番外編 その夜の話 ―もう豚でも子どもでもないので―
拘束されたままレジール国の城へと連れて行かれ、レジール国王に謁見し、第二王子に腹を立て、慣れないドレスに着替えたらバルコニーでキャロルの大演説が始まって。
キャロルと泣いたり、レイノルド様の妻になれるとわかって感情が大爆発したり、とにかく疲れ切っていたから、ベッドに倒れるようにしてぐっすりと眠り込んでしまったのは仕方がなかったと思う。
はっと気が付いた時には夜も遅く、夕食の時間も過ぎていた。
テーブルを見ればパンと水が置かれていて。
私が起きた時にお腹が空かないよう、レイノルド様が置いてくれたのだろう。
――レイノルド様と一緒に夕食を食べたかったな。
ここのところ、いつ襲撃されるかわからず気を張っていたから、何をしていても気が気ではなくて。
レイノルド様と話していても気がそぞろになってしまっていた。
やっと何も難しいことなど考えず、これからのことを楽しみに思いながら暮らせるのだ。
そんな話をしながら、レイノルド様とおいしいご飯を食べたかった。
どんな顔をすればいいのか、わからないけれど。
また明日だ。
そう思ってコップに水を注いで飲み、再び布団に潜り込もうとして気が付いた。
――あれ。手だ。
人間の、手だ。
蹄じゃない。
ぺたぺたと頬を触り、自分の足を見下ろす。
人間の頬に人間の足。
豚じゃない。
――ええ? なんで?
一度豚になって人間に戻ったのかとも思ったけれど、服が脱げていないということは、そうではなさそうだ。
混乱し、しばらく考えるけれど、まったくわからない。
自然と解けた?
もし解いてくれたとしたら、レイノルド様か、ティアーナだけれど。
ティアーナが解いてくれるとは思えない。
レイノルド様だとしても、今まで豚のままにしていたのに何故急に?
そんなことを考えていたら、中途半端に眠ってしまったせいもあって、すっかり目が覚めてしまった。
風に当たってこよう。
そう考えて、廊下を歩き出したはずが、向かっていたのはレイノルド様の部屋があるほうだった。
バルコニーは反対なのに、自然と足が動いてしまった。
慌てて方向転換しようとして、足を止める。
レイノルド様はもう寝ているだろう。
そう思うのに、足が動かない。
「どうした? 眠れないのか」
そうしているうちに扉が開き、いつもの優しい声に振り向く。
「あの、ええと――」
何を言えばいいのだろう。
何も考えていなかった。
ただ、会いたかった。
触れたかった。
自分の本心に気が付き、顔が熱くなる。
朝まで待てないだなんて、どうかしている。
眠ってしまえばすぐなのに。
恥ずかしくて顔があげられず、私はあわあわと言葉を探した。
「豚が。豚じゃなくて。起きたら、人間で」
「ああ。ティアーナだ」
その言葉に、え、と顔を上げる。
「言っただろう? 城の者たちの許しは得たと」
王妃になることを認めてくれたから?
でもそれが何故豚に変えるのをやめることになるのだろう。
考えて、はっとした。
もしかして、そういうこと――?
「水は――」
一気に顔が熱くなり、しどろもどろになる。
「いえ、あの、自分でコップに注げたので、飲んできました」
そうだったな、とレイノルド様が私の手を見下ろす。
じゃあ、何故来たのかと思われるだろうか。
答えられるような理由が何一つ思い浮かばない。
「少し、風にでも当たるか?」
そんな風に言われるのは初めてだ。
今日は部屋に入れるのが嫌だったのだろうか。
そんなことを考えてしまったけれど、こくりと頷くとレイノルド様が柔らかく笑って歩き出したから。
私は黙ってその後について、バルコニーへと出た。
空に浮かぶ月は細く、星がよく見えた。
レイノルド様も手すりに腕を置き、空を見上げている。
わずかな月明かりに照らされるその顔が綺麗で。
目が離せなくなってしまった。
レイノルド様はその腕の上にこてんと頭をのせ、こちらを向いた。
「シェリー」
「はい? なんでしょう」
「無理をしていないか?」
「え――?」
「あのような場でいきなり答えを求めたからな。落ち着いて考える時間を与えられなかった」
たしかにいきなりだったけれど。
落ち着いて考えても答えが変わることはない。
ただ、ありえないと諦めていただけだから。
「いいえ。寝て起きた時、夢なんじゃないかって一瞬思いましたけど。思い出して、幸せだなって思っていました。これからの日々をレイノルド様の妻として過ごせることが」
「そうか。ならいいのだが」
「きっとそんな夢は叶わないと思っていました。いつかレイノルド様が誰かと結婚するのを傍で見ていられる気がしなくて、そうなったらここを出ていかなくてはと思ったら、胸が張り裂けそうでした。だから――」
いつの間にか傍に立っていたレイノルド様が私の頬を手で挟み、顔を上向けさせた。
「そんなことを考えていたのか。私はシェリーが好きだと言っただろう」
「でも、私は人間ですし、森を彷徨っただけで死にかけるくらい弱いですし、武器も使えないから攻撃といっても本の角で殴るくらいしかできませんし、好きなだけでは結婚なんてできないと――」
レイノルド様は「ははっ! 本の角は痛いぞ」と笑って、私の頬を撫でた。
「私が守るから問題はない。グランゼイルの国王は世襲制ではないしな」
「そう、なのですか?」
「誰か後継が育てばその座を譲り渡すつもりだ。なりたくてなったわけでもない。かかってくる者の相手をしているうちにそうなっていただけだ。私には王など向いていない。スヴェンとティアーナがいるからなんとかなっているものを」
そうだったのか、と心からほっとしていると、レイノルド様が「だから」と私の瞳を覗き込んだ。
「私は私の大切な者を王妃にする。誰にも文句は言わせん。私が生涯を共にしたいと思うのはシェリーだけだ」
レイノルド様の唇が優しく降って来て、涙が滲む。
「何故泣く?」
「わかりません。ただ、幸せだなって……」
レイノルド様の服をぎゅっと握り、なんとか紡いだ言葉は途中で途切れた。
レイノルド様がまた口づけたから。
思わず詰めていた息を吐き出すと、はむっと唇が食べられた。
「!??」
「あまりかわいいとこうなる。覚えておくといい」
レイノルド様の口元に、妖艶な笑みが広がる。
「た、たべ、たべ……??!」
「まだ食べはしない」
まだ?!
「もう豚でも子どもでもないからな。寝室に招き入れると我慢が効かなくなりそうだと思ったのだが。変わらなかったかもしれんな」
さすがにそれがどういう意味かはわかる。
恥ずかしさに耐え切れず、レイノルド様の胸に顔を埋めようとすると、顎をとられ上を向かされ、その唇をついばまれた。
二度、三度と降ってくる唇に息が漏れる。
これは、だめだ。
これ以上なんて、耐えられる気がしない。
「このあたりにしておこう」
ふっと笑ってレイノルド様が私の頭を抱き寄せた。
そうして私は昼間のように横抱きにされてレイノルド様の寝室へと運ばれ、ベッドに丁寧に横たえられた。
がちがちに固まって目をぎゅっと瞑ると、優しく頭を撫でられた。
「今日はこれ以上は何もしない」
はっと目を開くとレイノルド様もベッドに入り、私を胸に抱き寄せた。
「ああ。温いな」
レイノルド様の足が、私の足にすり、と触れるのがくすぐったくてたまらない。
小さな豚の体に慣れすぎてしまった。
人間の体だと、ぴったりと体と体がくっついているようで。
温かい……。
いや、恥ずかしすぎて、温かいを通り越して、もはや暑い!!
いつか慣れる日がくるのだろうか。
とてもそうは思えない。
レイノルド様は次第に静かな寝息を繰り返し始めたけれど、私はその胸の中で身悶え、しばらくの間眠れなかった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
それから。
翌朝起きると目の前にレイノルド様の美麗な顔があって、どうしようかなと思った。
直視できない。
隠れるといっても身動きしたら起こしてしまいそうだし。
こんなによく眠っているのに起こすのはしのびない。
仕方なくそうっと頭を動かして、レイノルド様の胸に顔を埋めた。
ところが、額にふっといういつもの小さな笑い声が降って来て。
続いて優しく唇が降ってきた。
「おはようございます……。起きてたんですね」
「今起きた」
今度は頬に。
耳に。
「あの……。しすぎでは?」
その言葉は恥ずかしくて口にできない。
「妻だからな」
妻ってそういうものなの?
「嫌か?」
「…………いいえ」
答えたら唇を塞がれた。
どうしたらいいかわからずされるがままの私に、ふっとレイノルド様が優しく笑って、それがなんだか悔しくて、思わず唇を尖らせると、くつくつと楽しげに笑った。
恥ずかしくて、慣れないけれど。
今日も、続く明日も。
私はレイノルド様の傍で過ごすこれからの日々が、いとしくてならない。




