第二話
失敗した。
今日の昼間は資料探しができなかったからと、欲をかいて資料室に長居してしまったせいで、部屋まであと少しというところで豚の姿に変わってしまった。
もっと遅い時間に変わる時もあるのに、安定しない。
何時に変わるとわかっていたらこういう失敗も減るのに。
文句を言っても仕方がない。
どさどさと脱げた服の上に落ちてしまった本を鼻でぐいぐいと部屋に押し込み、ぜいぜいと息を吐く。
疲れる。
二足歩行で手が使えるのは本当に便利だなと改めて思う。
これだけのことでうっすらと汗をかいてしまい、どこからか風を感じて冷やりとした。
どこかの窓が開いている?
その風の元を辿るように歩き出すと、バルコニーの窓が開き、カーテンがひらひらと揺れているのが見えた。
せめて夜風に吹かれてさっぱりしてから部屋に戻ろう。
とことこと歩き、風に吹かれるカーテンをくぐると、人影があった。
しまった。よく考えれば窓が開いているのだから先客がいるだろうに。
邪魔してしまった。
いやそれどころではない。見つかったら怒られるか追い出されるか、とにかくまずい。
そっと回れ右をしようとしたけれどはっと気づいたように人影が振り返った。
「豚……?」
スヴェンだ。
いつものかっちりとした服ではなくシャツ姿なせいか、どこか疲れて見えた。
「誰ですか、生の豚を搬入したのは。まったく、捌いてから卸さねば騒いでうるさいでしょうに」
食べられる。
このままでは食糧庫に放り込まれる。
逃げなければと後退りしたものの、スヴェンは文句を言うだけで捕まえようとはしてこない。
スヴェンは「まあいいでしょう」と手すりにもたれて腕を組んだ。
「あなたも明日までの命です。最後の夜風を浴びる権利くらいは差し上げましょう」
命拾いした!
スヴェンって私以外には優しいのかもしれない。
私に怒りを向けるのも当然だけれど。
「どうせそこにいるのなら聞いてください。どうにも頭が整理できないのです」
見逃してもらったお礼だ。いくらでも聞こう。
私がこっくりと頷くと、まさか話が通じているとは思っていないのか、スヴェンは小さく笑い、ため息を吐きながら話し出した。
「私はこの城に来てからずっとレイノルド様のために働いてきました。この国で、いえ、この世の生命の中で最も強いレイノルド様に仕えることこそが私の幸せだからです。そのお役に立ちたい。そして強いその姿をいつまでも見ていたい。その思いだけでした」
強さが最も尊ばれるグランゼイルでは、みんながそう思うものなのかもしれない。
きっとティアーナも同じようなことを思い、仕えているのだろう。
だからこそ弱いくせに国を滅ぼすかもしれないという私が邪魔で仕方ないのだ。
「ですが、あの小僧が――いえ、女でしたか。アレが来てからというもの、胸がざわついて苛々として心が休まりません。誰よりも強いレイノルド様にとってはこの世の些事は目にも入らぬ塵であったはずなのに。時折この国を潰さんと仕掛けてくる者どもだけがその目を輝かせる対象であったというのに。あのような弱きものを気にかけることなど今までになかったのに――」
小娘と呼ぶのすら癪らしい。
アレと呼ぶほど私を毛嫌いしていても仕方ないと思っていたけれど、その根本はこれまでのレイノルド様だったらありえないのに、という自分の中とのズレがあり受け入れがたいということなのだろうか。
単にこの国やレイノルド様を害する可能性があるから警戒しているのだと思っていたけれど。
「今日もレイノルド様はティアーナの過ぎた行為を咎めました。アレを気にかけているのはわかります。わかるからこそ憎いのです。長きにわたりお仕えしている我々よりもアレをとるのですかと聞いてしまいたくなりました。でもそれは腸を切り裂かれたとしてもレイノルド様に向かって口にはしません。レイノルド様にとっては私やティアーナなど代わりの利くただの小間使いです。いつの間にか私は思いあがっていたのだと気づかされました」
そんなことはないと思う。
そもそもレイノルド様は私に制約がかけられていることを知っていてそのままにしていた。
それはティアーナの思いがわかっていたからだ。
国のためにしていることだとわかっているとレイノルド様だって言っていた。
ただ、隠せると思うなと言いたかっただけだと思うのに。
二人よりも私を大切にしているのではない。
それぞれ尊重してくれているのだと思う。
それを伝えたいのに、今の私には「グッガ……」と鳴くことしかできない。
もどかしい。
スヴェンは月の浮かぶ夜空を見上げると、「ああ、つまらないことを口にしてしまいました」と目を閉じた。
「わかっているけれどわかりたくない。そんなことばかりで、心が乱され、このまま明日を迎えてレイノルド様の前に立つ自信がありませんでした。だから頭を冷やそうと外に出てみましたが、出口がありませんね」
一人で考えてもぐるぐると同じことばかりを考えてしまうのはわかる。
私も屋敷にいるときに、キャロルや父の言葉や態度をいつまでもあれこれと考えてしまっていた。
今日のように対話できたらそこから抜け出せたのに。
滅多に言葉を交わすこともなかったから、自分の中だけでいつまでも変わらない問答を繰り返すしかなかったのだ。
レイノルド様と話をしてほしい。
けれど主従関係ではそれも難しいのだろう。
やり切れない思いでただただスヴェンを見上げていると、ややして息を吐き出しテラスから体を離した。
「さて、このまま無為に時間を過ごすのは愚かです。どうせ眠れないのなら仕事でも片付けるとしましょう」
晴れない思いに無理矢理区切りをつけるように、スヴェンは歩き出した。
私もそろそろ寝よう。
進む方向が同じでとっとこと後ろについて行くとぴたりとその足が止まった。
「これはどこに仕舞うべきでしょうか。食糧庫に入れたら食い漁られますね。かといって豚舎もありませんし。適当な部屋に押し込めておいて荒らされても困る……だとしたら私の部屋に連れて行くしかありませんね」
ええ。
それは困る。
まだ仕事するって言ってたし、スヴェンが起きている間に元の姿に戻ってしまったら困る。
豚に変わる時もそうだけれど、元の姿に戻る時間も安定しないのだ。
どうしよう。
ここは走って逃げよう。
鍛えているスヴェンから逃げきれるとも思えないけれど、隙をつけばもしかしたら。
そう考えて一目散に走り出すと、「こら。城を走るのではありません」とすぐに手が伸びてくる。
捕まったら終わりだ。
もっと速く動いてくれ、私の豚足!
そう力を込めた時だった。
あえなく私はひょいっと抱え上げられ、あああぁぁぁと心の中で悲鳴を上げた。
「ぷぎゃぁぁ」
悲鳴に似た声も出た。
けれどそれと同時に真上から声が聞こえた。
「これはおまえのものではない」
あれ。
そっと胸に抱えられ、スヴェンではないと気づく。
この嗅ぎ慣れた匂いは。
「レイノルド様! 夜に騒がせてしまい申し訳ありません。それは私が片付けておきますので」
スヴェンが私に向かって手を伸ばすのを躱すように身をよじると、落ちないようにかレイノルド様により強く抱き込まれる。
「これに触れるな」
「ですがそのようなどこから連れて来られたかわからぬ豚など」
「下がれ」
淡々としていながら有無を言わさぬレイノルド様に、スヴェンは戸惑いながらも「はっ!」と礼を執り引き下がった。
レイノルド様は私を胸に抱えたまま部屋に入ると、そっと床に下ろしてくれた。
そのまますたすたとベッドに上がっていってしまう。
私はどうしたものか、と思いながらもしっかり扉が閉まらぬよう隙間を開けると、そのまま立ち尽くす。
何故動けないでいるのか。
それは今、柱の陰からこちらを憎々しげに睨むティアーナの姿が見えたからである。
長い耳がこちらを警戒するようにひくひくと動いている。
レイノルド様はいつまでも動かない私にどこか不満そうな目を向けた。
「スヴェンがいいのか」
すぐさまぷるぷるぷると首を横に振ると、レイノルド様は片腕で頬杖をついたまま、布団をめくった。
ここに来いということか。
レイノルド様がなんだか不機嫌そうな気がしてためらったけれど、結局私はその懐に潜り込んだ。
夜風で体が冷えていたのか、温かい。
ぱさりと布団をかけられ、レイノルド様の腕の中でぬくぬくと丸まる。
レイノルド様はそのまま何も言わず、静かな寝息を立て始めた。
本当にいつも眠りに落ちるのが早い。
しかし今日の私はそのまま一緒に眠ってしまうわけにはいかない。
ティアーナが怖い。
私がレイノルド様の傍にいるのが許せないから豚の姿にしたのに、その豚の私がレイノルド様の寝室に入っていったのだから、今頃新たな魔法を考えているかもしれない。
夕方レイノルド様に忠告された時も全然堪えている様子はなかったし。
私はレイノルド様が深い眠りに落ちるのを待って、そっとベッドから抜け出した。
対面するのは怖いけれど、どうせ明日はやってくるのだ。
自分から出て行ったほうがまだマシだ。たぶん。きっと。




