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Episode 72: もう一つのホワイトデー

この頃、夕方の空気が少し落ち着かない。


昼の名残でまだ明るいのに、風だけが先に夜の顔をしている。

古いアパートの廊下は、日が落ちると途端に冷えた匂いを帯びる。

季節が変わる前触れ、というやつだ。

日も以前より伸びている気がする。


居間では、仕事から帰って来ていた修二がこたつに入っていた。

入っている、というより、入っているのに落ち着いていないと言った方が正しい。


マグカップを両手で持ったまま、ほとんど口をつけていない。

視線はモニタでもスマホでもなく、宙を漂っている。


「……修二」


呼ぶと、少し遅れて反応した。


「ん、ああ…何だ?」

「そのコーヒー、もう冷えてるぞ」


修二はカップを見て、苦笑する。


「……ああ、ほんとだ」


三月の怪現象その一。

悩み始めた人間の飲み物は必ず冷める、なんてな。


こたつの電源は入っていない。

それでも、この部屋は不思議と寒くない。

クロが丸まって寝ているせいか、生活の気配が残っているせいか。


それなのに、修二の周りだけ、少し空気が張っていた。


「考え込んでるみたいだが、何かあったのか?」

「いや……」


その返事の仕方で、大体わかる。

「ない」と言い切れない時の声だ。


「仕事?」

「違う」

「人間関係?」

「うーん、それも近いけど……」


一拍、間が空いた。


「……ホワイトデーなんだけどさ」


修二は、ほんのわずかに肩をすくめた。

肯定とも否定ともつかない反応。


窓の外で、風が吹く。

カーテンが揺れて、布の影が壁に伸びた。


「前にバレンタインの時、先輩が貰ったチョコ大量に持って帰ってきたろ」


「……“余ったやつ”って言ってたな」

「余り方が異常だったけどな、何だあのチョコの山は……人間なのか本当に」


敦史が、キーボードを叩きながら淡々と言う。

修二は笑ったが、その笑いはどこか薄い感じがした。


「その先輩、リョウさんっていうんだけどさ…多分、今まで色んなものもらってきた人なんだ」


修二の声は、穏やかだけど、少しだけ慎重だった。

相手を値踏みしないように、言葉を選んでいる感じなんだろう。


「だからさ。今さら俺が何渡しても、意味ない気がして」


こたつ布団の縁を、修二の指が軽くつまんでいる。

無意識の動き。

最近気が付いたが、これは修二が考えが堂々巡りしている時の癖だ。


「俺だったら余ってたって言ってたんなら渡さなくても、失礼じゃないとは思うんだけど」

「まぁな、でも……」


その“でも”の続きを、修二は言わなかった。


敦史が、ちらっとこちらを見る。


「合理的に言えば、渡さないのが最適解なんじゃないか?

気を遣わせないし、コストもかからない」


「ちょっ……敦史。

身もふたもない正論はやめろ、お前の感情の項目どこに置いてきた」


俺が即座に言うと、修二が少しだけ笑った。

それがなんとなく救いだった。


そこへ、クロが目を覚ました。


「しゅーじ……あたま、ぐるぐる?」


眠気の残った声。

だけど、妙に的確だ。


「……まあな」


「ほわいとでーってなに?」


クロの問いは、空気を切り替える。

張り詰めていた部屋が、少し緩んだ。


説明すると、クロは一生懸命考えたあと、真顔で言った。


「じゃあ、ありがとう、あげる日?」


その言葉が、すとんと落ちた。


修二は一瞬、何も言わなかった。

ただ、目を伏せてから、小さく息を吐く。


「……そうかもしれないな」


そんなときに敦史が、間の悪い補足をする。


「ありがとう自体は無形資産だからな」

「もぉ~!お前は本当~に黙っとけ!」


クロは気にせず、修二を見上げる。


「しゅーじ、ありがとう、なくならないよ」


その一言で、修二の表情が少し変わった。

迷いが、ほんの少しだけほどける。


俺は、それを見て思った。


――修二は、渡すかどうかで悩んでるんじゃない。

“自分がどう思われるか”じゃなく、“自分がどうありたいか”で迷ってるんだ。


「なあ修二」

「渡さなかったら、後悔するか?」


少し間を置いて、修二は頷いた。


「……するとは思うな」

「じゃあ、渡して微妙な反応だったら?」


「それでも、いい、普段お世話になってるお礼が言いたかっただけだから」


その答えは、もう決まっていた。


窓の外は、すっかり夕暮れ色だ。

昼と夜の境目が曖昧な時間。


「なんでもいいんじゃないか、修二らしいやつでさ」


修二は立ち上がって、少し照れたように笑った。


「……そうだな、ありがとう」


その背中を見送りながら、俺は思う。


派手なヒーローみたいな行動じゃなくてもいい。

こういう小さな選択の積み重ねが、

たぶん人を“ちゃんとした大人”にしていくんだ。


「しゅーじ、がんばれ」


春は、もうすぐそこまで来ている。


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渡すと決めたら、あとは早かった。


高価なものは選ばなかった。

特別すぎない、でも雑でもないもの。


渡す瞬間、正直少しだけ緊張した。


「これ、この前の頂いたチョコのお礼です」


リョウさんは一瞬きょとんとしてから、笑った。


「えー、なんだよ~!めちゃくちゃ余ってて処分してもらったんだから気遣わなくていいのに」


……やっぱり、そう言う。


でも、次の言葉が続いた。


「でも、こういうのって修二らしいよな。ホントありがとう!」


それだけだった。


拍子抜けするくらい、あっさりしていて。

でも、不思議と胸の奥が軽くなった。


ああ、これでよかったんだ。


意味があったかどうかなんて、

たぶん、最初から問題じゃなかった。

お礼が伝えられただけでこんなホッとする事とは思わなかった。


------------------------------------------------------------------------------------------------

アパートに戻ると、流星がこたつに入っていた。


「渡した?」

「うん」


「どうだった」

「……すっきりしたよ、ありがとな」


それを聞いて流星はちょっと微笑んだ後、それ以上何も言わなかった。


それでいい。


ホワイトデーは、静かに過ぎていく。

でも、確かに一つ、胸の中で片付いたものがあった。

それはたぶん、「渡すべきかどうか」じゃなく、

「自分がどうありたかったか」という答えだった。

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