第四話
何故だろう。
朝食と共に現れたレイノルド様はまたもや不機嫌に見えた。
いつもあまり表情が変わらないし、何がどう違うというわけではないのだけれど、なんとなく「面白くない」という顔に見える。
寝起きで機嫌が悪いのだろうか。
夜騒がせてしまったし、元々よく眠れないと言っていたし。
椅子に座ると、レイノルド様は眉を寄せた。
「怪我をしたか?」
「いえ、特には何も」
「かすかにだが、血の匂いがする」
言われて、ああ、と思い出してズボンの裾をまくり、膝を見た。
これだ。
「昨日この部屋で転んで、絨毯で擦ってしまっただけです。痛くもありませんし、問題ありません」
血だってほとんど出ていないし、怪我のうちにも入らない。
なのにレイノルド様は立ち上がり、絨毯に膝をついて私のふくらはぎを掴んで持ち上げ、確かめるようにじっと見た。
ちょっとくすぐったい。
そしてとても恥ずかしい。
「――スヴェンか?」
「え? いえ、自損事故です。スヴェンさんは関係ありません」
部屋に入った所に本を押し込んだままにしていたのが悪い。
それを忘れて何も考えずに部屋に入ったせいだし。
「ご覧の通り、かすり傷です! 大丈夫です!!」
だから早くその手を放してほしい。
自分でめくっておいてなんだけど、普段は人の目に触れることのない足をこんな間近で見られるのは耐え難い。
ふくらはぎに触れている手も、なんだか意識してしまっていたたまれない。
「青くなっている。強く打ったのではないか」
ああ、そういえば豚から人間の姿に変わった時に、スヴェンにべりっと剥がされてぽいっと捨てられべしゃっとなって床に体を打ったんだった。
一瞬のその間を敏感に感じ取ったのか、レイノルド様の眉間の皺が深まる。
「他も見せてみろ」
「いえ、そんなたいしたことはありませんので! お気になさらず」
そうぶんぶん振った手がぱしりと捕まる。
「ここも青くなっている」
手をついた時に打ったのだろう。青くなった掌底をレイノルド様の親指がそっと撫でる。
そうして手を掴んだまま袖をまくり、肘まで露わになるとさらに眉間の皺が増えた。
「ここもだ」
肘をすり、とレイノルド様の指が撫でる。
「ちょ――、ちょっと、あの」
痛いよりもくすぐったい。とってもくすぐったくて耐え難い。
「痛くはないのか?」
「忘れていたくらいです。心配してくださってありがとうございます」
早口にまくしたて、慌てて腕を引く。
まくられた袖を急いで直し、一息つく。
「そうか」
レイノルド様の眉間は寄せられたままだったけれど、それ以上は何も言わず、椅子に座った。
そうしてスプーンを差し出され、香味野菜のスープを夢中で半分ほど飲み終えた頃には、気づけばレイノルド様の眉間の皺はとれていた。
「この白くて丸いパン、前よりももっとふわっふわでおいしいですね。今日のスープが香味野菜を使っているから、バターは控えめにしたんでしょうか。甘さも抑えめで、スープによく合います」
「そうか。いつもと変わらぬように見えるが」
「レイノルド様も食べてみてください」
カゴに置かれていたもう一つのパンをちぎり、「はい」とレイノルド様に差し出すと、ぱくりと食べてくれた。
「なるほど。言われねば気づきもしなかっただろうが、たしかに違う」
言われてからはっとした。
何を当たり前のようにレイノルド様に「あーん」しているのか。
食べさせられることが当たり前になりすぎて、自然とやってしまった。
我に返るとものすごく恥ずかしい。
けれどレイノルド様がおいしそうにもぐもぐとパンを食べていて、いつの間にかいつもの顔に戻っていたから。
まあいいかと思うことにして、私はおいしい朝食を堪能した。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
朝食を終え、部屋に一人になってから、私は窓辺に吊るして干していた薬草を下ろした。
しっかりと乾いている。
これならもういいだろう。
私は小さな布の袋にそれらを詰めて、上を紐できゅっと縛った。
「よし」
気合いを入れるとそれを手に持ち、廊下へと出た。
レイノルド様は今どこにいるだろう。
でも今は仕事中かもしれない。食事の時か、偶然会えたら渡そう。
そう決めて資料室に向かって歩いて行くと、通りがかった部屋の中からスヴェンとティアーナの声が聞こえた。
レイノルド様もいるかもしれない。
どうしよう。忙しそうだったら機を改めることにして、声だけ掛けてみようか。
そう悩んでいると、ガチャリと扉が開いた。
「何の用です?」
横目で私の横顔辺りを睨んできたのはスヴェンだ。
相変わらず怒りを抑えるため正視しないらしい。
レイノルド様は人の気配がわかると言っていたから、私がここで立ち尽くしていることに気が付いたのかもしれない。
「あの。レイノルド様はお忙しいでしょうか」
おそるおそるスヴェンにたずねると、中から「入れ」とレイノルド様の声がした。
スヴェンは舌打ちをしそうに顔を歪め、くいっと顎で入室を促した。
「失礼します」
中に入ると、やはりティアーナもいた。また睨まれるかと思ったけれど、存外平静な顔をしている。
レイノルド様の執務室なのだろうか。
奥の机にレイノルド様が座り、手前の向かい合わせのソファの片側にティアーナが座っていた。
スヴェンも扉を閉めてすたすたとティアーナの向かいに座る。
「それで? つまらない用事だったら殺しますよ」
「スヴェン、下がれ。招き入れたのは私だ」
ギンギンに敵意を向けてくるスヴェンをレイノルド様が素早く制した。
珍しい。いつもならそれほどかまわずに流すのに。
やはりまだ不機嫌は継続しているのだろうか。
なるべく手短に用件を済まそうと、手にしていた物をレイノルド様の執務机の上に置いた。
「あの。サシェを作ったんです」
私が役に立てるのは薬学の知識くらいだけれど、レイノルド様に薬は必要そうではない。
だけどレイノルド様が温い私といるとよく眠れると言っていたから、普段は眠れないのかもしれないと思ったのだ。
「サシェ?」
「安眠にいいと言われる薬草を乾燥させて中に入れてあります。枕元に置くといい匂いがすると思いますので、よかったら使ってください」
「薬草か」
そう言ってレイノルド様が興味深げに手を伸ばすのを、スヴェンがさっと制した。
「お待ちください。毒かもしれません」
「スヴェン。昨夜忠告したはずだが?」
「忠告? とかく今は御身が一番大事ですので」
レイノルド様が珍しくぴりりとした声を上げるのに構わず、スヴェンはさっとサシェを取り上げて、匂いを嗅いだ。
「くさっっっ」
ああ。やっぱりか。
こういう匂いは好き嫌いがあるからどうかなと思ったけれど。
スヴェンは鼻を手で覆っていてもわかるくらいにものすごく顔を顰め、サシェを指の先と先でつまんで腕をぴんと伸ばしてできるだけ遠ざけようとしている。
「苦手ですか?」
「こんな、こんな臭いものを陛下の寝所になど置けるわけがないでしょう!?」
もはや涙目だ。
馬の嗅覚はとても優れていると何かの本で読んだ気がするから、スヴェンには刺激が強すぎるのかもしれない。
しょんぼりしながら持ち帰ろうと手を伸ばすと、その前にレイノルド様がひょいと取り上げた。
そうして顔に近づけ匂いを嗅ぐと「悪くはない」と頷く。
「これで眠れるのかどうかはよくわからんが。試してみないことには何とも言えん」
よかった。レイノルド様は優しいけれど、お世辞を言うような人でもない。
「袋も肌触りがよいものを選びました。別の香りがよろしければ中身を替えますので教えてください」
「いや。これがいい」
先ほどまでの不機嫌などどこへやら、口元を緩く笑ませ、サシェを目の前に摘んで掲げ、眺めている。
そんな顔を見られると思っていなかったから、嬉しい。
「あの、お二人のも作ったので、よろしければ。スヴェンさんのは香りを控えめにしてありますから」
ローテーブルに並べると、スヴェンは触れるのも嫌だというように見下ろした。
レイノルド様のための確認の時はあれほどためらいなく触れていたのに。
「香りはあまりしませんが、嗅ぐと気分がすっきりする効能がある香草を入れてあります。目の細かい布にしましたので、中身が粉々になっても漏れ出る心配はないと思います」
神経質そうだからそこはいくつか作って試してとても気を付けた。
ティアーナもスヴェンと同じように手を伸ばすことなく遠目に眺めている。
「ティアーナさんのは香りのいい花を詰めて、目の粗めの布で袋を作っていますので、ハンカチと一緒に仕舞っておくとよい香りが移ってくれると思います」
私の手を離れたら、あとはそれをどうするかは二人次第だ。
レイノルド様がじっと二人を見ていたからか、形だけは受け取ってくれたけれど、使ってくれるかはわからないし、捨てられてしまっても仕方がない。
勝手に作って押し付けただけで役に立とうというほうが傲慢だ。
レイノルド様のを作る時にせっかくだからと作ったけれど、二人の役に立つには仕事を手伝わせてもらうしかないと思っている。
一度申し出たのだけれど、信用できない人間に任せられる仕事などないと突っぱねられてそのままだ。
だからまずは信用を積み重ねて、掃除くらいはさせてもらえるようになりたい。
とにかく用は済んだ。
仕事中だったのだろうし、邪魔になってはいけない。早く退散しよう。
「スヴェンさんもティアーナさんも、もし好みの香りや苦手なものがあれば教えてください。中身を調整しますので。それでは、失礼します」
言うだけ言ってささっと退室した。
レイノルド様が「これがいい」と言ってくれたのが今になって胸に蘇り、嬉しくなった。
足取りが軽い。
使ってくれるといいなと思いながら、資料室へと向かった。
翌日。
相も変わらずご飯を食べさせに来てくれたレイノルド様は、「まあまあ眠れた」と言ってくれた。
早速枕元に置いて試してくれたことが嬉しくて、「よかった」と笑うと、レイノルド様はなんだか物足りなそうに私を見た。
「一度、より良いものを知ってしまうとな」
私が何か返すよりも早くスプーンを口に突っ込まれ、私はスープのおいしさに悶絶し、食べるのに夢中になってしまった。




