Episode 70: ドラムス
三月の午後というのは、どうしてこうも気の抜けた空気を生み出すのか。
冬の名残がまだほんの少しだけ残っていて、でも確実に春が近づいている匂いもある。
障子越しの光は鋭さを失い、和紙に反射して柔らかく滲んでいた。
古いアパートの木材までが、日差しでふわっと温まっているのが分かる。
洗濯物は風で気持ちよく揺れ、部屋の中には少しだけほこりの匂い。
それら全部が混ざって、なんとも気の抜けるような——
「春の午後ってこういう感じだよな」と思わせる空気をつくっていた。
そんな自室の真ん中で、俺はショルキーを構えていた。
姿勢はリラックスしているが、手元だけは真剣だ。
ショルキーの鍵盤を軽く押すたび、イヤホンの中で小さく音が跳ねる。
昔は家にもあって、よく遊びで弾いていた。
母ちゃんも休みの日にぽろんと触っていたから、あの人もピアノが好きだったんだろう。
だからか、鍵盤に触れると懐かしい気持ちになる。
ポロンという電子音にも、どこか優しい色気があった。
コードを流しながらアドリブを乗せる時間は、俺にとって現実逃避……というより、
気持ちが整っていく儀式みたいなものだ。
そんな気持ちのいい流れの中で。
コン……コン、コン。
小さくて軽い音が廊下から響いた。
階段の軋む音も風の音も、このアパートではよくあることだ。
だから最初は気にしなかった。
だが数秒後、部屋のドアがカチャリと開いた。
「……りゅーせー?」
クロだった。
部屋の隅にちょこんと座りながら、丸い目でこちらを見ている。
あいかわらず足音ゼロ。
気配がふわっと現れる系の生命体。
「どうした? なんかあったか?」
「りゅーせー、なんか、たのしそうな音してた」
ショルキーを指さすクロ。
その表情は興味と好奇心でいっぱいだ。
「ああ。ショルキーの音か。イヤホンから音漏れてた?」
「ううん、コンコンって音」
「なるほど、鍵盤叩く音のほうか」
クロは俺のそばに座り込み、鍵盤をじっと覗き込む。
日差しがクロの頬を照らし、人間じゃないのに人間より人間らしく見える瞬間。
「クロ、ピアノに興味ある?」
「うーん……?」
「じゃあ、ちょっと音聞いてみるか」
片方のイヤホンを渡す。
クロは眉を寄せながら、そっと鍵盤を触った。
ポン、と一音。
途端に目を丸くしたが、すぐにふるふると首を振った。
「うーん、こういうのじゃない……なんか、たたく感じが、すき」
「叩く感じ?」
「ぽこぽこぽこぽこ……するやつ」
ああ、打楽器の音を探してたのか。
「リズムが好きってことか?」
「りずむ……?」
机を軽く叩いてやる。
タカタカタカ。
クロの体がぴくっと跳ねた。
「これ、すき!! たかたか!!」
反応が速すぎて笑ってしまう。
「よし。じゃあちょっと面白いもの見せてやるか。一階いこうぜ」
「いく!!」
クロはすぐ立ち上がる。
俺はショルキーを置き、クロと一緒に階段を下りた。
今は敦史が編集終わりで寝ているらしい。
一階のパソコンを起動すると、ファンの音と一緒に少しこもった空気が動いた。
古い和室は薄暗く、モニターの光だけが妙に鮮明に浮き上がる。
クロは椅子の横に立ち、背伸びしながら画面をのぞく。
「まずはピアノな」
動画を再生すると、優雅な旋律が流れ、鍵盤が滑らかに動く。
「ふぉー……きれい」
「好きか?」
「うーん……きれいだけど、ちがう」
ギター、バイオリン、シンセ——
どれにも興味は持つが、どれも「これ!!」ではない。
だが。
『ドラム ソロ』
そのサムネをクリックした瞬間。
ドドドドドドドドッ!!
激しいスティックワークが画面を埋め、
クロの目が一瞬で光った。
「これ!! これすき!!!」
「ドラムか」
「これ、いい! どんどんして、かっこいい!!」
クロはぴょんぴょん跳ねている。
しっぽがあれば絶対に振ってる。
「ちょっとやってみるか?」
「やる!!!」
……ただ、家にドラムはない。
しかし、俺にはアイデアがあった。
台所から紙皿数枚と割り箸二本を持ってくる。
「クロ、これでやるぞ」
テーブルに紙皿を円形に並べる。
真ん中に一枚、左右に一枚。
形はかなり雑だが、雰囲気は“ちょいダサいドラムセット”になった。
「……これ、どらむ?」
「ああ、今はこれがドラムだ。YouTubeみたいに叩いてみろ」
割り箸を渡すと、クロは両手に構え、
そっと紙皿を叩いた。
タタッ、タタタタタッ!!
俺は目を疑った。
「いやいやいや、お前なんだよその動き」
明らかにリズムを刻んでいる。
しかも速い。正確。
変な揺れもない。
「たかたか!! たのしい!!」
紙皿に光が反射し、割り箸が空気を切る音は妙に気持ちいい。
タタタタ、タッ、タンッ!
「初見でこれって、普通に才能じゃねぇか」
ただの偶然じゃない。
むしろ“本能でリズムを掴む”タイプだ。
クロの身体は微細な音の揺れを察知する。
その特性が“リズムの補正”に働いているのかもしれない。
試しに動画に合わせて叩かせると、
最初はズレても何度かでビタッと合ってしまう。
「なあクロ。これ、戦闘でも使えるかもな」
「せんとう?」
「敵の動きを読むとか、仲間に合わせるとか。
リズム分かったら……意外と強くなるぞ」
クロは数秒考え——
コン、タタ、タタッ!
と、また叩いた。
「できる!! クロ、たかたか、できる!!」
「はい天才でましたーーー」
思わず頭を抱えた。
俺のスピード、修二のパワー、敦史の頭脳。
そこに“リズムで勝つタンク”って、なんだよそれ。
「よし、今度地下で正式に練習してみような。
紙皿すぐ破れそうだし」
「する!! たかたか!!」
クロは満面の笑みで叩き続ける。
笑い声と紙皿の音が混ざって、なんとも平和な午後だ。
しばらくして、クロは満足したように座布団へ倒れ込んだ。
「……楽しかった……」
息が少しだけ弾んでいる。
散らばった紙皿は戦場跡みたいだったが、
妙に愛らしい。
春の光が部屋を明るくし、
外では鳥の声がして、アパートは少しきしむ。
「クロ。お前さ……才能あるぞ」
「さいのう……?」
「リズム叩くの、好きだろ?」
「うん! たのしい!」
クロは笑った。
その無邪気さに、俺もつられて笑う。
紙皿を片付けながら、ふと考える。
——こんな午後も悪くねぇ。
戦闘や訓練の合間に、こういう小さな“成長の芽”が生まれる。
クロは力だけじゃなくて、音でも伸びるのかもしれない。
春が来るのが少し楽しみになる、
そんな柔らかい午後だった。




