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Episode 77: 春の思い出①

昨日の熱のせいで、今日は丸一日ゆっくり休めと念を押された。


湯のみを両手で包むと、指先にじんわりと熱が伝わってくる。

昼間より少し冷えた空気のせいか、湯気がいつもより白く濃い。

窓の外では、どこかの家の洗濯物が風に揺れていた。


今、いつもの居間には俺ひとり。


クロは自室で昼寝、敦史も修二も、それぞれ用事で外に出ている。

こういう時間は珍しい。


「……そういやこの時期だったよな」


ぽつりと声に出してから、自分で苦笑した。


春先の、まだ寒さが残っているけど、日差しだけは妙に明るい季節。

空気の匂いが少し変わる頃。

毎年この辺りになると、思い出す。


忘れたふりはできる。

でも、完全には消えてくれない記憶がある。


湯のみを口に運ぶ……少し渋い。

あの頃も、こんな味だった気がした。




――ヒーローショーのバイトに入ったのは、高校1年の春休みの頃だった。

正直、最初は軽い気持ちだった。

休みの合間にできて、体も動かせて、時給も悪くない……ハードだけどむしろ他と比べても稼げるので良かった。

それくらいの理由。


重たいスーツを着て、子どもたちの前で転んだり、時には容赦なく子供から殴られたり蹴られたりもする。

バイトだから一発で派手に吹き飛ばされる名もなき戦闘員役が多いが、ヒーロー役の日もあれば、怪人役の日もあった。

本格的なスーツの役だと、汗だくになるし、着ぐるみの中は蒸れるし、正直楽な仕事じゃなかった。

けど、不思議と嫌じゃなかったのにはちゃんと理由がある。


上手く動けば評価される。

しかもちゃんと頑張った分だけ、誰かが見てくれる。

それが時給にも反映された。

それが、当時の俺にはありがたかった。


自分には特別な才能があったわけじゃない。

ただ、運動神経がそこそこ良かったのと、とにかく周りに若手が少なかった。


一番年齢が近くても30代の人で40超えてる人もザラにいた。

だから若手で体力も有り余ってた俺に自然と出番が増えた。


キレを求められるアクロバットっぽい動きを任されたり、

派手にやられて転がる役を頼まれたり、

体力もあったから「ゴメン流星、もう一回いける?」って呼ばれたり。


そんなある日だった。


リハーサルの後、社長に呼ばれた。

初めてちゃんと話した時の印象は、今でも覚えている。


背筋が伸びていて、白髪をきれいに整えた紳士。

声は落ち着いていて、目がよく人を見ていた。


「君、客席で見ていたが……なかなかに動きがいいね」


それだけで、胸の奥が少し熱くなった。


「よければ、メインのヒーロー役か怪人役をもう少し増やしてみないか。

もちろんその分時給も上げようじゃないか」


一瞬も迷わなかった。


「やります!」


即答だった。


時給も条件的にも申し分ない。

家に帰って母ちゃんに話すと、

あの人は少し驚いた顔をしてから、ふわっと笑った。


「まぁ!スカウトなんてすごいじゃない、流星」


母ちゃんは、そういう人だった。

声は柔らかくて、動作は静かで、

いつも少しだけ上品。

おっとりしていて、怒鳴るところなんて見たことがない。


それでも、母子家庭で俺を育てきった人だ。

弱音を吐かない。


疲れていても「大丈夫」と言う。

……その「大丈夫」を、俺はずっと信じていた。


仕事は順調だった。


現場にも慣れて、先輩たちとも普通に話せるようになって、

社長ともたまに言葉を交わすようになった。

やりがいもあってちゃんと生活している、という実感があった。


なのに。


ある日の昼、知らない番号から電話がかかってきた。

病院だった。


何を言われたか、正確には覚えていない。

ただ「お母様が倒れました」という言葉だけが、頭に残った。

そこから先は、古いモノクロの映像みたいに途切れ途切れだ。


病院の白い壁。

消毒液の匂い。

廊下を歩く靴音。


ベンチに座って、両手を握りしめていた自分。

どれくらい時間が経ったのか分からない。


気づいたら、社長が隣に座っていた。


「バイトの時間になっても連絡が取れなかったからね。様子を見に来た」


そう言って、静かにお茶を差し出してくれた。

その時、初めて少しだけ現実が戻ってきた気がしたんだ。






湯のみの中身は、いつの間にか冷めていた。

俺はそれを見下ろしながら、ゆっくり息を吐いた。


「……あの人、やっぱすげぇよな」


今なら分かる。

あの時、横に座ってくれただけで、

どれだけ救われていたのか。

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