もが幻視する彼岸花がある。見る者によって色が異なると言われ、「華に魅せられた者は命を落とす」とさえ囁かれていた。
「神を惑わす下賤な怪異め……」
黒百合凌は、神をも恐れぬ傲慢さで首切り華を「悪性の存在」と断じた。
己が家系こそが「死を扱う資格」を持つと信じて疑わぬ凌にとって、神の婚姻という"異例"は、誇りと支配の構造を破壊する脅威だった。
そして凌は命じた。
「華を斬れ。死の魔術で、神の目の届かぬ領域に葬れ」
長男である黒百合晴人は、この命に異を唱えた唯一の者だった。
「父上、それは……神罰を招きます。神が嫁を娶るとは、ただの奇異ではない。夜桜様は人と神の境を越えたお方です。侮ってはなりません」
だがその進言は一笑に伏された。
「神がどうした。我ら黒百合が死の理を司ってきたという事実は揺るがぬ。嫁など、神の気まぐれに過ぎぬ」
その夜、首切り華は処刑された。
黒百合家の地下に広がる祭壇の上で、魔術によって拘束され、花弁はすべて剥がれ、哀しげに散った。
最後に見せたのは、赤黒い彼岸花。そして、遥か遠くから、それに応じるように花が咲き誇った。
それは、夜桜華恵の怒りだった。
空が落ちた。家の天井が、土が、影が、血を吸う花々に変わった。庭木は枝を延ばし黒百合を閉じこめる檻になり、黒百合家の者たちを根で貫いた。
その美しさは、絶望だった。命ある者すべてに"死"が降り注いだ。
影すら枯れさせてしまう神罰の中、たった一人、晴人は最期の力を振り絞り、赤子を抱いて逃れようとした。
「……颯……っ」
だが、逃げられなかった。
そして、ただ一人、生き残った者がいた。
黒百合家の女主人__湊の母。
彼女は、血を吐きながら、潰れた手で古の禁術書を開いた。
黒百合家"不死転移の秘術"。本来は一族の長だけが継承を許される命の対価魔術。
__この命、我が子に。
__この血統、すべてを捧げる。
彼女は詠唱と共に、自身の心臓を引き裂いた。
死にゆく黒百合家の一族すべての魂を集め、その中心に湊を置いた。
幼い彼の目に涙が浮かぶ。
泣き声は出ない。声帯がまだ弱いからではない。死が、周囲を完全に閉ざしていた。
「湊……お母様の、可愛い子……」
死にかけた彼女の手が湊の頬に触れたとき、光ではなく闇が咲いた。
その闇は血肉と命の意志を媒介に、湊の身体へと注がれていった。
一族の血をすべて浴び、魂をすべて食らい、湊は不死となった。
その瞬間、神の怒りも止んだ。
すべての花が枯れたように崩れ、夜桜の華が沈黙する。
闇の中に、一人。ただ泣いている子どもだけが残された。
死の匂いに満ちた空間で。
愛と呪いのすべてを受け継いだ、たった一人の"黒百合"が。