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Episode 86: 長話

朝とは違って、昼の空気はやけに軽かった。

手に下げた袋が、歩くたびにかすかに揺れる。


「……ちょっと買いすぎたかもな~」


そんなことをぼんやり考えながら、アパートへ続く道を曲がったときだった。


「あらあら、流星くんじゃない!」


聞き覚えのある声に、反射的に足が止まる。


「……あ、大場さん」


いた。

逃げ道、なし。


大場さん(オバチャン)は、いつものようににこにこと笑いながら、こちらへ歩み寄ってくる。

彼女は近所の噂好きのオバちゃんで、こうしてたまに遭遇することがある。


この時点で、なんとなく察するものがあった。


(しまった、これ話長いやつだ)


「あらァ!食材のお買い物?いいわねえ、ちゃんとしてるじゃない。若いのにえらいわよ」

「いやまあ、そんな大したもんじゃ……」

「でもねえ、そういうの大事なのよぉ~!食生活ってほんと体に出るから。

最近なんてほら、春なのに寒かったり暑かったりでしょ?」

「あー……そうですね」

「朝は冷えるのに昼は暑いし、毎日毎日何を着ようかって着るものも困るじゃない?

ほーんと体調崩しやすいのよこの時期。特に若い子って油断するから」

「はあ」


(始まったな)


「あ、そうだ流星くんたち、ちゃんとご飯食べてる?外食ばっかりじゃダメよ?」

「いや、一応自炊は……」

「まぁ!男の子なのにえらいじゃない!最近の子はほんとやらないって聞くのよ。

私の知り合いのところなんてね、一人暮らしだからって自炊のコストがかかるとか何とかグダグダ言いながらもう全部外食で――」


そこから、話は自然に流れていった。


誰それの息子がどうとか、最近の若い子はどうとか、昔はこうだったとか。

俺は適度に相槌を打ちながら、袋を持ち替える。


(……まだ序盤だよななこれ、まいったな)


「そういえばね、この近くのスーパー、ちょっと変わったの知ってる?」

「あー、なんか改装してましたよね」

「そうそう、それそれ!前より品揃えよくなっててね、特に野菜がいいのよ!あとお惣菜も増えててね、あそこの精肉コーナーで売ってるコロッケが結構美味しくて」

「へえ」

「安いし分厚くて量もあるから、男の子にはいいと思うわよ!流星くんたち、食べるでしょ?」

「まあ……それなりに食べますね」

「でね、その向かいの角にパン屋できたの知ってる?」

「え、パン屋?」

「そうなのよ、最近できたの。まだ行ってない?あそこ朝早くからやっててね、焼きたてが――」


話が途切れない。

というか、一つの話題から次の話題へ、自然に滑っていく。


(パン屋の話に移行したな……)


「でもねえ、ちょっと並ぶのよ。なんだか“映える”っていうの?若い人に人気みたいで。ああいうのは最初だけだと思うけどね、ほらテレビとか雑誌とかネットで取り上げられるとすーぐ人来るでしょ?人気なのは良いけど、買いにくくなるってのは問題よねぇ」

「まあ、そうですね」

「この辺も変わってきたわよねえ。昔はもっと静かだったんだけど」

「はあ」


(こりゃ、まだ続くな……)


話を聞きながら、ふと周りを見る。

アパートはすぐそこだ。距離的にはあと数十メートル。


(なんだか近いのに遠いな)


「そういえば流星くんたち、町内会って入ってる?」


不意に話題が変わった。


「……え?」

「ほら、この辺住んでるならあるのよ。町内会、あそこの嶋田さんが町内会長でね」

「あー……いや、そういうのは特に入ってなかったですね」


正直、あまり近所と関わっていなかったので考えたこともなかった。


「あぁ~!やっぱりねえ。そうよねぇ、若い子はあんまり知らないかもねぇ」


責めるような口調ではなく、あくまで納得したような言い方だった。


「でもね、そんなに大変なものじゃないのよ?」


にこにことしたまま、大場さん(オバチャン)は続ける。


「町内会費も徴収はするんだけど、一世帯で月に500円くらいなの。

ゴミ袋とか掃除道具とか、みんなで使うものをまとめて買うのにね」

「へえ……」

「あとね、近所に広場あるでしょ?あそこに物置あるの知ってる?

そこに防災用品も少しずつ揃えてるのよ」

「防災用品?」

「そう。ほら、何かあったとき困るじゃない。

ほら、日本って地震大国でもあるし、いつまたああいう大きな地震が起こってもおかしくないじゃない?だから水とか簡単な備蓄とか、あと工具とかもね」

「……あー」


(これはちゃんと理由あるやつだ)


さっきまで“長いな”と思っていた感覚が、少しだけ変わる。


「非常時もそうだけど、いざってとき近所で助け合うのが大事なのよ。

若い人も関係ない話じゃないしちゃんと関わっておいた方がいいわ」

「なるほど……」

「あとね回覧板とかも回ってくるしね。情報も分かるし」

「回覧板……」

「そうそう。ああいうの意外と大事なのよ?ゴミの日の変更とか、工事のお知らせとかも来るし」

「へえ……」


(そういうの、全然知らなかったな)


「そうだ!最初は全然分からないと思うから、私が教えてあげるわよ!」

「あー……はい」


なんとなく頷く。


断る理由も特にないし、話の流れ的にもそれが自然だった。


「じゃあ今度ね、町内会の紙持ってくるから。そんな難しいことじゃないから安心して」

「分かりました」

「それに近所に顔見知りが増えると安心よ。何かあったとき助かるから」

「そうですね」


そこまで言って、大場さん(オバチャン)は満足したのか、ようやく話を区切った。


「じゃあ、引き止めちゃってごめんね。帰るとこだったでしょ?」

「あ、いえ……」


(だいぶ引き止められてたけどな)


とはさすがに言わない。


「じゃあまたね、流星くん」

「はい、どうも」


軽く頭を下げて、その場を離れる。


数歩歩いてから、小さく息を吐いた。


「……はぁ…やたら長かったな」


袋を持ち直す。

腕にかかる重みが、さっきより少しだけ増えた気がした。


アパートの階段を上りながら、さっきの話をぼんやり思い返す。


スーパーの話。パン屋の話。町内会。回覧板。防災用品。

(……まあ、ちゃんとした話ではあったよな)


面倒くさいのは間違いない。

でも、悪い人ではない。


「ただちょっと……いや、だいぶ話が長いのがめんどくさいんだよなあ」


誰に言うでもなく呟いて、玄関のドアを開けた。



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