Episode 68: 初投稿(敦史視点)
――暗い画面の向こうで、誰かが笑った。
『うちのメンバーの影武者になってくれない?』
あの声は、いまだによく覚えている。
冬の夕方、部屋の蛍光灯がやけに白く見える時間帯だった。
画面越しに、知らない大人たちが並んで座っていて、
俺を見た瞬間、空気が変わった。
画面に流れていた笑顔が、ほんの一秒で“値踏みの目”に変わった。
『君さ、オンラインじゃめちゃくちゃ強いんだけどねぇ』
『表に出すには……まあ、ね……わかるでしょ?
うちはビジュアルでも超一流を目指してるんでね』
薄ら笑いながら言われた言葉たち。
俺はただ黙っていた。
心臓は痛いほど脈打っていたのに、声は出なかった。
あの頃の俺は、体重145キロ。
自分でも鏡を見るたびに、嫌悪感しか湧かなかった。だけど……
“お前なんかに前に出る価値はない”と、
こうも他人の言葉で決められるなんて思ってもみなかった。
――だから。
今日みたいな日は、最悪の形で思い出す。
夢から覚める直前のように、あの時の声が耳に残る。
『そうだよ、影武者でいいじゃん。
実力はあるんだし、君もサラマンドラの看板を背負う事が出来るんだよ』
胸が強く痛む。
呼吸が一瞬だけ浅くなる。
そして――目が覚めた。
薄い障子の向こうに、三月の光が揺れている。
青くて柔らかい、冬と春の間の光だ。
「……今日、か」
初投稿。
胸の奥がざわつく。
俺の動画を世界に出す日。
だけど、再生数とか、評価とか……
そんなものは見ない事に決めた。
そんなもの、今の俺には重すぎる。
それでも投稿するのは――
“前に進むための一歩”だからだ。
毛布から起き上がり、タワーPCの電源を入れる。
ファンがゆっくり回り始める低い音。
いつもは気にならないのに、今日はひどく響く。
デスクトップに置いたフォルダを開く。
「サムネ_完成」
流星が作ったやつだ。
マスク越しの自分の写真は、画面の端に小さく配置されている。
ゲーム画面の迫力を邪魔しないように。
「……やっぱ、俺の顔……」
嫌だ。
あの頃や嫌いな家族を思い出すから。
画面越しに自分を値踏みする視線、お前に価値はないと言われているようで……。
だけど、流星の声が蘇る。
――最初はこれでいいだろ。
でもいつかは見せねえと覚えてもらえねぇぞ。
自分のためじゃない。
“動画を見る誰か”のために必要だと、そう思う。
俺は深呼吸した。
「……大丈夫、大丈夫だ。たぶん」
自分で自分を宥める癖は、昔から変わらない。
動画ファイル。
サムネ。
説明文。
全部そろっている。
準備はできている。
怖いのは“投稿”だけだ。
指が震える。
マウスが少し揺れる。
身体が拒絶しているのが分かる。
あの日の声を思い出す。
『影武者でいいじゃん。裏方でさぁ~』
「……うるっせぇ」
小さく呟いた。
裏方しか認めてもらえなかったあの日。
何も言い返せなかった自分。
悔しさと恥ずかしさと怒り。
全部、胸の奥に残ったまま今も痛む。
でも――今回は違う。
俺には……
流星がいて。
修二がいて。
クロがいて。
誰も笑わない。
誰も見下さない。
俺の声を“見てくれる”。
「……押すか」
指先をゆっくりカーソルへ動かす。
「投稿」の赤いボタンが、こちらを見ている気がした。
一瞬、喉が乾く。
心臓が痛いほど打っている。
背中の汗がじっとり滲む。
クリック。
小さな音。
ほんの一瞬の軽い感触。
だけど俺の中では――
大砲が撃たれたくらいの音に聞こえた。
「……はぁ……」
肩の力が一気に抜けた。
手が震えている。
今日はここまで。
これが俺の限界で、俺の精一杯の勇気だ。
――そのとき。
障子がそっと開く音がした。
「……あつし。がんばった?」
クロだ。
ちょこんと顔を出して、俺を見ている。
その目は真っ直ぐで、何の濁りもない。
「……ああ、投稿ボタン、押したよ」
「おした!! すごい!!」
クロは全力で喜び、部屋に飛び込んでくる。
その無邪気さに、涙が出そうになる。
俺は思わず笑ってしまった。
「お前……元気だな……」
「あつし、どーがつくった! すごい!」
そのときだ。
台所のほうから香ばしい匂いがした。
「……コーヒー、飲むか?」
修二だった。
マグカップを二つ持って、ふすま越しにこちらを見ている。
その目は優しいけれど、何も言い過ぎない。
「……うん」
マグを受け取ると、修二は小さく頷いた。
「やりとげたんなら、それでいい」
それだけ言って、また静かに戻っていった。
修二らしい。
必要な言葉だけ置いていく。
そして――
「お、やったか」
流星が部屋に顔を出した。
いつもみたいに明るい笑顔じゃなくて、
どこか“嬉しそうで誇らしげ”な笑顔。
「……うん」
「怖かったろ」
「……まあな」
流星はこたつの縁に腰を下ろして、
カップに手を伸ばす俺を見て言った。
「でも投稿ボタン、押したんだろ。
今日の敦史、めっちゃかっこよかったぞ」
その瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
言葉にすると壊れそうで、何も言えなかった。
ただ、こくりと頷いた。
流星がくしゃっと笑う。
「よし。じゃあ今日はもう仕事はおしまい!
あとは俺たちが適当に見守っといてやるから」
「……勝手に見んなよ」
「はいはい」
クロが嬉しそうに跳ねる。
「つぎ、なにする? おやつたべる?」
「……はは、今はそんな気分じゃねえよ」
そう言いながらも、どこか心は軽かった。
障子の外。
三月の風がふわっと吹き抜けた。
光が揺れて、部屋が柔らかく明るくなる。
――俺は確かに前に進んだんだ。
机の上のPCは静かに光っている。
投稿された動画は、もうネットの海に流れていった。
俺は深呼吸をした。
「……行くか」
立ち上がると、三人が自然と待っていた。
古いアパートの中に、
小さなぬくもりがひとつ増えた気がした。
そのしばらく後――
東京から遠く離れた地方大学のキャンパスで、
一人の学生が再生ボタンを押した。
画面に動き出したその一秒目から、
彼の世界が静かに変わり始めていた。
投稿者名『Atsu_96』。
俺はまだ知らない。
その小さな一歩が、
知らないどこかの誰かの世界を、もう動かし始めていることを。




