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Episode 66: 春の日常

三月に入ったばかりの午後は、なんとも言えないだらっとした空気が流れていた。

冬の冷たさがようやく抜けていく時期だけど、まだ完全に春って顔でもない。

日差しはやわらかいのに障子越しに入り込む風はやけに冷たくて、温度の“揺れ”に身体が振り回されている感じがした。


古いアパートの和室は畳が乾きかけて少しだけ草の匂いがする。

こたつは昼でも消せない程度にはまだ寒いが、足を入れると逆にぼんやり眠くなる。

俺は洗濯物を干したあと、こたつに潜り込み休憩がてらあったかい緑茶をすすっていた。


そこへ、隣の部屋の障子がするっと開いた。


「……流星」


敦史だ。

少し疲れが滲む顔で、動画編集の休憩で抜けてきたのが丸わかりだった。


「どうした? 休憩か」


「まぁ……ああ。集中切れたっつーか」


敦史は少しだけ伸びをしたあと、言いにくそうに視線を逸らした。


「……あのさ、バイトってどうやって選んでんだ?」


「バイト?」


「ああ。なんか、ちょっと興味があって。

 いや別に働きたいとかじゃなくて……仕組み? というか……」


歯切れが悪い。

でもまあ、敦史の性格なら分かる気がする。

俺や修二がちゃんと働いているのを横目で見て、思うところがあるんだろう。

今俺は固定で決めずにスキマで色々な所でバイトをしているから、場数はメンバーの中では踏んでいる方だ。


敦史は俺の正面に座り、こたつの縁に腕を投げ出した。


「いや……この前たまたま流れてきたおすすめ動画で見たんだけどさ。

 “引っ越しバイトは割がいい”とか言ってて……。

 でもお前、前にそれは避けてるって言ってただろ?それでちょっと気になってさ。

 なんか明確な基準とかあるのかなっって。」


「あー……引っ越しな」


俺は緑茶を置き、ちょっと身体を伸ばす。


「まあ、確かに他と比べたら時期によっては確かにな。

 でも“割がいいだけ”なんだってアレは」

「……どういうことだ?」


「実際に時給はいいよ。でも面倒が多すぎる。

 急なキャンセルはあるし、荷主ガチャはあるし、人間関係とか、現場の空気とか、拘束時間とか……

 真夏とか春の異動のシーズン中は地獄だ、つまりいろいろ“その分キツい”ってことだな。

 あと身体の使い方間違えると一発で腰やる」


「へぇ……」


敦史は素直に感心してるが、その顔にほんのり不安も浮かんでいた。


「まあ、なんとなく選ぶコツはあるぞ」


俺が言うと、敦史はわずかにこちらを向いた。


「まず、常に募集してるところは避ける」


「なんで?」


「逆に考えろ。常に募集してるってことは、常に辞めてるってことだ」


敦史の顔が“理解した”の表情になる。


「……ああ、そういうことか」

「人間関係とか、待遇とか、変な労働条件とか……なんかしらあるんだよ。そういうのは避ける」


「で、流星は隙間バイトにはどういうの選んでんの?」

「俺? 俺は……ほんとに“必要だから人呼んでる”現場だけ」

「必要だから……?」


「そう。常に募集してるところじゃなくて、

 本当に“人手が「いま」足りない”現場。

 単発のイベントとか、季節物の催事とか、

 配送センターでもその日だけフォロー必要な枠とか」


敦史は少し考えてから言う。


「そんなの……あるの?」


「案外あるんだよ。

 祭りの片付けとか、倉庫の棚卸しとか、商店街の臨時イベントとか、よくあるのはホールのライブコンサートの物販とかさ。

 普通の店舗でも急に店員が二人休んじゃったから回らない、みたいなのもあるし。

 まあそういう単発は人間関係薄いし、自分のペースで動ける。仕事も、その日で全部終わるしな」


「へぇ……そんなにあるんだな、そういうの」

「あるある。探せば結構あるぞ。

 まあ、修二みたいに安定して勤務している人に比べたら、

 俺なんて家事の隙間に働いてる気ままな“バイトの渡り鳥”だけどな」


冗談っぽく笑うと、敦史は「いや」と首を振った。


「そんなことないだろ。

 少なくとも……流星が家事中心で動いてくれてるの、

 俺らは結構助かってるし」


素直に言うもんだから、一瞬むず痒くなった。


「ま、まあ……性に合うってだけだよ。

 何だかんだ家でも動いてたほうが気が楽だし」

「ああ、それはわかる」


敦史はため息混じりに笑った。


「お前、なんか……人の気配に敏感なんだよな。

 こっちが何も言ってなくても、気づいて家事とか準備とかしてさ」

「だって言われてから動くのって、なんか負けっぽいじゃん」

「そこはちょっと……よくわかんねぇな」


壁の向こうの台所で、水がちょろちょろ流れる音がした。

タイミングよく、廊下から足音が近づいてくる。


「ただいまー! 二階のそうじ、した!」


クロが、雑巾を手にしてにっこーっと笑っている。

廊下掃除を任せたのだが、どうやらご満悦らしい。


「お、戻ったか。ありがとな」

「りゅうせい、ほめて!」

「はいはい。よくできました」


頭をぽんと撫でると、クロは尻尾があるなら振ってるんじゃないかってくらい嬉しそうに跳ねる。


敦史が呟く。


「……クロの明るさって、なんか救われるよな」

「ああ。あいつ、素直に生きてるからな」


クロは雑巾を洗いに行きながら「つぎはなにする?」と弾んだ声を出す。

その姿が、薄曇りの三月の部屋にほんの少し春を連れてきていた。


ひと段落したところで、敦史がまたこちらを見る。


「でもさ、流星」


「ん?」


「……俺も、今日はなんか家事やるかな」

「おっ、やっとその気になったか」

「うるせぇよ。でも……クロが話してるのを聞いて俺も何かやるって決めたんだよ」


いい流れだ。


「じゃあ洗濯物取り込むの手伝ってくれ。

 風強いからな。ほら、端のシャツが竿から半分浮いてんだよ」


「はいはい。やるよ。……なんか今なら動ける気がする」


敦史は立ち上がり、クロを連れて外廊下へ。

曇り空の光の下で、二人の影が揺れた。


俺はこたつの布団を直しながら、なんとなく考える。

三月初頭のこの揺らぎの中で、みんなが少しずつ生活になじんでいる。

四天王とか怪人とか、そういうものを一旦忘れて、普通に暮らしてる瞬間。


こういう時間が、一番大事なんじゃねえかな。


そのまま雑談が続いたあと、敦史がふと思い出したように言った。


「……あ、そうだ。流星」


「ん?」


「動画、初投稿……“3月13日”にするから」


「……おい、もうすぐじゃねぇか、決めてたのかよ!」


「……うん。なんか、その日がしっくりきたから。

 理由は……前にも言ったし、まあいいだろ別に」


「いや言えよ! 相談してきた時点で決めてたんじゃねぇか!」


「相談じゃなくて……確認、みたいなもんだよ。

 流星に言っときたかっただけ」


敦史はタワー型のPC前に座り、電源を入れる。

古いアパートには似合わないファンの低い回転音が、部屋に溶け込む。


クロが横で跳ねる。


「どうが! もうすぐ!」


「……ああ、もうすぐだな」


敦史の指が少し震えているのが見えて、

なんか、胸の奥がじんわりした。


「じゃ、13日な。覚えとくわ」


「……まあ。悪くない気分だな」


「お前が楽しみなら、それでいいよ」


敦史は少しだけ照れたように視線を逸らした。

曇り空の向こう、風が春の匂いをほんの少しだけ運んでくる。



外廊下を風がすり抜け、障子がかすかに揺れた。

春の匂いがほんの少しだけ漂う。


――ほんとに、もうすぐだな。

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