Episode 62: セーラー服の少女・前編(筒井視点)
「…そういえば…まだ…名前を決めてい…なかった…ね…アンタの…名…前…を………………………………」
これは、かなりひどいな――。
筒井警部は、肩で息をしながら廃神社の鳥居をくぐった。通報を受け、急ぎ県警本部から車を飛ばしてきたが、目の前に広がる光景は想像していたよりずっと凄惨だった。
倒れているのは、血まみれのセーラー服の少女。土埃にまみれ、衣服は破れ、露出した肌には大小の傷が無数に走っている。顔立ちそのものはまだ幼さが残っているのに、開いたままの瞳はすでに何も映していなかった。
「警部、こちらへ」
先に現場に入っていた地元の巡査部長が手を挙げる。筒井は遺体に視線を残しながら近づいた。
「第一発見者の老人なら、もう帰しました。犬の散歩中だったそうで」
「散歩で、ここか?」
筒井は周囲を見渡す。鬱蒼とした木々、苔むした石段、崩れかかって傾いた社殿――どう見ても人が来る場所ではない。地元で育った第一発見者の老人ですら“こんな場所があったとは知らなかった”と言っていたという。
「ええ、普段はおとなしい犬らしいんですが、今朝に限ってはものすごい勢いでリードを引っ張ったそうで。引きずられるように森へ入っていったら、この遺体を発見した……と」
「元猟犬、という話だったな」
「はい。なのでこの匂いに反応した可能性はあります」
鑑識が忙しく動き回る気配の中、老人が腰を抜かしながら携帯から通報してきたという状況が脳裏によみがえる。筒井は軽くため息をついた。
――血の匂いに惹かれた、ということか。
少女の周囲にはまだ乾ききらない血溜まりが残っている。降り注ぐ木漏れ日が、生暖かい光でその赤黒さを際立たせていた。
「それと警部……赤ん坊が見つかっています」
「……赤ん坊?」
「ええ。鑑識が保護しました。少女は、この子を抱いたまま倒れていたようで」
筒井は思わず眉を上げ、鑑識員が持っていたデジカメを覗き込む。そこに映る現場写真――血まみれの少女が腕に抱え込むようにして、タオルにくるまれた生まれたばかりの赤子を守る姿。その赤子だけは土も血もついておらず、どこか奇跡めいた静けさがあった。
「……本当に、赤ん坊だな。へその緒は?」
「処置済みですが、つい最近切られたようです。臍帯の状態から、出産からまだ一日も経っていない可能性が高いとのことです」
筒井は無意識に神社を見回した。社殿はすでに朽ち、祀られていたはずの神具も何も残っていない。ただ苔とつたに飲み込まれた廃墟でしかない。それでも――どこか“異常な気配”だけは濃く漂っていた。
「この町で、こんな事件は初めてだと聞いた」
「はい。地元も動揺しています。こんな廃神社があることすら知らなかったという住民ばかりで」
「なるほどな」
筒井は足元に視線を落とし、少女の死にざまを確かめるようにゆっくりと観察した。
黒髪は艶があり、目元はきりっとした整った顔立ち。年齢は十六から十八、といったところだろうか。セーラー服から察するに中高校生であることは間違いない。制服の特定ができれば、まず身元に辿りつける。
しかし――ここへどうやって来た?
この場所は町の中心からも外れているうえ、車では入れない細い山道を抜けなければならない。徒歩だとしても時間はかかる。まして、生まれたばかりの赤子を抱えて?
「……警部、何か?」
「いや。どうやってここに来たのか、な。常識的に考えても、誰かに連れてこられたと見るのが自然だ」
巡査部長は頷き、ポケットからメモを取り出す。
「少女の近くには、争った痕跡がいくつか。血痕の量から見て出血は広範囲、死因は鋭利な刃物による複数の刺創と考えられます。ただ、凶器はまだ見つかっていません」
「凶器の発見の有無がひとつの鍵だな。それと……」
筒井は視線をめぐらせ、鑑識が青ざめた顔で何かを運び出しているのに気づく。土に埋もれかけた何かだ。布の端がのぞいている。
「あれは?」
「少女の鞄と思われます。中身を確認中です」
「身分証は?」
「まだ……。ですが制服を見る限り、この近隣や県内のものではありません。他県の学校の可能性があります」
「家出か……あるいは連れ去りか」
言いながら、胸の奥に嫌な重みが広がった。
事件の冷酷さもある。だがそれ以上に、少女の年齢が筒井の心を落ち着かなくさせた。自分にも中学生の息子がいる。そう考えると、目の前の遺体が他人事には思えなかった。
――この子にも、親がいる。帰りを待つ家がある。
その親たちは今、何も知らずに日常を過ごしている。そんな状況を思うと胸がきしんだ。
「……筒井警部」
巡査部長の声で我に返る。
「赤ん坊の処遇ですが、ひとまず病院に搬送しています。男児です。へその緒の状態から、本当に産まれて間もないようで」
「少女と血縁関係がある可能性は?」
「ゼロとは言えませんが……この状況から考えると、流石にここで出産したとは思えませんし」
筒井は深く息をついた。
死んだ少女。抱かれていた赤ん坊。地元民すら存在を知られていなかった山奥の荒れ果てた廃神社――。
どれも奇妙で、どれも繋がりが見えない。
「……この少女はいったい何者なんだ?」
小さく漏らした独り言は、誰にも拾われなかった。
ただ、無言で横たわる少女の瞳だけが、問いかけるように空を見つめ続けていた。
筒井はゆっくりとその目を閉じ、静かに決意する。
――まずは身元を突き止める。
――そして、残された赤ん坊の保護だ。
ひとつの命を失った現場で、もうひとつの小さな命が奇跡のように生き残っている。その意味が何なのかはまだわからない。
だが、必ずつなげなければならない。少女が命をかけて守ろうとしたものを。
「よし……。巡査部長、作業が終わったらすぐに署に戻る。身元照会を急ぐぞ」
「了解しました!」
廃神社の静寂は、鑑識たちの足音と無線の声だけが破っていた。
その奥で、倒れた少女の冷たい手が、風に揺れる草の上で小さく震えたように見えた。




