8:武侠、屍を見聞して真相に迫る事
「……参りました」
玉英は、存外素直に負けを認めた。
身を起こすと、その場で跪坐し、頭を下げる。
「とんだ御無礼をいたしました、お許しください。楊紫炎殿」
見れば、玉英の目から落花の涙がこぼれ落ちる。
「い、いかがした? いささか強く打ち過ぎたか?」
「いいえ、紫炎殿の拳に打たれ、我が身の弱さを改めて思い知っただけにございます」
玉英は力なく、項垂れるのみ。
孫玉英は、幼き頃より妹の照玉とともに、父から学んだ家伝の剣術を研鎖してきた。李家八門の系譜に連なる、飛燕の如き速剣を振るう俊剣術である。
両親は、二人のいずれかが婿をとることを期待していたのだろうが、姉妹は自分たちがいずれ剣の聖を目指し、物語に伝わるような女侠となることを志してきた。
そして、同じく女でありながら武を能く修める美蘭という主を得て、後宮という場で、更なる高みに至ることを望んでいた。
だが、実際に訪れた後宮は魔窟であった。
権謀術数がうごめき、魔拳によって血の流れる鉄火場。
周囲を見渡せば、玉英たち姉妹など到底及ばぬ功夫を積んだ猛者達が、数多存在する。
そんな中で、せめて気概だけは負けられぬと、威を張っていた中で、妹が凶挙に倒れてしまった。
さらには、楊紫炎という男が、女の身となって美蘭の警護役としてやってくるという。
嬉々と喜ぶ美蘭に対し、玉英の心中は穏やかではない。
そんな半男半女が、死んだ妹の代わりだとでもいうのか。
この玉英の、俊剣術では頼りないというのか。
今の立ち合いには、そうした苦悩の一切を剣に込めて挑んだ。そのうえで、打ち負かされた以上、玉英にはもう何も残ってはいない。
ほろほろと涙しながら、玉英は嘆ずる。
「弱き私の剣では、妹も守れず、美蘭様も守ることなどできませぬ……」
「……玉英」
その言葉を聞いた主・美蘭は、かける言葉もなく立ち尽くす。
紫炎はそっと玉英に近づき、その肩に優しく触れた。
「顔を上げられよ、孫玉英殿」
涙で濡れた玉英の瞳を見つめながら、紫炎は優しく語りかける。
「確かに今の其許の剣では、私に及ばぬ。だが、それも高みへ至る途上でのこと。あの初撃の剣の冴えは見事であった。あの速度を極めれば、必ずや剣の高き峰へと至れる」
「わ、私など……」
目をそらそうとする玉英の顔を、両手で抑えつけて紫炎は瞳を合わす。
「いいや、出来る。私が、その道行きの支えとなろう」
離門派師範として、数多の門人を導いてきた指導者としての血が疼いたか、紫炎は断じる。
その言葉で、再び玉英の目から涙が溢れた。
「……紫炎殿!」
玉英は紫炎の手に縋り付く。押し殺せず、嗚咽の声がわずかに漏れ出た。
しばし後、紫炎は美蘭と共に、霊安所までの道を進んでいた。
孫玉英は宮の自室で休ませて、他の侍女も連れずに、二人きりの道行きだ。
だが、美蘭は若干不機嫌そうだ。
「……どうかしたのか?」
周囲の視線を気にしつつ、紫炎は小声で話しかける。
美蘭はじろりと紫炎を見た。
「兄弟子が、うちの玉英をかすめ取って、弟子にするとは思いませんでしたー」
「い、いや、弟子などと……ただ才を伸ばす手伝いが出来ればな、と……」
「はいはい、そーですねー。妹弟子なんて、ほったらかしですよねー」
むくれた美蘭の表情に、何かを思い出す紫炎。
(そういえば、昔も暢康ばかり構って指導していると、こんな感じであったな。あの時は、確か……)
しばし思案した後、紫炎は美蘭の耳でささやく。
「……後で、良ければお前のを套路見せてはくれないか? お前がどれだけ強くなったか、見せてほしい」
「!」
びたり、と足を止めたかと思うと、相好を崩して美蘭は振り返る。
「んもう、しょうがないなー、紫炎兄様はー! そこまで言うなら、後でしっかり見てもらうからねー!」
途端に機嫌を直した妹弟子に気付かれぬよう、紫苑は小さく溜息をついた。
たどり着いた霊安所には、管理人の老婆が一人いるだけだった。
老婆から、疫鬼避けの面帯と白い上衣と手袋を渡され、二人は霊安所の中に入る。
薄暗い所内には、中央に棺が一つあるばかり。二人で頷きあい、棺の蓋を開く。
「う……」
開いた途端に腐臭が漂い、蠅が舞い飛ぶ。美蘭は顔をそむけるが、紫炎は意に介さず、死者に一礼すると見聞を開始した。
装束の帯を解き、傷の様子を探る。腹部がべこりと沈み込んでおり、裏返して見れば、背中側には大きく穴が開いている。背骨も、臓腑も、ここから外にはじけ飛んだと見える。
(だが、浸透剄にしては、正面に傷がないな……)
腹や胸に、拳打や学打の痕が見当たらない。
しげしげと見つめるうちに、紫炎は、死体の腹部に赤黒い染みがあることに気づく。臍の下三寸ほどに、針で突いてうっ血したかのような染みだ。
「もしゃ……」
屍の首筋、腋下と、次々に調べる。
「どうかしたの、紫炎兄様……?」
鼻を摘まんでいるせいで、妙な声になった美蘭が尋ねる。
紫炎は屍の装束を正して手を合わせると、言った。
「此度の一件、手掛かりを掴んだやもしれん」