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Episode 79: 春の思い出③

朝は、驚くほど静かだった。


目を覚ました瞬間、まず聞こえてくるはずの生活音がない。

隣の部屋から物音もしないし、台所から湯の沸く気配もしない。


天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。

……ああ。

そうだった。

ここには、もう母ちゃんはいない。


胸の奥に、じわっと冷たいものが広がる。

泣きたいほどじゃない。ただ、現実としてそこに横たわっている感じ。


社長が手配してくれた簡易的な部屋。

最低限の家具と、清潔な布団。


決して広くはないけど、雨風はしのげるし、鍵もちゃんとかかる。


ありがたい。

本当にありがたい。


なのに、部屋の中はやけに広く感じた。


起き上がると、床が少し冷たかった。

スリッパを探して、見つからなくて、裸足のまま窓まで歩く。


カーテンを開けると、薄曇りの空が見えた。

季節の境目みたいな、どっちつかずの色。


母ちゃんだったら、こういう空を見て


「う~ん……今日は洗濯どうしよっかな?」


とか言ってただろうな。


俺は顔を洗って、備え付けのケトルで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れた。


香りが立つまでの数十秒が、やけに長い。

一人分のコップ。


その事実が、また少し胸に刺さる。


母ちゃんは、ほんわかした人だった。


声は柔らかくて、笑うと目尻が下がって、よく「大丈夫、大丈夫」って言うタイプ。

看護師の仕事で忙しくしてたけど、弱音はほとんど吐かなかった。


タフだった。


熱を出しても、無理して出勤して。

腰が痛いって言いながら、夜遅くまで台所に立って。


俺が心配すると、


「流星はご飯をちゃんと食べなさい、

明日もバイトならちゃんと食べておかないとだめよ」


って、逆に怒られる。


だからこそ、突然倒れて、あっけなくいなくなるなんて、未だに現実感が薄い。


人って、こんな簡単に消えるのか。


そして気が付いたら、母ちゃんがそれまでどんな道を歩んでいたかを

一切知らない自分に気が付いた。


親類……らしき人にあった事も無ければ祖父祖母にも会った事がなかった。

それはどうしてだったのか...…俺は母ちゃんから聞いた事がなかった。


コーヒーを一口飲んで、俺は小さく息を吐いた。


……考えても仕方ない。

頭では分かっている。

分かっているけど、体がついてこない。


スマホを見ると、まだ朝の九時にもなっていなかった。


あれから俺はこの部屋で一日中ぼんやりしている日々が続いていた。

流石にこのままでは良くないのはわかっている。

それに冷蔵庫の中身が空っぽだ、こんなになっても腹だけは空くんだな。


シャワーを浴びて、服を着替える。

鏡を見ると、目の奥が少し赤かった。


ちゃんと寝たはずなのに、顔が疲れている。


「……まあ、いいか」


誰に言うでもなく呟いて、玄関の鍵を閉めた。

外の空気は、思ったより冷たかった。


アパートの階段を降りる足取りが、妙に重い。


道を歩きながら、何度か立ち止まりそうになる。

これからどうするんだろう。


大学は休学中。


実家は、もう戻れない。

頼れる親戚もいない。

天涯孤独。


その言葉が、遅れて実感として染み込んでくる。


社長の顔を思い浮かべる。

仕事の現場では厳しいけど、話すと妙に落ち着く人。

年齢のわりに背筋が伸びていて、声も低くて静かで。


あの人がいなかったら、今頃俺はどこにいたんだろう。

駅前のベンチに座って、少しだけ時間を潰す。


行き交う人たちは、みんな普通の顔をしている。


仕事に向かう人。

買い物袋を下げた人。

スマホを見ながら歩く学生。


世界は、母ちゃんがいなくなっても

何事もなかったみたいに回っている。


俺だけが、取り残されている気がした。


でも、このままではいられない。


それだけが、今の俺を前に進ませていた。

小さく息を整えて、立ち上がる。


まだ何も決まっていない。

先のことなんて、さっぱり分からない。


それでも、歩くしかなかった。



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