Episode 54: 創設の記憶(前編)
休日の朝。
こたつの上にはノート、電卓、そして半分食べかけの煎餅。
俺たちは湯気の立つ湯呑を手に、これからの資金や方針の話をしていた。
「バイト代から生活費を引いて、今月の貯金が……うん、これを四で割って──」
「だな。地味にちゃんと貯まってきた」
「とはいえ、このペースじゃ再興資金にはほど遠いけどね」
敦史が電卓を置き、軽く息を吐いた。
クロはこたつ布団から顔だけ出して、煎餅のかけらをつまんでいる。
「しきんって、どれくらいあればいいの?」
「うーん、少なく見積もっても設備費と拠点維持費で……千万単位はかかるだろ」
「せんまん! クロ、それ、わかんないけどすごい!」
そう言ってぱちぱち手を叩くクロに、敦史が苦笑した。
俺も思わず笑う。重い話題の中でも、こうして一瞬だけ空気が軽くなるのが救いだった。
「……でもさ」
修二がマグを持ち上げ、少し考えるように言った。
「やみくもに貯めるより、総帥が“どうやって組織を作ったか”を知る方が、どう資金を貯めたか知るには早い気がする」
「“どうやって”って?」
「俺たちの拠点も、活動も、最初に“悪の組織”を作ったのは総帥だろ? だったら、創設期に何かヒントがあるかもしれない」
確かに、それは今まで誰も口にしていなかった発想だった。
俺たちは総帥の残した遺志を継いで動いているが、どう始まり、何を軸にしたのかは、古い話過ぎてほとんど知らない。
遺稿や資料の一部は地下に残っているが、創設時代のことは断片的にしか知らないのだ。
敦史が取り込んでいる残されていた日記も心情部分を吐き出す内容が多く、具体性がある項目はあまり多くはないらしい。
「……思いつく人は、陣内博士しかいないけどな」
俺がそう言うと、三人とも頷いた。
陣内博士――総帥に仕えた科学者のひとりで、組織の研究部門を率いていた人物。
今は田舎で夫人と孫の月詩さんと三人で暮らしているが、俺たちは一度、遺されたメモを頼りに会いに行ったことがある。
博士は気さくで、夫人は優しくて、どこか「普通のおじいちゃんとおばあちゃん」みたいな雰囲気の人たちだった。
「リモートで話してみる?」と敦史。
「うん、ダメ元で連絡してみよう」と俺。
敦史が連絡帳から博士のアドレスを開き、Meetのリンクを送る。
数分もしないうちに、画面の向こうが明るくなった。
『おお、やぁ! 久しぶりじゃな、君たち』
陣内博士の朗らかな声がスピーカーから響いた。
白髪まじりの頭に、トレードマークの白衣。背後には古びた本棚と、窓から差し込む柔らかな日差し。
隣には、優しげな笑みを浮かべた夫人が座っている。
『みんな元気そうねえ。クロちゃんも、ちゃんと育ってるじゃないの』
「うん! クロ、げんき!」
モニタを覗いたクロが、ぴょこんと手を振る。
博士夫婦が声をそろえて笑った。
『はっはっは、やっぱり君は可愛いなぁ。総帥が見たら、きっと喜ぶじゃろうな』
その言葉に、少しだけ胸が熱くなる。
今こうして笑って話してくれるだけでも、なんだか安心した。
「博士、今日はちょっと聞きたいことがあって」
俺が切り出すと、博士はうんうんと頷いた。
『創設期のことかね?』
「……やっぱり察してますね」
『ふふ、総帥が亡くなったあと、いつか君たちがそう言うと思っていたよ』
夫人が「あなた、また長くなるんじゃないの?」と笑うと、博士は「そうじゃな」と照れくさそうに頬をかいた。
『とはいえ、わしももう八十近いが戦後生まれで、総帥より十五は年下じゃ。だから“本当の創設期”を知っとるのは父の方かもしれん』
「博士のお父さんが……?」
『ああ。もともと科学者でね。総帥とは年齢も近くて戦後すぐからの付き合いじゃったんじゃ。わしは子どもの頃から、父の研究室で若い時の総帥も会った。背筋の伸びた人でな、目の奥がとにかく強かった。』
博士の語り口はゆっくりで、けれど一言一言に重みがあった。
俺たちは思わず息を飲んで、画面の向こうの時間に引き込まれていく。
『君らのような若い世代には、なかなか想像がつかんかもしれん。あのころの日本は、今とはまるで別の国じゃった。』
博士は一息つき、湯呑を持ち上げた。
カメラの向こうで、冬の日差しが少し傾く。
『戦争が終わって間もない頃は、治安がとにかく悪かった。
映画ではノスタルジックに描かれることも多いが、現実はそんな甘い時代じゃない。
警察官が拳銃を構えるなんて、日常茶飯事。撃たれても文句が言えん法律まであった。
街では、闇市、赤線なんかもあったし、空き巣、強盗、殺人、……そんな事件が毎日のように起こっておった。
ニュースにもならんことが多くてな。それが“普通”だったんじゃ。』
クロが小さく「こわい……」とつぶやく。
博士夫人が優しくうなずいて言った。
『そうね。でもね、その中でも助け合う人たちがいたの。総帥もそのひとりだったのよ。』
博士が続けた。
『総帥は、もともと戦争帰りの青年だった。学徒出陣で前線に行き、シベリアに抑留され、帰国した時には何もかも失っていたと父から聞いていた。
だが、彼は嘆く代わりに“変えよう”とした。
表では人を助け、裏では悪党相手に強く出る。
信用を積み上げつつ、時には暴力で秩序を作る。
それが、あの時代の“正義”でもあり“悪”でもあったんじゃ。』
修二が静かに聞き入り、敦史はメモを取りながら何度もうなずく。
俺も自然と背筋が伸びた。
『やがて総帥のもとには、同じように帰る場所を失った者たちが集まった。戦災孤児、職を失った科学者、元兵士……
その中には、わしの妻もいた。』
博士夫人が微笑んだ。
『私はね、戦争でほとんどの身内を亡くして、孤児院にいたの。あの人に拾われて、初めて“生きてていいんだ”って思えたのよ。』
『総帥は、孤児院や戦傷病者のための施設を経営しながら、希望がある者には組織の仕事を手伝わせていた。
わしら科学班もそうやって生まれたんじゃ。
みんな家族みたいでな。
総帥は怖かったけど、人の痛みには誰よりも敏感だった。』
画面の向こうで、夫人が懐かしそうに目を細める。
『ねえあなた、あの頃の総帥、今で言う“イケオジ”だったわよね』
『おいおい、またそういうことを言う』
『だって本当でしょ? 総帥に憧れてる女の子、いっぱいいたのよ』
そのやり取りに、俺たちは思わず笑った。
博士も「まったく、話が脱線したじゃないか」と肩をすくめている。
『けれどな、あの人はいつも言っていた。“力は信頼でなければ意味をなさない”と。
その言葉が、今でもわしの胸に残っておる。』
ふと、画面越しに博士の目が俺たちを見据えた。
『君たちは、総帥の残した“志”を継いでおる。
だがな、継ぐというのは形ではない。“何を継ぎたいか”を決めることなんじゃ。
それがないと、ただの真似事になる。』
静かな声だった。
でもその一言が、胸の奥で深く響いた。
クロが少し首をかしげる。
「なにを、つぎたいか……?」
『そうじゃ。総帥の“力”か、“優しさ”か、それとも“理想”か。
君たちが選んだ時、その時こそ新しい時代が始まる。』
画面の向こうで、夫人が柔らかく笑った。
『あなたたちなら、きっと大丈夫よ。あの人が信じていた子たちなんだから。』
「……なあ」
修二がぽつりと言った。
「“何を継ぐか”、か」
俺たちはそれぞれの顔を見合わせた。
答えはまだ出ない。
けれど、何かが少しだけ動き始めた気がした。




