最終話
「言いたいことはあるか?」
ここでもそう聞いてくれたレイノルド様に、笑って首を振る。
「キャロルが全部言ってくれました。それに私が口を開いたら、都合のいいことばかり口にする人たちに罵詈雑言をまくしたてかねません。そんな『救国の聖女』ではキャロルが作り上げてくれた英雄像を台無しにしてしまいますので」
「ははっ! そうか」
「ただ。キャロル――」
私が向き直ると、キャロルは「なによ」とふいっと目を逸らした。
「ありがとう。私にはここまでのことはできなかったわ」
「私は本当のことを少しだけ誇張して話しただけよ。行動を起こしたのはすべてお姉様なんだから」
私はキャロルにぎゅっと抱きついた。
「……なによ」
「生まれてきてくれてありがとう」
キャロルはぐっと黙り込んだまま言葉を発さなかった。
お姉様に言われてもとか文句でも言われるかと思ったのに。
次に聞こえた声は涙交じりだった。
「――でも、そのせいでお母様が」
ああ。
この子はずっと一人で抱かなくてもいい罪の意識を溜め込み続けていたのだ。
父になど言えるはずもない。
父方の祖父母は母に出産を無理強いした張本人だ。
そして私はキャロルとは分かり合えないと早々に諦め、語り合うことなどできなかったから。
「いいえ、違うわ。お母様はキャロルがお腹にいるとき、いつも愛しそうにお腹を撫でていた。お母様はキャロルに会いたかったから、産んだのよ」
顔もほとんど覚えていない。
それでも優しくお腹に語り掛ける声や、私を抱きしめてくれた温もりはこの体が覚えている。
「ごめんなさい――。私、ずっとお姉様が悪い、お姉様のせいだって責めて過ごしてきたわ。お姉様は『滅びの魔女』なんかじゃなかったのに。何も悪いことなんてしていないのに、私は何もされていないのに、怯えて、そのことでお姉様を追い詰めた。二度もその命を奪いかけた。お姉様がどんな人かなんて知りもしなかったのに。謂れのないことで責められる辛さを私が誰よりもわかっていたのに。こんな妹でごめんなさい。ずっとずっと、お姉様を苦しめてごめんなさい」
キャロルは声を上げて泣いた。
震えるその背中を何度も撫でながら、もっと早くこうして会いにくればよかったと思った。
カムシカ村で会った時は突然で、知らなかったことを知ったばかりで気持ちが整理できていなかった。
手紙でやりとりはしていたけれど、うまく言葉にならずに事務的なことばかりになってしまった。
キャロルがそんな思いを抱えていることも、後悔に泣いていることも、私は知らなかった。
思い返せば、会った時からキャロルは使用人たちを大事にし、必死にその思いに応えようとしていた。
優しい子なのだ。
キャロルだけじゃない。私もそれを知らぬまま遠ざけてしまった。
それでもキャロルは逃げなかったのだ。
そうして今、この大勢の人々の前に立ってくれている。
何もかもを諦めてしまっていた私の代わりに。
「私の妹でいてくれて、ありがとう」
頬から涙が伝って落ちていた。
胸が温かな涙で濡れていく。
どちらの涙かもはやわからない。
キャロルはしゃくりあげながらも、「ふん」と悪態をついた。
「随分と都合がいいわね。どうせ私のことなんて阿呆な子としか思ってなかったくせに」
「それはごめん」
「そういうところよ! 嘘だって必要だと先ほど教えたばかりでしょう!」
「キャロルのことを何も知らなかったからよ。でも今はとても賢い子だって知ってるわ。勇敢で、誰かのために怒れる優しい人だということも。だからこそ、幸せになって欲しい。これからは『滅びの魔女』のしがらみから逃れて、どうかキャロルらしい人生を歩んで」
「言われなくても、そんなものは今まさに自分で掴み取ったわよ。これからは『救国の聖女』の妹としてちやほやされる日々が待ってるんだから」
私はお腹から笑って、キャロルと向き直った。
巻き込んでしまったキャロルが平穏に暮らせるように、レジール国王にお願いしたつもりだった。
けれどキャロルは自分自身の手でそれを掴み取ったのだ。
キャロルは自分の人生を生きている。
知らない間に、こんなにも強くなっていた。
「元気でね」
「お姉様も。その、隣でこれ以上ないほど愛しそうにお姉様を見てる御仁と末永く仲良く暮らしてちょうだい」
涙を拭ったキャロルに言われてレイノルド様を振り返れば、そこには優しい瞳があった。
そんなことを改めて言われると照れてしまう。
顔が赤くなる私に、レイノルド様はふっと笑った。
「では最後にここでも釘をさしてから帰るとしよう。あの国王にこの国民どもの手綱が握れるとは思えんからな」
そう言うとレイノルド様は手すりへと歩み寄って行った。
「レジール国民に問う。先ほどおまえたちが処刑せよと詰め寄っていた『救国の聖女』だが、我がグランゼイルへ連れ帰ることに異論はないな?」
辺りは一気に静まり返った。
誰も彼もがなんと答えていいかわからないというように黙り込んでいる。
「今の今まで殺せと騒いでいた命だ。いまさらどうなろうとかまうまい。まさか、自分たちがこれまで命を救われてきたことを知った途端に惜しくなったのではあるまいな。その死を望み、汚い言葉を投げつけておきながら、まだ恩恵があるとでも思っているのか?」
元からレジール国を救ったつもりはないけれど、今後関わるつもりはもうない。
キャロルとはまた会いたいし、マリアに手紙も書くけれど、それだけだ。
カムシカ村のことも、タムール地方の水害も、たまたま私が通ってきた道で気づいたことをしかるべき人に知らせただけのことだし。
もうこれ以上私がレジール国にもたらすものなどないだろう。
それでも、そんなこととは知らない人々は、もしまだ何か知らないどこかで何かがあって、それを救ってもらえるのではと思うものなのかもしれない。
ただの人間がそんな都合よくあれこれできるわけもないのだけれど。
キャロルが『救国の聖女』なんて煽るからだ。
どうすれば、と思っていると、当のレイノルド様は素知らぬ顔で人々にくるりと背を向け、つかつかと私に歩み寄った。
「そういうわけだが。シェリー」
手を取られ、「はい?」と返事をすると、レイノルド様が首を傾げるようにして私の瞳を覗き込んだ。
「共にグランゼイルへと帰り、私の妻になってくれるか?」
「つ……?」
妻?
でも、それは、王妃になるということで。
「あの、その、でも、私は人間です。グランゼイルの人たちが許してくれるとは」
「許しは得てきた」
にわかには信じられない。
本当に――?
「まだゆっくりと時間をかけるつもりだったのだがな。シェリーがレジール国に連れ去られ、身に染みた。傍にいないことがこんなにも不安でたまらなくなるとは思わなかった。何かあっても守れない。そんな思いをするのは耐えられん。だが私の妻となれば誰にも手出しはできない。そういう保証でもなければ、今後シェリーを自由に外に出してやれそうにない」
「私を守るために?」
「いや……。それもあるが、そうではないな」
レイノルド様は頭を上げ、真っ直ぐに私を見つめた。
「シェリーは私のものだと、誰も手を出すなと言いたいのだ」
ぶわっと熱が首から這い上がる。
体中が心臓になったみたいに血が駆け巡り、口も、手もうまく動かない。
「嫌か?」
首を傾げて見つめられ、私は耐えられずに顔を俯けた。
「嫌なわけがありません。嬉しい……。嬉しいです」
そう答えると、くいっと顎を上向けさせられ、レイノルド様の黒い瞳が間近に映った。
うまく動かない口をはくはくとさせる私を、レイノルド様が笑みを広げて見ている。
恥ずかしい。顔を隠したいのに手が取られていて動かない!
「顔が見たい」
「むりです、むりむり! 恥ずかしいです!」
「だから見たいのだ」
「!?」
「嫌ではないと言ったな。では妻になってくれるか?」
瞳を覗き込まれ、私は精いっぱいに、こくりと頷く。
「はい……」
答えると、その手をぐいっと引かれ、レイノルド様の胸に収まった。
優しく背中を抱きしめられ、満たされた気持ちになる。
「レイノルド様の妻になんて……、王妃になんて、なれないと思っていました」
「誰も文句など言わなかったぞ。まあ、聞き入れるつもりもなかったが」
「――誰も?」
スヴェンもティアーナも、猛反対しそうなのに。
「もう城の者はみなシェリーを認めている」
その言葉に、じわりと涙が滲んだ。
グランゼイルの城にいることを許されたい一心だった。
今、生まれた時から背負ってきたものを振り払って、レジール国とも決別して、やっとグランゼイルに迷惑をかけずに暮らしていける。
本当の意味で、私は私の居たい場所を手に入れられたのだ。
「これで私、ずっとずっと、レイノルド様の傍に居られるのですね」
レイノルド様を見上げると、まっすぐな黒い瞳が優しく降って来て。
唇に何かが触れた。
目を丸くしてレイノルド様の目を見つめると、笑ってもう一度唇に触れた。
「やわらかいな」
レイノルド様の唇も柔らかいです……。
額に触れた時とはまた違う。
なんだか背中から熱が這いあがってきて、涙が滲みそうになる。
「その顔はまずい。止まれなくなる」
そう言ってレイノルド様の胸に抱き込まれる。
恥ずかしい。
顔も耳も首も熱くて、どうにかなってしまいそうだ。
「――と、いうわけだ」
レイノルド様が大きな声を外に向けたことに気づき、はっとした。
そうだ。
ここは公衆の面前だった。
思い出すと一気に恥ずかしさが増し、耐え難くて叫び出したくなる。
けれど、叫んでも問題なかったかもしれない。
あちらこちらでわーきゃーと歓声が上がり、すごい騒ぎになっていたから。
「『救国の聖女』様が竜王陛下と結婚だ!」
「そうなればますますレジール国は安泰ね」
「あんなに愛しげに求婚されるなんて、見ているだけで顔が熱くなるわ」
「すごい、幸せそう……」
「羨ましい――」
周りがどんな顔をしてこちらを見ているのか怖い。
顔などもう上げられない。
しかしレイノルド様が私を抱きしめたまま、「聞け!」と声を張り上げるとざわめきは落ち着いていった。
「シェリーはかわいい」
いきなりとんでもないことを言った。
「おまえたちが今見た通り、嬉しければ涙を流し、恥ずかしさに顔を赤らめ、戸惑いもする。大事に思う人間がいて、助け合いながら生き、そして私を愛してくれた。それはおまえたちと何ら変わらないのではないのか? 私にとっては特別で、唯一の存在であり、替わる者などいない。それはおまえたちにとっての子どもや兄弟、妻、友人と何が違う?」
その言葉に辺りは静まり返った。
レイノルド様は強い瞳を人々に向けていた。
そこにあるものを感じ取ったのか、身じろぎする者もいない。
「シェリーが持っているのも、同じくただ一つの命だ。だというのに、ただ生まれた日によって『滅びの魔女』の名を背負わされた。私が初めて会った時、シェリーは少年の格好をさせられ、ぼろぼろの体で死にかけていた。手も足も棒切れのようで、肉などまるでついていない。ただ水を欲しがり、その水すら満足に飲み下すこともできない有り様だった。おまえたちがそうして殺せと迫り、森へと追放させたからだ」
何人かが俯く。
わかってくれたのかもしれない。
もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない。大事な人がそうだったかもしれないと。
私も、ここに居る人たちも、その大事な人たちも、変わりないのだと。
「そうして死を望まれてもシェリーはただ前を見て歩いてきた。願いなどただ自分の居場所がほしいというだけのささやかな、誰もが持っているものしか持たず、ただ人の心を思い、害そうとするおまえたちですらも見放さず、救いの手を差し伸べてきた」
収まったはずの涙がまた流れた。
私は、こんなにも人に守られている。
レイノルド様に。
キャロルに。
そして私が王妃となることを許してくれたグランゼイルの人たちにも。
「おまえたちが殺せと迫ったのは、そんな人間だ。おまえたちと同じように生まれ、生きていた人間に、早く死ねと悪意をぶつけ続け、殺しかけたのだ。そのことを忘れるな」
そう言って人々を見渡すと、レイノルド様は胸の中の私を見下ろし、「帰るか」と口元を緩めた。
「はい……」
返事をするなり横抱きにされて、「わぁ?!」とレイノルド様の首にしがみつく。
レイノルド様はふっと笑いを漏らすと真顔になり、つかつかと手すりのほうへと歩み寄った。
「私の妻であるシェリーは荒事を好まぬ。だから見逃しただけだということをゆめゆめ忘れるな。今後、シェリーとグランゼイルに仇なす者は何人たりとも許さん」
妻って言った……!
恥ずかしい。
けれどそれを越えるほどに嬉しい。
思わず両手で顔を覆うと、額に唇が降ってきた。
「これですべての憂いはなくなった。続きは帰ってからだ」




