第五話
「え」
レイノルド様?
なぜここに。
そう口にしようとしたけれど、眠っているようだったから躊躇った。
疲れたからちょっと横にでもなるか……と思っているうちに寝てしまったのだろうか。
いやいや何故ここで寝る?
そういえば、私が死なないか見ておくと言っていたっけ。
それってもしかして、ずっと傍にいてくれたということだろうか。
お仕事に連れ戻されそうになるくらい忙しいのだろうに。
――ん……?
もしや、祖父が頭を撫でてくれたと思ったのも、夢とかじゃなくてレイノルド様だったのだろうか。
私の体を温めてくれていたのも?
あのさらりとした触り心地の何かはレイノルド様の寝衣?
温かくてほどよい弾力があってすべすべしていたのは、あれははだけたレイノルド様の胸筋?
わあ。
さすがに申し訳ない。
これはスヴェンが怒るのも無理はない。
思いっきり頬をすりすりしてしまった気がする。
だってすごく気持ちよかったから。
初めての感触だと思ったのもそれはそうだ。
おじい様にあれほどの胸筋はない。
あああ。
逃したくなくてぎゅっと服を握ってしまったような気もする。
寝衣がしわくちゃになっていたらどうしよう。
けれどレイノルド様はどうしてそこまでしてくれるのだろう。
『滅びの魔女』であると明かしても追い出さないし、それどころか甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし。
レイノルド様は人間とはどのようなものか観察するというようなことを言っていたけれど。
私にとっては助けてもらってありがたいけれど、レイノルド様にとって立派な観察対象になれているだろうか。
わからない。
だけど。誰かと一緒に眠るなんて何年ぶりのことだろう。
まだよく知らない人なのに、不思議と落ち着く。
レイノルド様は圧倒的な強さがあるからこそ、私を騙す必要もないし、むやみに傷つけることもない。
そう信じられるからかもしれない。
よく誤解が生じているようだから言葉のやり取りに慎重さは必要だと身に染みたけれど、いちいちその腹の内を探らなくていいのは私には大きかった。
善意を、救いの手を、そのままに受け取れる。
こんなことは祖父母やマリアと別れてから初めてだった。
あの屋敷では誰も信用できず、気を抜くこともできなかったから。
町でも、正体がバレているのではないかと気が気ではなかった。
家にいても、町を歩いていても、いつか誰かから刺されるかもしれないと思っていた。
グランゼイル国に来てから、何年かぶりにそんなことを気にせず眠れているなんて、レジール国の人たちは今の私を想像できないだろう。
そうしてぼんやりとレイノルド様の寝顔を眺めているうちに、私は再び深い眠りへと落ちていった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
物心ついて初めて父やキャロルと対面し、足を踏み入れた屋敷は、そこで過ごしたことがあるとは思えないくらい馴染みがなかった。
屋敷全体がうすら寒く、高価なのだろうとわかる調度品が置かれているけれど心惹かれることはない。
祖父母と暮らした家はあちこちから日の光が差し込み、温かくて、何もなくても居心地がよかったのに。
私を慈しみ育ててくれた祖父母はもういない。
この家で私は一人だ。
だけど、だからこそ、二人の思いと、私にかけてくれた時間を無駄にしたくなかった。
私は生きなければならない。
『滅びの魔女』としてではなく、私としての人生を。
それが祖父母の願いだったから。
私が生きられるただ一つの道だったから。
だから久しぶりに会った父の冷たい目にさらされても、冷静でいられた。
考えるべきは、この先どうするかということだ。
そんなところにノーリング伯爵家の侍女が遠慮がちに「髪を切れとの旦那様のご命令です」とハサミを手にやってきた。
私は「自分でやるからいいわ」と戸惑う侍女からハサミを受け取った。
灰金色の長い髪を自分で切り始めると、侍女は何か問題があったら咎められると思ったのか、慌てて出て行った。
一人になれてよかった。
これで切った髪をこっそり隠しておける。
ふわふわとした癖はあるものの、マリアが毎日丁寧に梳いてくれた長い髪は高く売れるはず。
ドレスもアクセサリーも何もかもキャロルのものになってしまったから、今の私にとって大事な資金源だ。
お金がなければこの家を抜け出して生き延びることはできないし、ドゥーチェス国までの路銀も改めて貯める必要があるから、いつか売るため大事に仕舞っておこう。
いや、変装用のかつらにしてもいいかもしれない。
後から運び込まれた男物の服を着れば男にしか見えないだろうから、しばらくその姿で過ごせば屋敷の人たちにはその印象が強く残るはず。
元の私の姿を見た人は少ないから、この屋敷のお仕着せを拝借して長い髪のかつらをかぶったら私とはわからないだろう。
それなら屋敷も抜け出せる。
ただ、外に出たらまた男の格好に着替えたほうがいいかもしれない。
あまり世間を知らない女が一人でうろうろしていると危険な目に遭うだろうし、ドゥーチェス国に逃亡するにも、祖父母がいない今は男の格好をしていたほうが安全だ。
しかし、一日中こんな楽な格好でいていいなんて、背中に羽が生えたような気分だ。
服の裾がひらひらふわふわしないから動きやすいし、装飾や無駄な生地がないから着心地もいい。
なんて身軽なのだろう。
男物の服を着ていれば父が満足して放っておいてくれるなら、こんな楽なことはないし。
どうせ父は私に会うつもりもないのだろうから、言動まで変える必要もない。
父はほとんど王都で過ごしているようで、領地にあるこの屋敷で見かけることはないから。
そもそも父がこの家に帰ってきている間は部屋から出るなと厳命されてもいる。
まさか男の格好をさせ閉じ込めた私がこんなに生き生きとしているなんて父は想像もしていないだろう。
ただ、何日か過ごすうち、私が厄介な邪魔者なのは父にとってだけではないのだとわかった。