Episode 80: 春の思い出④
それから、しばらくの間。
俺は、どこにも属していない感じで日々を過ごしていた。
大学は休学中。
朝起きても、行く場所が決まっていない。
何をする気も起きずに、時間だけがだらだらと流れていく…。
そんな時にメッセージの着信音ががらんとした部屋に響いた。
のろのろとスマホを見ると、ヒーローショーの現場グループから連絡が来ていた。
〈来週、人手足りないんだけど出られる?〉
少し迷ってから、「行けます」とだけ返した。
理由は単純だった。
このまま鬱々と何もしないでいると、心が腐りそうだったからだ。
現場に行くと、いつもの匂いがした。
控室の埃っぽさ。
汗とゴムスーツの混じった独特の空気。
懐かしくて、少しだけ安心する。
「流星!久しぶりじゃん!」
スタッフに声をかけられる。
「大丈夫?」
その言葉に、一瞬だけ詰まった。
「……うん」
それは嘘じゃない。
もう“問題”は終わっている。
ただ、いなくなっただけだ。
その日は怪人役だった。
中に入ると、スーツの中はすぐに蒸れ始める。
雑魚の戦闘員よりも視界は狭く、呼吸もしづらいことこの上ない。
でも、必死で体を動かしている間だけは余計なことを考えずに済んだ。
子供たちの歓声。
ヒーローの決めポーズ。
いつも通りのお決まりの流れ。
ただ、今日は少しだけ違って見えた。
舞台の上で転がりながら、ふと母ちゃんの顔が浮かんだ。
あの人、こういうの好きだったな。
子供の頃は俺にせがまれてだったとは思うが、いつの間にか俺よりも詳しくなっていた
なんてこともあった。
俺がバイトをし始めた時も「がんばってる姿を見るのが楽しい」って、
ちょこちょこ見にきてくれていた。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
ショーが終わり控室に戻ると、社長が来ていた。
――後に“総帥”と呼ぶことになる人だ。
相変わらず、スーツ姿で場違いなくらい落ち着いている。
「お疲れ様」
静かな声。
「久しぶりに現場に出たようだな」
「はい」
タオルで汗を拭きながら答える。
少し沈黙があってから、総帥は言った。
「どうだ」
短い一言。
何を聞かれているのか、すぐに分かった。
「……正直、分かりません」
そう答えた。
「体を動かしてる間は楽なんですけど……終わると、また空っぽになります」
総帥は、頷いた。
「それでいいんだ」
意外な答えだった。
「人は、大きな喪失のあと、すぐには立て直せない」
淡々とした声。
「無理に前を向く必要もない」
そして、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「だが、止まり続けると、余計につらくなる」
俺は黙って聞いていた。
「君は、体を動かすことで、自分を保てるタイプだ」
的確すぎて、反論できなかった。
「もしよければ、だが」
社長は静かに俺を見る。
「しばらく、うちの仕事を手伝わないか」
「……仕事?」
「ヒーローショーだけではない。雑務も、訓練も含めてだ」
一拍置いてから、続ける。
「居場所も用意できる」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
それは、あまりにも現実的で、
あまりにも優しい提案だった。
「君を雇う、というより――居場所を作る、と言った方が近いかもしれない」
俺はすぐに返事ができなかった。
住む場所、仕事、生活……。
母ちゃんがいなくなってから、全部が宙に浮いていた言葉たちだ。
「……どうして、俺なんかに?」
やっと出てきたのは、そんな問いだった。
社長は少しだけ目を細めた。
「君は真面目だ。働き者で、周囲とも上手くやれている
それに――」
そこで言葉を切り、俺をまっすぐ見た。
「今は、ひどく孤独だ」
図星だった。
何も言えずにいると、社長は続ける。
「私はね、流星くん。若い人間が独りで潰れていくのを、何度も見てきた」
静かな声だった。
説教でも同情でもない。
ただ事実を語るみたいな口調。
「君は、ヒーローという存在に、あまり良い感情を持っていないようだね」
一瞬、息が止まった。
「……なんで、それを」
社長は首を横に振った。
「詳しい事情までは知らない。ただ、君の言動や表情を見ていれば分かる」
俺は視線を落とした。
母ちゃんのストーカーのこと。
警察も動かず、何度も逃げるように引っ越しをした。
結局、守ってくれる“正義”なんてどこにもなかったこと。
胸の奥に溜め込んできた、あの黒い感情。
「……ヒーローなんて、結局、表向きの顔だけはきれいなんです。
中身が腐っていようと」
小さく、吐き出すように言った。
社長は否定しなかった。
「正義というものは、往々にしてそういう側面を持つ」
少し間を置いて。
「だから私は、ヒーロー側ではない」
その言葉は淡々としていた。
「褒められた仕事をしているとも思っていない。
世間的には、むしろ嫌われる側だろう」
嫌われる側。
その響きが、なぜか胸に引っかかった。
「だが――」
社長はゆっくりと言った。
「それでも私は、困っている人間を見捨てるつもりはない」
俺は思わず顔を上げた。
「君は今、天涯孤独だ。今は大学も休学している。
それでいて、健康で働く意志もある。身体も動く」
条件を並べているようで、
でもどこか、人を見る目だった。
「流星くん。正義でなくてもいい。ヒーローでなくてもいい。
それでも、生きる場所は必要だ」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
正義じゃなくてもいい。
ヒーローじゃなくてもいい。
その言葉は、不思議なくらい俺に刺さった。
この人なら、信用できるかもしれない。
そう思った。
たとえ後から振り返って、
「あれは全部、囲い込みだったのかもしれない」
と思う日が来たとしても。
この時の俺は確かに、
ただ一人の大人として向き合ってくれている、と感じていた。
「……お願いします」
気づけば、そう言っていた。
社長は小さく頷いた。
「では、まずは環境に慣れるところからだ」
その後、連れていかれたのは、街外れの施設だった。
地上は普通の倉庫みたいな建物なのに、
中に入ると地下へ続くエレベーターがあり、
降りた先には広い空間と、見慣れない設備が並んでいた。
トレーニングルーム。
頑丈そうな壁。
用途の分からない機材。
どう見ても、普通の会社じゃない。
「……ここ、何の施設なんですか」
俺が聞くと、社長は穏やかに笑った。
「色々な“実験”と“訓練”をしている場所だよ」
深く考えなかった。
社長は金持ちだし、色んな事業をやっているって聞いていた。
その一つなんだろう、と勝手に納得した。
あの時の俺はまだ知らなかった。
ここが、
俺の人生の向きを決定的に変える場所だということを。
そしてこの選択が、 後に“悪の四天王”と呼ばれる道の入口だったことを。
そして今なら分かる。
あの時の俺は、拾われたんじゃない。
支えられたんだ。
社長はよく冗談めかして言っていた。
「私は悪の総帥だからね。若者をさらって囲い込むくらいは朝飯前だ」
そんなふうに笑いながら。
でも俺は知っている。
あの人は、
ヒーローでも正義でもない場所で、
ただ困っている若い人間を見捨てなかっただけだ。
住む場所を用意してくれて。
仕事をくれて。
何も言えなくなっていた俺の話を、黙って聞いてくれて。
それだけだった。
きっと最初から、
俺を“四天王”にするつもりなんてなかった。
流星という一人の人間が、
ちゃんと立って歩けるようになるまで、
横に立ってくれていただけだ。
こたつの湯気の向こうで、
俺は湯呑みを両手で包みながら、小さく息を吐く。
そういえばこの時期だったな、と。
母ちゃんが倒れて、社長と出会って、
全部がひっくり返った、あの冬。
今こうして、仲間がいて、飯を食って、
明日の予定を考えている。
それだけで、十分すぎるほどだ。
だから俺は、ちゃんと感謝している。
悪の組織だろうがなんだろうが関係ない。
あの人が手を差し伸べてくれなかったら、
今の俺はここにいない。
総帥。
あんたのやり方は、たぶん正義じゃなかった。
でも俺にとっては――
間違いなく、救いだった。




