3:武侠、懇願に屈する事
話は、先帝の崩御からひと月程経過したころである。
警護女官として雇われていた一人の女が、後宮で死んだ。先帝の母・鄭太皇太后に仕えていた槍と剣を能くする女であったが、早朝の回廊でこと切れているが発見されたのだ。
肺腑が破れて、背骨の砕けた有様から、余程の剛拳に打たれたものと推察された。
その数日後、今度は皇后・麗晶の配下が死んだ。先に死んだ女と同様、肺腑と脊椎がずたずた砕かれていた。
誰が、何のために?
後宮総出、官や女官全てを巻き込んだ下手人捜しが行われたが、見つからなかった。
各妃たちは互いを疑心で見つめあい、それぞれの警護女官たちは己が主人を守ろうと躍起になる。かくして、後宮内は、戦国もかくやというほどの鉄火場となっていた。
そこまで話を聞き終えて、紫炎は改めて思案する。
「ふうむ、確かに大事のようだが……とはいえ、女人禁制の場とあっては、私が乗り込むわけにもいかぬ……誰ぞ信頼できる女人の侠客を潜り込ませるか……あぁ、うちのお師匠様 とか、どうだ?」
「ははは、御冗談を」
そう言って笑う暢康だが、目は微塵も笑っていない。
紫炎は、改めて師と呼ぶ女傑の顔を脳裏に思い浮かべた。
師の性格では、混乱を収めるどころか、更なる混乱を引き起こすのが必定だろう。
「……うん、まあ、そうだな。許せ」
気付けば、暢康の眉根が険しい。性質の悪い冗談だったと、紫炎が改めて謝罪しようとしたとき、暢康は意外なことを言い出した。
「実のところ、先だって我が妹・美蘭を後宮に送り込んでおります」
「なんと!?」
「私が即位すれば、美蘭は公主。なれば後宮に住まうことになりますので、その下準備として送り込みました。なにより、妹本人から『私も離門派祝融学を学んだ身。必ずや、役に立つ』などと懇願されまして……かくして、美蘭が腕の立つ女人を幾人か引き連れ、後宮入りしたのがちょうど一月前」
「そ、それで!?」
「三日前のことです。妹の警護女官が一人、同じ手口で殺されました」
「なんと……」
紫炎は嘆息する。
紫炎の記憶の中では、美蘭は童子と見まがう程に活発な女童だった。兄の暢康よりも、拳の鍛錬に夢中で、妹というよりも可愛い弟のような印象がある。
そんな美蘭が、正体定かならぬ魔挙使いが跳染する後宮にいる。そのことが、紫炎には痛ましく思える。
(だが、今の俺に出来る事など……)
苦渋で挙を握る紫炎。そんな兄弟子を、暢康は熱のこもった眼差しで見つめる。
「……これらを踏まえまして、改めて兄弟子にお願いしたい儀がございます」
「聞こう。私に出来る事ならば、いくらでも力になる」
そう言って真面目に頷く兄弟子に、暢康は顔を綻ばせる。
「まことですか!では、兄弟子殿には、後宮に潜入していただきたく思います」
「いやいや、さすがにそれは……」
笑い飛ばそうとして、紫炎はふと一つの手段に思い至る。
「ま、まさか俺に官官になれと!?」
股座がきゅっと寒くなり、総身の毛が逆立つ。
「いくらでも力になる、といったが、さ、さすがにそれは……!」
ドン引きする紫炎に、暢康は手を取り懇願する。
「そ、そうではございません兄弟子! 兄弟子には、一時的に女人となり、後宮へ潜入していただきたいのです!」
「な、なんだと!?」
暢康はぱん、と手を一つ打つ。すると、奥に控えていた男が現れた。
「こちら、東方より参られた泥眼道士です」
禿頭の道士服を着た老人である。
暢康日く、泥眼道士は遥か東方よりこの国に訪れた有徳ので、陰陽を操る秘術を能くするという。
「道士の投薬と鍼灸術を併用した秘術を用いれば、男子を女子に、女子を男子にすることが可能となるのです」
(胡散臭ぇ……)
紫炎は、胸中で呻く。
その思いが表情に出たのか、暢康は真面目な顔で紫炎に詰め寄る。
「お疑いでしょうが、事実です。部下の一人が女身に変じ、その後男の身に戻ったこと、私自身も確認しています」
「そ、そうなの、か……?」
その圧に耐え兼ね、紫炎は視線を逸らす。目を向けた先で、泥眼がにやりと笑った。
(やはり胡散臭え!)
意を決しかねて惑う紫炎に、暢康は手を取って縋りつく。
「後宮に蔓延る魔の手は、我が妹や、先帝のお子にも及ぶやもしれません! そうなれば、この国の危機! かかる魔拳に対抗できるのは、兄弟子しかおられません! なればこそ、どうか、どうか……!」
紫炎は窮する。
弟弟子の懇願には応えたい。されど、女身になるのはいくらなんでも無理がある。しかし、この国、ひいては妹弟子の危機でもある……ぐるぐると脳内を考えが巡るがまとまらない。
そもそも、紫炎は深く考える性質ではないのだ。だから、つい言ってしまった。
「ええい! 帝になろうという男が、そんな情けない声を出すな! よい!分かった! 女にでもなんでもなってやる!」
そう言い切った後で、覚悟を決めた。
「楊紫炎、その役目果たしてやる!」
「おお、兄弟子!」
毅然と言い放った紫炎の言葉に、暢康は涙を流して喜ぶのであった。
後に、紫炎は後悔の溜息をつくことになる。