第八話
結局私の豚化が解かれることはなかった。
私に対する「陛下に無駄に近づくんじゃないわよ」の牽制は続いている。
それはいい。だって問題は何も解決していないから。
ただ、複雑だ。
人間の姿で子どもみたいにレイノルド様と一緒に寝るのはティアーナが怒るのも無理はないと思う。
だけど豚の姿だと裸だというのが気にかかる。
でもまあ豚の裸を見られたからと言って、それがなんだ、という気もする。
まあいいか。
深く考えるのはよそう。
そうして私は思考を放棄した。
ティアーナはレイノルド様が命じてくれた通り、城内に薬師として働くための調合部屋を用意してくれた。
薬草を干す場所も欲しかったし、作った薬を保存しておく棚も欲しかった。
お願いしたものはすべて速やかに用意され、ティアーナの優秀さを目の当たりにした。
資料探しも続けているけれど、やることが多くなって一日中資料室にこもりきりという日はほとんどない。
あれもこれも全力でこなしていくうちに、あっという間に日々は過ぎた。
そんな中に、キャロルから手紙が届いた。
センテリース領主はキャロルからの手紙を受けて王都に行くことになったようで、帰ってきたら改めて連絡すると返事があったそうだ。
さすがに事が事なだけに国への報告が手紙だけで済むわけもない。
そのことを考えていなかった。
けれど焦っても仕方がない。
また手紙が来るのを待つしかないし、その間にやれることをやろう。
薬草を作ったり言い伝えのことを調べたり、屋敷にいた頃とやっていることは同じなのに、毎日が楽しい。
レイノルド様にご飯を食べさせられ、時々豚の姿で一緒に眠る。
こんな日々がしばらくは続いていくのだと思っていた。
いつだって『日常』が終わるのは唐突で。
祖父母が亡くなった時も、『滅びの魔女』として町で捕まった時も、私は何もできずにただ流されるしかなかった。
けれど、この時ほど自分の無力を痛感したことはない。
ある暖かい日。
忙しいレイノルド様が少しでも気分を休められるようにとハーブを混ぜ込んだクッキーを作り執務室に届けると、「たまには茶に付き合え」と誘ってくれて、一緒にそれを楽しんでいる時だった。
不意に顔を上げたレイノルド様はカップをガチャリと置くと、窓を開けそこからばっと身を躍らせた。
「テーブルの下に身を伏せていろ」
間際に聞こえたそんな声に慌てて窓に駆け寄った私が見たのは、竜に変えたレイノルド様が空高く羽ばたいていく姿で。
何が起きたのかわからないまま、ただ言われた通りにテーブルの下に隠れると、大気を震わせ咆哮が響き渡った。
窓がびりびりと震え、その恐ろしさに体を丸めこんでいると、次いでバリバリバリと大樹が割けるような轟音が床にまで振動を伝える。
窓を見上げれば、いつの間にか空には真っ黒な雲が立ち込め、辺りは薄闇に包まれていた。
どうしよう。怖い。
こんなことは初めてで、どうしたらいいのかわからない。
体の震えが止まらなかった。
レイノルド様は大丈夫だろうか。
大丈夫に決まっている。それでもレイノルド様の様子が気になって、窓から何か見えないかと必死に目を凝らした。
やがて大きな翼を羽ばたかせ、ゆっくりと降下してくるレイノルド様の姿が見えた。
ここからではよく見えないけれど、大きな怪我はしていなさそうだ。
窓に飛びつき、見下ろせば、人の姿に戻ったレイノルド様の元にスヴェンが駆け寄るのが見えた。
外は何人もの兵士があちらこちらへと走り回っている。
たまらず部屋を飛び出し、城の外へ出ると、「襲撃だ! マーモルト国の奴らだ!」という声がそこかしこから聞こえた。
レイノルド様が言っていた。
グランゼイルを滅ぼそうと襲撃してくる者が時折いると。
あまりに毎日が平穏で、居心地がよかったから、ここが獣人の国グランゼイルなのだという意識が薄れていたのだと思う。
いや。私は獣人の国というものがどういうものなのか、何も知らないのだ。
ただ少し耳で聞いただけ。
グランゼイルを、レイノルド様を攻撃してくる者がいると聞いても、今ではないいつかに起きる話のように聞いていて、まるで他人事だった。
ローブを羽織り城に向かって歩いていくレイノルド様の姿を見つけ声をあげようとして、喉が張り付いた。
「マーモルト国の宣戦布告だ。滅ぼしに行くぞ」
その言葉に衝撃を受けた。
「残党がいるかもしれません。おい、報告はまだか!」
レイノルド様の一歩後ろを歩き、後半は近くの兵に向けたスヴェンに、レイノルド様は「不要だ」と短く告げる。
「一掃した。命あるものは残っていない」
「先発隊に随分と数を揃えたようですね。ここのところ静かなものでしたが、マーモルト国王バーニンの傷も癒えた頃。凝りもせずに挑もうというのでしょう」
足が動かなかった。
レイノルド様は普段から表情を変えないけれど、冷たく、だけどどこかが暗く燃えているこんな顔は見たことがない。
「シェリー」
私に気づき、レイノルド様が進路を少し曲げて私のほうへと歩いてくる。
「隠れていろと言っただろう。怪我はないか?」
レイノルド様が手を伸ばし、私の無事を確かめるようにそっと頬に触れた。
けれどいつもの温かさは感じられなくて。
血の匂いと、何か焼けこげた匂いが辺りに充満していて、レイノルド様の匂いも感じられない。
私は声も出ないまま、ただレイノルド様を見上げることしかできなかった。
その手に触れることも。
おかえりなさいと迎えることも。
笑顔を浮かべることもできずに。
「シェリー……私が怖いか」
小さく首を振る。
レイノルド様が怖いんじゃない。
聞いたこともない轟音や衝撃、常日頃から命のやり取りをしているのだとわかる会話。
それは私の傍にはなかったものだ。
初めてのことに、恐ろしさと、自分が今どこにいるのかという現実を見た気がした。
森で行き倒れたときとはまた違う、命の危険を感じる怖さ。
前からあったことだと聞いてはいるけれど、私は何もわかっていなかったのだ。
いや、嘘だ。
絶対的な強さを持ち、恐ろしい咆哮をあげ敵を殲滅したレイノルド様が怖い。
知っていたはずなのに、まるで知らない人を目の前にしているかのようだった。
「無理せずともよい。今日はもう休め」
レイノルド様の手が静かに離れていく。
森から吹いてくる生温い風に頬を撫でられ初めて気が付いた。
レイノルド様の手はいつものように温かかったのだ。
私の頬が、冷えて、感覚を失っていただけ。
レイノルド様は何も変わっていない。
ただ現実に怯えた私が私の中に閉じこもってしまっただけなのだ。
今その背中に手を伸ばしても、遅いのに。




