Episode 73: 守りと攻め
最近の夜は、昼間に比べてやけに音が少ない。
古いアパートの外階段を上ると、遠くを走る車の音と、どこかの家の換気扇が低く唸る音だけが残る。
春が近いはずなのに、夜風はまだ冷たく、息を吸うと胸の奥がわずかに縮こまる。
地下の訓練スペースに降りた時、照明は半分だけ点いていた。
コンクリートの床に落ちる光が淡く、影の方が多い。
そこに、修二がいた。
壁際に立ち、拳を握ったまま動かない。
ストレッチもしていない。準備運動の途中という感じでもない。
ただ、そこに“止まっている”。
修二は、仕事を終えた日でも必ず何かしら体を動かす。
それは習慣であり、義務であり、たぶん安心するための行為なんだろう。
だからこそこうして動かずにいる姿は、少しだけ異様だった。
なので俺はすぐに声をかけられなかった。
訓練前、修二はよく一人になる。
集中している、と言えば聞こえはいいが、実際はもっと閉じた感じだ。
周囲を切り離して、自分だけで完結しようとする癖。
その背中を見ながら、少し距離を取ったまま様子を伺う。
拳が、微かに動いた。
踏み出す前兆――そう思った瞬間、動きは止まる。
俺は、その一拍の遅れを、何度も見てきた。
「なぁ……なんか考えてるのか?」
声をかけると、修二は一瞬だけこちらを見た。
鋭い視線だが、焦点が定まっていない。
「……ああ」
短い返事。
だがそれ以上は続かなかった。
俺は壁に背を預け、腕を組んだ。
視線は修二に向けたまま、次にかける言葉を探す。
「なんか最近さ……一歩前に出るの、遅いよな」
責める口調ではなかったと思う。
事実確認に近い、抑えた言い方……をしたつもりだ。
修二は否定しなかった。
「……ああ、自覚はある」
拳を開き、また握る。
その動きが、妙に慎重だった。
力を込めること自体を、ためらっているみたいに。
「多分……余計な事を考えすぎてるんだろうな」
修二自身の言葉だった。
他人に言われて気づいた、というより、もう分かっていて口に出した感じだろう。
俺は小さく息を吐いた。
修二はパワー型だ。
最後の決定打を叩き込む役。
だからあいつが前に出ないと、戦闘はどうしても鈍ってしまう。
それは誰の目にも明らかで、だからこそ、修二自身が一番よく分かっているはずだった。
それでも――
最近前に出る一歩がどうしても遅れている。
いや、何か原因があって出られない、に近いかもしれない。
「なあ。正直に言ってくれよ」
俺は一歩、距離を詰めた。
「最近の戦闘訓練で、何か引っかかってることがあるんだろ?」
修二は、しばらく黙っていた。
視線を床に落とし、考えをまとめるように呼吸を整え、やがて、静かに口を開いた。
「……飛び出す前に、毎回少し躊躇するんだ」
淡々とした声。
感情を乗せない言い方、だが修二の素直な気持ちなんだろう。
「俺が前に出る役で……引き受けるべき部分だと思ってる」
その言葉は、弱音でも愚痴でもなかった。
「でも俺が崩れたら、終わるだろ」
そこで、ようやく腑に落ちた気がした。
「なんかそれってさ、一人で戦う前提になってないか?」
修二は、どうやら自分が無意識に“一人で完結しなきゃいけない役割”だと思い込んでいる。
そう言った瞬間、修二の眉がわずかに動いた。
驚きというより、言い当てられた時の反応に近い。
「……どういう意味だ」
いつもと同じように声は落ち着いている。
でも、いつもよりほんの少しだけ低くなっていた。
「なぁ、修二が前に出た時、後ろの俺らが何もしてないと思ってる?」
問いかけは、答えを求める形をしていたが、実際には確認に近かった。
修二はすぐに返さなかった。
視線が床に落ち、呼吸が一拍、深くなる。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
”何もしていない”とは思っていないかもしれないだろうが、そこまで意識を向けていなかったかもしれない。
俺は一歩、距離を詰めた。
「俺さ、毎回修二が前衛で殴る前提で走ってる」
修二の視線が、ゆっくりと上がる。
「敦史は、その前に状況を整理してるし、クロは修二が踏み込んだ後でも崩れない位置を取ってる」
言葉を重ねながら、俺は修二の反応を見ていた。
否定はない……でも、すぐに飲み込めている感じでもない。
「修二が全部引き受けるならさ……」
一拍、間を置く。
「それって、単なる俺らの護衛になっちゃうだろ」
そう言い切ったあと、正直少し不安になった。
言い過ぎたかもしれない、という感覚。
それを聞いた修二はしばらく黙っていた。
拳を握り直し、ゆっくりと開く。
「……守るつもりだった」
ぽつりと落ちた声。
「誰かを後ろに立たせるのが、怖かったんだ」
その言葉は、説明でも弁解でもなかった。
事実をそのまま置いた、という感じだった。
俺はそこで、ようやく理解する。
修二は、仲間を信じていないわけじゃない。
ただ、“信じた結果、背中を預ける”という選択にまだ慣れていないのだ。
「なあ……」
俺は、少しだけ声を落とした。
「守るのと、任せるのは別だと思うぞ」
修二は何も言わない。
視線は床のまま。
「誰かに任せるってさ、無責任になることじゃないだろ?」
自分に言い聞かせるように、言葉を続ける。
「自分が崩れても、誰かが拾ってくれるって前提を持つことじゃないかな」
修二の肩が、ほんの少しだけ動いた。
それは否定でも肯定でもない、迷いの反応だった。
「……頭では分かってる」
ややあって、修二が言った。
「でも、反射的に身体が先に止まることがあるんだ」
その言葉に、妙な重さがあった。
考えの問題じゃない。
長年染みついた反射なんだろう。
「正直……一人で完結させた方が、早いし、安全だと思ってた」
そう言いながら、修二は自分の手を見る。
鍛え上げられた拳。
何度も前に出てきた手。
「それに……」
言葉が途切れる。
「後ろに誰かがいる状態で、俺のせいで失敗するのが……怖い」
それは、修二らしい弱音だった。
格好をつけない、取り繕わない、本音。
誰よりも前に立ち続けてきたからこそ、
気づけば、後ろに誰かがいる感覚をどこかに忘れてしまっていたんだろう。
俺は、そこでようやく確信した。
修二の行動を鈍らせているのは守りへの強い思いだ。
「なあ、修二」
俺は、少しだけ笑った。
「戦いってさ、一人だけでなんでも引き受けるものじゃないと思うぞ」
修二が、わずかに顔を上げる。
「……流星からはそう見えてたか?」
沈黙。
でも、もうさっきよりも重くはなくなっていた。
「次の訓練さ」
俺は話題を少しだけ前に進めた。
「俺が先に動く」
「……え?」
「だから修二は、考え切る前に踏み出せ」
そう言い切ったあと、俺自身の胸も少しざわついた。
これは賭けだ。
言葉だけじゃなく、行動で示す必要がある。
「まぁ後ろは、俺らが何とかするからさ!」
気にする修二の不安を払拭するためにあえて軽い口調で言ってみたが、修二はすぐには答えなかった。
視線が揺れる。
「……それで、崩れたら?」
「その時は、俺らが引き戻す」
即答だった。
「きっと敦史が立て直して、クロが時間を稼ぐ」
修二は、ゆっくりと息を吐いた。
「……簡単に言うな」
「バカいえ、そんな簡単じゃねえよ」
俺は肩をすくめた。
「でも、ここでやる価値はあるだろ?」
しばらくして、修二が小さく頷いた。
「……任せる、か」
その言葉は、まだ完全には馴染んでいない。
でも、逃げてはいなかった。
シミュレーションを立ち上げる。
四人想定。
最初の動きで、修二はやはり一拍遅れた。
踏み出しかけて、止まる。
「いいから行くぞ修二!」
俺が叫ぶ。
修二は、一瞬だけ迷って――来た。
遅れを取り戻す分動きは荒い。
完璧じゃない。
でも、シミュレーション上でホログラムのクロが支え、敦史のフォローが入る。
空いた一瞬に、修二の拳が叩き込まれる。
「……っ」
息を詰める音が響く。
「いけたな!」
俺が言うと、修二はしばらく黙っていた。
「……後ろに、ちゃんといた」
その声は、少しだけ震えていた。
たぶん、初めての感覚だったんだろう。
前に出て、背中を預けて、それでも崩れなかったという事実。
切り札は、一人で振るうものじゃない。
支えられて、初めて切れる。
「こういうのも、いいもんだろ?」
「……そうだな、少し、楽になったと思う」
修二がそれを“理解した”夜じゃない。
身体で、少しだけ信じ始めた夜だった。




