黒百合家の落ちこぼれ
__黒百合家。
それは異世界共存国で黒魔術を扱う唯一の家系である。
白魔術を扱い、生の神を崇める白百合家と異なり、黒百合家は死の神を崇めている。
死を司る神フィーネに創られ、契約を交わした始祖以来、黒百合家の者たちは皆、漆黒の髪を受け継ぎ、その黒こそが魔術の器となってきた。黒い髪こそが祝福の証。そして、黒こそが死の力を制御する鍵。
だが七人兄弟の末に生まれた少年、黒百合 湊だけは、その掟から外れていた。湊の髪は、陽光を溶かしたような柔らかな茶だった。穏やかで、温かく、黒とは程遠い。
「お前は"黒百合"じゃない」
兄たちは口を揃えてそう言った。魔術の訓練では力を制御できず、簡単な召喚ですら影が逃げる。血統を汚す異端として、彼は家の誰からも無能と罵られ、存在を否定された。
__ただ一人を除いて。
「湊は、お母様の宝物よ」
母は、黒百合家の女主人でありながら、その手にいつも死の匂いを漂わせていた。
愛情を見せることが極端に少ない女だったが、湊にだけは優しかった。他の兄たちに鞭を振るう手で、彼の髪を撫でる。自分の息子たちを訓練場に投げる声と同じ口で、湊の名を甘く呼ぶ。
「だって、湊は弱い子なんですもの。お母様が守ってあげないとね」
その溺愛は、母性ではなく所有欲に近い。湊が逃げようとすれば、母の魔術が影を伸ばして足を縛る。微笑みながら、縛る。愛しながら、壊す。
湊自身もそれを知っていた。だが、それでも彼は家を出なかった。家に留まる限り、"母の庇護"という名の檻の中で、父親や親戚からの暴力を半分だけ避けられる。
痛みを半分にしてもらえるのなら、檻は悪くない。
そう自分に言い聞かせながら、湊は今日も兄たちの訓練場から逃げて、いつもの場所へと足を向ける。
黒百合家の裏庭に咲く、月白の花の茂み。
そこに佇むのは、湊にとってこの家で唯一、恐怖の匂いを感じさせない存在__
「……みおり」
葉百合 美織。
かつて政略結婚の駒として黒百合家に差し出された、黒百合の分家の娘。
けれど湊にとっては、何よりも優しい"光"だった。
「また逃げてきたの?」
「……うん。僕、また怒鳴られた。……影が、言うこと聞かなくて……」
泣きそうな顔でうつむく湊の頭に、彼女はそっと手を置く。年上だと分かる滑らかで女性らしいその指先から、微かな癒しの白い光が生まれて、湊の肩の痛みを静かに消していく。
「いいんですよ。旦那様は優しい子。黒魔術がうまく使えなくても、それでいいじゃないですか」
「でも……"黒百合"なのに……僕、ずっと逃げてばかりで……」
「それでも旦那様は、生きてるものを傷つけたりしないでしょう?」
湊の目から、ぽつりと涙が零れた。彼女の声は、痛みを知らないわけじゃない。同じように婚約という名の牢に囚われながら、彼女は湊の弱さを否定しなかった。そして、その優しさが、湊をようやくほんの少しだけ、前に進ませようとしていた。
それでも、湊は知らなかった。この癒しすら、やがて失われることを。
愚かな黒百合達の破滅の予兆が、すでに足元から忍び寄っていることを。