Episode 76: 無自覚
「……今日、妙に体が重いな」
朝、洗面所の鏡を見ながら、ふとそんなことを思った。
目の下になんだかうっすらクマがある。
寝不足ってほどでもないはずなのに、まぶたがやけに重たく感じる。
さらに肩も、腰も、全体的に鈍く張っている感じがする。
でも、別に熱はなさそうだ。
額に触れてみても、いつもと変わらない。
喉も痛くないし、咳も出ていない。
ああ、たぶん日頃のちょっとした疲れなんだろうな。
最近、地下での訓練も続いていたし、昨日は遅い時間にバイトも入っていた。
生活が回り始めた分、細々とだが体を使う機会も増えている。
そういう小さな疲労が積み重なって、表に出てきただけ……。
今のところ具体的な原因もないため、そう思うことにした。
「まあ、コレくらい特に大丈夫だろ」
小さく呟いて顔を洗うと、冷たい水が頬を打って少しだけ目が覚めた。
居間では敦史がすでにPCを開いていて、今日の朝食当番の修二は台所で朝食の準備をしている。
クロは畳の上に座って、触手をゆらゆら揺らしていた。
「おはよう!りゅーせー!」
「おう、おはよう」
声をかけると、それぞれ軽く返事が返ってくる。
この何気ない空気が好きだ。
誰かが特別なことを言うわけでもない。
でも、ちゃんと同じ場所で朝を迎えている感じがする。
母ちゃんと二人で暮らしていた頃は、朝はいつもバタバタしていた。
弁当作って、洗濯して、仕事の準備をして……俺は俺で学校の準備をして。
看護師をやっていたせいか忙しいことも多くて、逐一「大丈夫?」なんて聞かれる余裕はなかったし、俺自身も余程のことがなければそんなことを言い出すタイプじゃなかった。
多少しんどくても、歩けるなら学校に行くし大抵そこで元気になってピンピンしていたので、特に問題があったことはなかった。
それが普通だった。
だから今も――ちょっと体が重いくらいで騒ぐ気にはなれない。
午前中は地下で軽めの調整だった。
スーツを着て、いつも通りの動き。
スピードの型の踏み込みも、悪くない。
……はずだった。
一瞬、視界が滲んだ。
床がふっと遠のくような感覚。
反射的に片足をつく。
「あれっ……?」
自分でも分かるくらい、動きが鈍った。
「流星?」
修二の声がどこか遠くに感じる。
「ああ、大丈夫、ちょっと滑ったかな?」
俺は思わず即答した。
こういうのは一瞬だ、ちょっとバランスを崩しただけの、訓練中にはよくあるハプニングだ。
そう思った瞬間、クロが俺の袖を掴んだ。
「……りゅうせい、ふらふらしてる」
小さな声。
「え?」
「さっきも、いまも」
まっすぐな視線。
子どもみたいに純粋で、
だからこそ誤魔化しがきかない。
「気のせいだっ……て」
そう言いかけて、止めた。
胸の奥で、心臓がいつもより早く脈打っている気がする。
「……なぁ、一旦休憩しようか」
神妙な顔で修二が言った。
敦史も頷く。
「一旦今日はここまでだな。効率も落ちてるみたいだし」
俺は反論しなかった。
本当は少しだけ、助かったと思っていたんだ。
今日の昼飯は焼きそばだ。
炒め方もばっちり上手くいったし、ソースの匂いはちゃんと食欲を刺激するのに……なんだか箸を動かすのが億劫に感じる。
「流星、遅くない?」
敦史に言われて初めて気づく。
「え?」
「食べるペース。いつもの半分くらいじゃね?」
「あー……」
自覚がなかった。
修二がちらっと俺の顔を見る。
「それにさっきから顔色、あんまり良くないぞ」
「そうか?」
「うん」
俺は笑った。
「あー、昨日バイト遅かったんで若干寝不足なのかな?
まぁ気のせい気のせい!」
自覚は全くなかったんだが、まるでそれは自分に言い聞かせるみたいに口から出ていた。
夕方。
足りなくなった食材と生活用品の買い出しに出ようとして玄関で靴を履いた瞬間、目の前がぐらっときた。
今度は、はっきりとだ。
視界が白くなって、耳鳴りがする。
「あ……?」
支えようと壁に手をつくと、思った以上に大きく音が響いたせいか修二がすぐに来た。
「流星?どうした?」
「あー、大きな音出して悪い、ちょっと立ちくらみ……かな」
そう言いながら、自分でもはっきりと分かっていた。
これは、ただの立ちくらみじゃない。
あとからやってきた、クロがおもむろに触手を伸ばして俺の頬に触れた。
「……流星、あつい」
顔を覗き込んできた修二が俺の額に手を当てる。
「……まずいな。これは、結構熱あるんじゃないのか」
「オイ、そんな調子ならちゃんと計って調べとけ」
不機嫌な様子で体温計を持ってきた敦史が、計った数字を見て眉を寄せた。
「ちょ……38度超えてるぞ、なにやってんだ」
その数字を聞いて、一気に現実味が押し寄せてきた。
ああ、これは気合でどうこうなるやつじゃない。
「今からだと内科は閉まってるな」
時計を見るともうすっかり陽も落ちてきている。
「んな、救急行くほどじゃない……」
三人の視線が俺に集まる。
「悪い……今日は様子見でいい、明日まで続いたらちゃんと病院行くからさ」
昔からそうだ。
今日どうしても動けないほどじゃないなら、
一晩寝れば何とかなる気がしてしまう。
修二は少し迷ってから頷いた。
「分かった。でも悪化したらすぐ言え。
今からちょっと解熱剤とか冷えピタとか買ってきてやるから。」
「……了解」
「流星はもう無理せずに寝とけ、ほら」
修二は財布を掴んで出ていき、敦史は手際よく布団を敷き、タオルと氷枕を準備すしている。
クロは黙って俺のそばに来た。
「……ぼく、ここにいるよ」
その一言が、やけに胸に沁みた。
夜。
薬を飲まされ、冷却シートを貼られ、水を飲まされる。
熱のせいで、なんだか頭がぼんやりする。
こんな熱が出たのなんて子供の時ぶりじゃないか?
天井の模様が、ゆっくり揺れて見えた。
その合間に、三人の声が聞こえる。
「ったく……アイツ、無理しすぎなんだよ」
「本人に体調不良の自覚がないのが一番厄介だな」
「クロが気づかなかったら、もっと悪化してたかも」
「……クロ、えらい?」
「えらい、よくやった」
そのやり取りを聞きながら、俺は目を閉じた。
申し訳なさと共に、誰かが俺のために動いてくれている。
その事実が、熱よりもじんわり体に広がっていった。
翌朝。
薬が効いたせいか、体はだいぶ楽になっていた。
体温を測ると、ちゃんと平熱まで戻っている。
我ながら体の丈夫さに感心する。
若干気まずい思いをしつつ居間に出ると、三人が同時にこっちを見た。
真っ先に声をかけたのは敦史だった。
「どうだ?体調は復活したか?」
「ああ、今朝はだいぶいい、楽にはなったよ、熱もない」
修二は黙ってお茶を差し出してくれる。
クロは安心したように触手を揺らした。
「……よかった、あつくない」
その表情を見て、ようやく分かった。
ああ、俺、ちゃんと心配されてたんだよな。
「ゴメン……迷惑かけたよな」
敦史が即答する。
「はぁ…38度も熱が出たら誰だって心配するだろ、迷惑なんて思ってねえよ」
修二も頷く。
「心配だし無理を重ねて倒れられる方が困る、次から調子が変だと思ったら休め」
クロが小さく言う。
「……こわかった」
その言葉に胸の奥が、きゅっとなった。
「……みんな、ありがとう、次からなんかおかしかったら早めに言うよ」
敦史が苦笑する。
「大体自分の事に鈍感なんだよ、今日はちゃんと休んどけよ」
「うっ、耳が痛い!……今後は善処します」
自分自身の体調に鈍感で、多少の事は我慢する癖は簡単には抜けない。
でも今は、我慢しなくていい場所がある。
それを失いたくないと思えるくらいには。
湯気の立つお茶を飲みながら、静かに思う。
俺たちは、ちゃんと四人になってきている。
その実感が、少しだけくすぐったくて、
少しだけ誇らしかった。




