第四話
「パン粥だぞ」
私の心の叫びは無事外に飛び出していたのか、それとも寝ている人の口の中に勝手に物を突っ込んではいけないと学習したものなのか、レイノルド様はちゃんと私を起こしてくれた。
お腹もぺこぺこだったし、体力も落ちるばかりだったからパン粥が食べられるのはとてもありがたい。
ただ、私の上半身を起こしてくれたレイノルド様が、パン粥をすくった匙を無言で突き出してくるので戸惑った。
相変わらず表情に乏しいから何を考えているのかわかりにくいけれど、これは食べろということだろうか。
けれど、さすがにそれは子どものようで少々恥ずかしい。
自力で起き上がることもできないような奴が自分で食べることなどできないと思ったのかもしれないけれど、それくらいはできる。はず。
「あの、自分で」
口を開いたところに匙がどすりと差し込まれた。
またもや丸呑みしかけたじゃないですかと文句を言いたかったけれど、与えられておいて言える立場でもない。
何よりとてもおいしい。
パン粥はちゃんと私の知っているパン粥だ。
空っぽの胃にほんのり染みる温かさで、激熱で泣くこともなかった。
ただ、やっぱり恥ずかしい。
「あの、自分で」
まったく同じ失敗を繰り返した私は次の匙を口に突っ込まれ、再びなんとかそれを飲み下した。
「自分で」
また口にパン粥。
素早く言ってみたけど全然間に合わない。
今は喋らず食えということだろう。
諦めてパン粥を完食すると、レイノルド様は満足そうに空の皿を見下ろし、「また寝ていろ」と言って部屋を出ていった。
ぼすりとベッドに倒れ込むと、枕元のサイドテーブルに水とタオルの入った桶があった。
これも持ってきてくれていたのか。
力の入らない手でなんとかタオルを絞り、額に載せて再び横になる。
水が飲みたいと思ったけれど、もう一度起き上がる気力はなかった。
食事とは意外と疲れるものらしい。
気づくと私はまた眠りに落ちていた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
――ああ、喉が渇く。
熱い。
なのに寒い。
熱が上がったのかもしれない。
体中が痛い。
ずっと真っ暗で、起きているのか眠っているのかもよくわからない。
そんな小さな目覚めのようなものがくらりくらりと波に揺られるようにやってきては、体中の不快さをしきりに訴えてくる。
――水が欲しい。
喉が張り付いて、息をすると咳が出て余計に苦しい。
――水……。
苦しさに喘いでいた喉に、不意に冷たい何かが流し込まれる。
逆らわずにごくりと飲み込むと、息ができるようになった。
水だ。
だけどもっと欲しい。
水が欲しい。
喘ぐように口を開けば、再び熱い口内に冷たい水が注ぎこまれる。
ああ、これが欲しかった。
ごくり、ごくりと水を飲み干して満足すると、体の力が抜けた。
すると今度はガタガタと体が勝手に震えだす。
――寒い。
とにかく手に触れるものを掻き合わせるようにするけれど、まだ足りない。
体を縮こまらせ、自分を掻き抱くようにしても震えは止まらない。
ふっと自分を覆っていたものが離れていき、代わりに冷気が身を覆う。
――ああ、毛布を取らないで。
――寒いのに。
けれど代わりに骨ばったような硬い何かが体を覆う。
――温かい。
その上から再びかけられた毛布の中は、先ほどよりもずっと温かくなった。
――もっと。もっと……
それが欲しくて、求めるように手を動かすとさらりとした触り心地の良い布に触れた。
頬を摺り寄せると、柔らかくて弾力のあるものが壁のようにそこにあった。
手で触れているものとは感触が違う。
これはなんだろうか。
わからない。
けれどとても暖かい。
気づけば震えは止まっていた。
心地がいい。
ずっとこのままでいたい。
そう思ったら、誰かが頭を撫でてくれたような気がした。
――おじいさま?
骨ばった大きな手は祖父のものしか知らない。
会いに来てくれたのだろうか。
そうだったらどんなに嬉しいだろう。
大きな手に撫でられるうち、深く、深く落ちていくように体が沈み込んでいって。
もう繰り返し訪れる波のような体の不快さはやってこなかった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「ですから陛下、そんな人間など捨て置けばよいのです。捨て置くどころか遠くへうっちゃってもよいのです。わざわざ御身自ら――」
「うるさいぞ」
言い争うような声が聞こえて目を覚ますと、ベッド脇に腰かけていたレイノルド様が私に気が付いて振り返った。
「起きたか。スヴェン、おまえのせいだぞ」
レイノルド様が再び視線を向けたのは、スヴェンと呼ばれた男。
たしか、森で丁寧な言葉ながらものすごい殺気を向けてきた人だ。
今も、『いや、おまえのせいだ』と言わんばかりにこちらに目だけで殺せそうな威圧感を放っている。
細面で銀縁眼鏡、シャツにループタイとシンプルながらきりっとして知的な印象だけれど。
尻のあたりから生えている馬のような尻尾がゆらゆらと揺れているのが怒りを表しているようで怖い。
ピンと張り詰めた針金のような鋭さがあって、バチンと切れたらものすごい勢いでこちらにはじけ飛んできそうというか、怒らせたらすぐ殺されそうなギリギリ感がある。
しかも、そのシルエットはスラリとしてしなやかに見えるのに、肘までまくったシャツから覗く腕は見るからに筋肉だった。
頭がよさそうな上に筋肉もあるとか、最高に怖い。
でもレイノルド様はそれよりもっと強いのだろうから、よくよく考えたらすごく怖いはずなのだけれど、敵意と殺意が剥き出しのスヴェンのほうが何倍も怖い。
こちらの言動次第で一瞬でキレるだろうなとありありとわかるところも、何をするかわからないという危うさも。
「そんな人間一人が起きたからなんだというのですか。こんな、毒にしかならない人間ごときに、陛下がそこまで御身を犠牲にする必要はないのです」
「私は一か月くらい眠らずとも問題はないことはおまえも知っての通りだ。目くじらを立てるほどのことはない」
「それだけではありませんよ。陛下御自らの口移しで水を与えておられたではないですか」
そんなことがあったのか。
まったく覚えていない。
「それくらいで何が犠牲だ。おまえは本当に大袈裟だな。水を与えなければ乾いて死ぬくらいのことは私にもわかる。水、水とうつろに呟き、ガタガタと震えるこんな弱い生き物をどうにかしてやるための道具も知識も何もないのだから、私はそうしてただ傍らで死なぬかどうか見守っていたにすぎぬ」
――あれ……? いや、うん?
そうだ。
夢か現実かわからない中で、水を飲んだ気がする。
あれか!
あれって口移しだったの?
そこまでさせてしまっていたとは、さすがに申し訳ない。
スヴェンが私を殺しそうに睨んでくるのもわかる。いやわりと最初からこの人はこうだったけど。
「お手を煩わせてしまい申し訳ありません。そこまでの医療行為をしていただき、ありがとうございました」
なんとか体を起こして頭を下げると、レイノルド様はただ鷹揚に頷いた。
その背後でスヴェンがぴくぴくとこめかみを痙攣させ、大きなため息を吐き出した。
「おかしいのですよ。今ここにまともな反応をしている人が一人もいないのですよ」
何を言っているのかわからず、スヴェンとレイノルド様を交互に見る。
しかしレイノルド様もなんのことだというようにスヴェンを見ていた。
「何がおかしいのかという顔をしている時点でおかしいのですよ。そこの人間。あなたもです。口と口との接触ですよ。そもそもその辺の小僧が陛下に触れただけで許しがたいというのに」
「水を与えただけだと言っているだろう。それしきのことで犠牲だのなんだのと騒ぎ立てていたのではあるまいな。まだ話もろくに聞かぬまま死んでは面白くないだろう」
「それくらいで死ぬなど……」
「これは放っておくと死ぬ生き物だぞ」
たしかにそうだったかもしれない。
「水すら自分で飲めず、パン粥なんぞという何の力になるのかわからんふにゃふにゃのものしか食えぬ生き物だぞ」
「あなたは子どもを産みたての母親ですか!」
「母親……? そうか、これが母性というものか」
母性……?
「本当だ……おかあさんみたい」
母の記憶などろくにないけれど。
たしかに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる様子は世に聞く母親のようだ。
スヴェンは思わず呟いてしまった私をじろりと見下ろし、小さく息を吐き出した。
「もうけっこうです。わかりました。大体把握しました。いいでしょう。あなた方がこうなら私としても心配の種が一つだけは減りますので。是非ともそのままでいてください。では陛下、私と一緒に来ていただきますよ。お仕事です」
「いや。今日の執務はおまえに一任する。私はもう少しこの生き物が死なないか見ておく」
「国王の仕事を軽々しく一任しないでください」
「おまえだから預けるんだ」
「この天然人たらしがっ!」
「おい。急に荒ぶるな」
結局スヴェンは「まったく……!」と尻尾をぶんぶんと振りながら部屋から出て行った。
自分が歓迎されていないことはわかっていたけれど、改めてレイノルド様に甘えてしまっていることが申し訳なくなる。
早く回復して、先のことを考えなければ。
いつまでも世話になっているわけにはいかない。
けれど今は、瞼が重くて仕方がなかった。
「起こしてすまなかったな。寝るがいい」
言いながら、レイノルド様が私の額に人差し指を当て、優しく後ろに倒した。
逆らわずに枕に頭を沈め、うとうとと目を閉じると、あっという間に眠りに落ちて。
その後はかなり長いことひたすら眠っていた気がする。
時々人の気配を感じたけれど、目を開ける気力はなく、ただ眠り続けた。
食べずにひたすら汗をかいたせいか、また体力が落ちたのかもしれない。
次に目を覚ました時は、気だるく体を起こすこともできなかった。
夜なのだろう。
辺りは薄暗い。
寒いな、と毛布を手繰り寄せると何かに引っかかって動かない。
なんだろう、と首を巡らすと、人一人分空いたところに美麗な顔があった。