1:武侠、都に現れる事
帝のおわす都・壮港に春が訪れた。いたるところで桃花が咲き、空気にもどこか甘やかな匂いが漂う。
「ようやく暖かくなりましたな」
「新年の先帝御崩御から、もう三カ月ですからね」
「そう、それ。ようやく新帝がご即位あそばすとか。これで一安心」
会話しながら道行く人々の、足取りもどこか軽い。
そんな春の街を一人の男が歩いている。
身なりは、お世辞にもきれいとは言えない。垢じみて薄汚れた旅装が、男の長い旅の年月を予感させる。
風よけの頭巾を被っているため、顔はうかがえない。ただ、凛と天地を貫くように伸びた背筋は、野生の獣めいた圧力を感じさせる。
ふと、男の足が止まる。
風に紛れて、何やら暖かく香ばしい香りが男の鼻孔をくすぐる。男が、香りの元に視線を向けると、一件の飯屋が目に入った。庶民相手の、酒も供する類の飯屋だ。
「ふむ……」
空腹を覚えたのか、男は腹をさすりつつ、飯屋に向かって足を向ける。
瞬間、飯屋の入り口から、一人の中年男が転がりながら飛び出してくる。
「ぐぇ……」
「あんた!」
中年男の後から、妻らしき女が飛び出して、蹲っている男を助け起こす。
「ち、畜生……明鈴……」
中年男は鼻面を強打されたらしく、鼻血を流して痛みに喘ぐ。だがその手は、縋るように店内に向けて延ばされている。
旅装の男は、その手の先に視線を向けた。
店の奥の卓には男が4人。一目で無頼のやくざ者と分かる。中央の一人は、嫌がる給仕らしき娘を抱きかかえ、淫らな手つきで撫で回している。
野次馬たちが遠巻きに眺めながら、囁きあう。
「……ほら、あの連中だよ、近頃やってきた破落戸」
「武術家気取りのやくざ者か。今度はあの店の看板娘に目をつけたのかい」
「李家八門だかなんだか知らないが、迷惑だよ本当に」
「衛兵たちはどうしたんだ?」
そんな会話を耳にした旅装の男は、眉を顰めつつふらりと、店内に入っていく。
「あ、おい!」
野次馬が制止の声を上げたが、男は聞かずに歩を進める。
「なんだぁ?」
店内の破落戸達は、急な闖入者に訝し気な声をあげる。
「おい、おっさん。見て分からねえのか? ここは取り込み中だ。飯が食いたいなら、よそを探しな」
「それとも、お前も混じりたいのか?俺らの後でいいなら、この姉ちゃん、回してやる
ぜ?」
破落戸の幾人かが、旅装の男に野卑な声をかける。
が、旅装の男は微塵も揺るがず、ゆっくりと近付きながら言葉をかけた。
「貴様ら、李家八門の一党か?」
その動きに苛立った一人が、立ちはだかる。
「ごちゃごちゃと何言ってんだ、てめえ? すっこんでろ乞食野郎」
いきりながら胸倉を掴んできた破落戸だったが、次の瞬間膝から崩れ落ちて昏倒した。
「!?」
男が昏倒する直前、旅装の男の寸指が胸を強かに衝いたこと、気づいた者はいない。だが、普通ではないことだけは、酔った破落戸たちにも理解できた。
「再度問う。李家八門のいずれの門派なりや?」
旅装の男の言葉が響き、破落戸どもの酔いで曇った目が冴えはじめる。
店の看板娘を嬲っていた首領格の男が、娘を突き飛ばしながら立ち上がった。
「知らぬというなら教えてやる!乾門派軒轅拳の仁王大刀・羅功様だ! 俺に喧嘩売るとは、命はいらねえようだな!」
卓を蹴り飛ばしながら、恫喝の声を上げると、破落戸達はそれぞれに刀剣を抜き放つ。
「やれ!」
羅功と名乗った男の号令に、残る二人が短剣を腰だめに構えて、走った。
体で当たるかのような、刺突だ。凡そ武術とはいいがたい、やくざ者の戦法だ。しかし狭い屋内では威力が高い。旅装の男に逃げ場はない、はずだ。
だが、二人の男たちの剣は宙を切った。
「!?」
跳躍した旅装の男が、軽業めいた動きで二人の頭上を舞い避けたのだ。
旅装の男が着地すると同時に、通り過ぎた男二人は崩れ落ちるように昏倒する。跳躍の一瞬、旅装の男の足が男たちの延髄を蹴り抜いていた。
「て、てめえ……!」
慄きながらも、羅功が厚い刃の刀を構える。だが、その刀を上段に振りかざした瞬間、羅功の顔面に、旅装の男の右拳が突き刺さった。
鼻骨を砕かれ、血をまき散らしながら後ろ向きに倒れる羅功。
「これで軒轅挙とは、片腹痛い。八門を偽り名乗るのならば、せめてもうすこし功を積め」
旅装の男が、歎息交じりの声をかけたが、昏倒した羅功が聞くことはなかった。
「静まれ!静まれい!」
野次馬を散らしながら、駆けつけた数名の衛兵たちが、詰めかけてきた。
揃いの冑と胴鎧をまとった衛兵たちは、店の入り口を包囲する。後方から、馬に乗って現れた隊長が叫んだ。
「狼藉者、出てこい!」
その声に応じるように、店内から旅装の男が衛兵たちの前へと現れると、衛兵たちは一斉に槍を構えた。
「お、お役人様、この方は違います!この方は、狼籍者から、娘をお救いくださったのです!」
そこで、最初に店から転げ出てきた中年男が、娘と妻に支えられながら衛兵隊長に事情を説明する。
「何?」
衛兵隊長が、旅装の男と、店内に転がる無頼の男たちとを交互に捉える。
「……貴様、巾をとれ」
衛兵隊長の指示に、旅装の男は巾を取り去る。
現われたのは、炎のような赤髪と鷹の如き鋭い眼差し。
明らかに、只者ならぬ気配に、衛兵たちが竦む。
馬上の衛兵隊長は、はたと何かに気付き、慌てて馬を降りて叫んだ。
「皆の者、槍を引け!」
部下たちに武具を収めさせると、自らは拱手して頭を下げる。
「自分は、この街で警護の隊を預かる項克栄と申す。恐れながら、其許は、離門派祝融掌が師範の楊紫炎殿とお見受けするが、如何に」
赤髪の男は微笑みながら、拱手を返す。
「左様。私は、離門派祝融掌が師範、楊紫炎だ」