Episode 78: 春の思い出②
病院の待合室は、やけに静かだった。
人の気配はあるのに、音だけが遠い。
テレビはついているのに、内容が頭に入ってこない。
壁の時計の秒針が、規則正しく進むのをぼんやり眺めていた。
社長は、俺の隣に腰掛けたまま、何も言わずに待っていた。
急かすことも、慰めることもない。
ただ、そこにいる。
それだけだった。
「……母ちゃ……母は」
俺がようやく声を出すと、社長は小さく頷いた。
「医師の説明は、これからだ」
それ以上は言わなかった。
しばらくして呼ばれ、白い部屋に通された。
医師の口から出てくる言葉は、どれも専門用語ばかりで、現実味がなかった。
心停止。
処置。
間に合わなかった。
理解しているはずなのに、実感が追いつかない。
頭のどこかで、
「母はタフだから」
という根拠のない前提が、ずっと居座っていた。
あの人は、弱そうに見えて、実際はすごく強かった。
風邪ひとつ長引かないし、無理しても次の日には普通に家事をしていた。
だから……
こんなふうに、急にいなくなるなんて。
医師が頭を下げた。
俺も、反射的に頭を下げた。
礼を言うべきなのか、何を言えばいいのかも分からないまま。
病室に入ると、母は静かに横たわっていた。
眠っているみたいだった。
手に触れると、少し冷たい。
「……母ちゃん…」
声は出た。
でも、それだけだった。
泣けなかった。
叫びもしなかった。
ただ、現実が薄い膜一枚向こうにあるみたいで、
自分がそこに触れられない感じが続いていた。
社長は少し離れた場所で待っていてくれた。
俺が何も言えずに立ち尽くしていると、静かに近づいてきて、低い声で言った。
「今日は、ここまででいい」
優しい声だった。
「手続きは私が手配する。君は、今日は休みなさい」
「……でも」
何か言おうとしたけど、言葉が出てこない。
社長は俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「君は、今、大きな喪失で正常な判断ができる状態じゃない」
否定できなかった。
そのまま、社長の車で家まで送ってもらった。
車内は静かだった。
ラジオもつけず、エンジンの音だけが続く。
信号待ちの間、社長がぽつりと言った。
「お母様のことは、残念だった」
それだけ。
過剰な慰めはなかった。
でも、その一言で、胸の奥が少しだけ揺れた。
翌日から、現実が一気に押し寄せてきた。
死亡届。
火葬の手続き。
役所。
保険。
公共料金。
何が何だか分からない書類の山。
社長は、その全部に付き合ってくれた。
淡々と説明し、必要なところに丸をつけ、
「ここに署名だ」と静かに指示を出す。
俺は言われるままペンを動かした。
まるで自分の人生じゃないみたいだった。
母の遺品を整理する時も、社長は部屋の外で待っていた。
急かさず、入っても来ない。
でも、終わる頃合いを見て、温かい飲み物を差し出してくれた。
「無理をしなくていい」
何度も、そう言われた。
それなのに、俺は無理をしている自覚すらなかった。
泣けない。
疲れも感じない。
ただ、空っぽだった。
大学には休学届を出した。
講義どころじゃなかったし、
正直、何も考えられなかった。
気づけば、天涯孤独になっていた。
親戚は…どこかにいるのかもしれないが、今まで全く交流がなかった。
なので身内で頼れる人間はいないと言っていい。
社長だけが、現実の中にいてくれた。
ある日、事務所で向かい合って座った時、
俺はようやく口を開いた。
「……これから、俺は……どうしたらいいんでしょう」
情けない声だったと思う。
社長は少し考えてから、ゆっくり言った。
「君は若い、選択肢はいくつもある」
指を折りながら、静かに整理してくれる。
「大学に戻るのもいい。
別の仕事を探すのもいい」
そして、俺をまっすぐ見て言った。
「うちに残るという手もある」
胸が少し跳ねた。
「君は現場でも信頼されている。
体も動く。根性もある」
評価を並べられるのが、妙に現実的で、
逆に安心した。
「急いで決める必要はない。
だが、独りで全部を抱え込む必要もない」
その言葉に、初めて喉の奥が熱くなった。
俺は、ここまで一人で耐えてきたつもりだった。
でも、違った。
最初から、支えられていた。
「……少し、考えさせてください」
それだけ言うのが精一杯だった。
社長は頷いた。
「あぁ、急ぐ必要はない」
それだけだった。
外に出ると、風が冷たかった。
春なのに、まだ冬の名残がある空気。
俺は空を見上げて、小さく息を吐いた。
母はもういない。
でも、俺はまだここにいる。
生きている。
それが、妙に不思議だった。




