第六話
「ご相談があります」
「――なんだ?」
今日もおいしいおいしい夕飯を一通り食べさせられた後、私は意を決して口を開いた。
もう食べ終わっているからスプーンを突っ込まれることはない。
私は学習している。
「レジール国に。行きたいと思っています」
「殺されるかもしれないのにか?」
「はい――。ですが私の顔など知っている者はごく一部ですので、ノーリング伯爵家の領地や王都にさえ近づかなければ私が『滅びの魔女』だとわかる人はいないと思います」
「それで、何をしに行く?」
「お祭りに行きたいのです。昔あった出来事は、言い伝えとして今に伝わるだけでなく、お祭りにその形を残していることがあります。昔起きた水害や飢饉を治めるために祈りを捧げたのが元になっていたり、民に慕われた王族の誕生を祝ったり。恨みをもってなくなったその魂を鎮めるためのお祭り、というのもあります」
「件の王妃を祭る行事があるのか」
「はい。とってもたくさん」
それだけエラ王妃の死は多くの人々に何かを残したということなのだろう。
言い伝えとして今にまで根強く残っているように。
「そうか。片っ端から行くつもりか?」
「いえ。もう一つ目的がありまして。叔父が大の物語好きで、自分で書く側になりたかったと言っているくらいなのですが、よくセンテリース領主の話をしていたんです。その領主は代々物語好きでたくさん収集しているそうで。いつか見せてもらいたいとよく話していたので、もしかしたらエラ王妃の物語がどう変わっていったか追えるのではないかと思いまして。そのセンテリース領でもカムシカ村というところでお祭りがあるそうなんです」
調べていてカムシカ村の名前を見た時に、最近どこかで聞いたような気がしたけれど、叔父の話の中で出てきたのかもしれない。
カムシカ村はレジール国とグランゼイル国の国境いにある。
グランゼイル国の簡単な地図はスヴェンに見せてもらったのだけれど、歩いて三日ほどの距離のようだった。
「それはいつだ?」
「レジール国でいうと三の月二十日です。エラ王妃の誕生日なのだそうです。グランゼイルはドゥーチェス国と暦が同じなのですよね? ということは五日後になると思います」
鎮魂祭なのに誕生日にお祭りをするのはカムシカ村だけだった。
それも気になっている。
「五日後か。それはちょうどいいな」
「はい! なので明日から早速行ってまいります」
ノーリング伯爵家の領地からも王都からも遠いから、まず心配はいらないだろう。
グランゼイルとの国境にあるから、それも都合がいい。
レジール国に入るのはかなり緊張するけれど、じっとしているより何か進むほうがいい。
そう覚悟を決めて告げた私に、レイノルド様は首を傾げた。
「なぜだ? 祭りは五日後だろう」
「歩いて三日はかかるかと思いますし、予定外のこともあるかもしれませんので、余裕をもって明日のうちに出発しようと」
「私が乗せていく。だから当日でいい」
「レイノルド様が? あの、いえ、私一人で」
「私も興味がある。人間の祭りも見たい」
そう言われては断ることもできない。
何より、一人では心細かったのもたしかだ。
これまで一人でなんでもやってきたのに。本当に弱くなってしまった。
やはり自分の捨てられない『滅びの魔女』という肩書きと、町で捕らえられ集団に囲まれた時の恐怖は確実に私の中の何かを変えた。
私はこれまで、あれほど多くの視線を向けられたことはなかったのだ。
身分を明かして外を歩くことなどなかったから。
戸惑い、悪意、興味。
様々な感情が浮かぶ顔が居並び、私は圧倒されてしまった。
どんなに強く生きようとしても逃れられないものがある。そう肌身に染みてしまった。
あの時の思いが体の奥底に揺蕩い続けている。
だからレジール国に入るのが怖い。
レイノルド様が一緒にいてくれることは心強いけれど、それでも不安がないわけじゃない。
何より、巻き込むようなことになったら。
これ以上迷惑なんてかけたくないのに。
レイノルド様が去った後もずっとそんなことを考えていた。
夜になり、豚に姿が変わっても眠れなかった。
眠れない時は眠れない。
諦めてベッドから抜け出し、水を飲もうと思って失敗に気が付いた。
ぼんやりしていて深皿に水を注いでおくのを忘れていた。
ため息を吐いたら、「ぶぅ」と音が鳴った。
こんな鳴き声も出るのか。
少し歩けば疲れて自然と眠気が訪れるかもしれない。
扉は完全に締めない癖がついていたおかげで隙間から廊下に出ることができた。
「ぶぅ……」
歩いていると自然とため息が漏れる。
このため息はちょっと恥ずかしいけれど、廊下に人気はない。
どうせ誰に見られることもないだろうと構わずぽてぽて歩いていると、「どうした?」と声をかけられ顔を上げた。
気づけば目の前にレイノルド様が立っていて、私を見下ろしている。
レイノルド様の顔を見たら、なんだか泣きそうになってしまって、慌てて地面に目を落とした。
「グッガッ……」
いえ、ちょっと、眠れなくて……と言ったつもり。
伝わるとは思ってないけど。
「また水か。ついてくるといい」
今日は違うんだけど。いや、違わないか。
一人には慣れているはずなのに。一人ではいたくなくて、レイノルド様の言葉に甘えて後ろをとことことついて歩く。
レイノルド様が開けてくれた扉が完全に閉まらないようにお尻で止めてから、部屋にお邪魔した。
レイノルド様は黙って深皿に水を注ぎ、私の足もとに置いてくれた。
このお皿、私のために部屋に置いておいてくれたんだろうか。
それともそのまま置き忘れていただけなのか。
そっと水を飲み、顔を上げるとすぐにタオルが待ち構えていて、ごしごしと拭いてくれた。
今日も至れり尽くせりで、申し訳ないのに心地いいと思ってしまっている自分がいる。
どうしよう。完全に甘やかされ慣れてしまった。
そうしてまた同じようにタオルを置くと、レイノルド様はさっさとベッドに横になってしまった。
今日は扉が開いているから自分で出て行くことができる。
でもまだ一人になりたくなくて、立ち尽くしていると、「眠れないのか?」とベッドから声を掛けられた。
「ンガッ」
実はそうなんです。と鳴くと、通じたのかレイノルド様は布団をめくり、私が丸く収まれるだけの空間を開けた。
――うう。
ティアーナに怒られるのはわかっている。
豚から人間に戻ってしまったら危機的状況に陥ることもわかっている。
でもそれでも、あのぬくもりを知ってしまったから。
抗えない。
私は最後の抵抗を試みるようにゆっくりぽてっぽてっと歩き、じっと布団を開けて待つレイノルド様へと近寄った。
椅子を踏み台にしてベッドに足をかけると、相変わらずのふかふかの布団に足がとられ、ころりと転がってレイノルド様の胸へと収まった。
レイノルド様がふっと笑った吐息に慌てて顔をあげると、慈しむように私を見下ろし「ゆっくりと眠れ」と私の目を大きな手で覆った。
ああ、この安心感。
この手が好きだ。
おじい様みたいな大きな手。
もう触れる機会はないかと思っていた。
スヴェンがどうのとかティアーナが殺しに来るとか思ってはいても、私はレイノルド様の腕の中で眠るのがたまらなく好きだ。
レイノルド様が触れてくれるのが何よりも心地いい。
あんなに眠れなかったのに、私はすぐさま深い眠りに落ちていった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「さあ。背に乗れ」
五日後。
城の前にある広場のようなところでレイノルド様は竜の姿に変えた。
口からは鋭い牙が覗き、大きな翼が辺り一面に黒い影を作っている。
初めて見る、大きな大きなその姿に、私は圧倒されてしまった。
黒い鱗は日の光を浴びて輝いていて、見ただけでその硬質さがわかる。
長い尾が私を誘うように静かに揺れているのを見て、私は尻込みした。
乗せていく、って馬車とかじゃないんだ。
レイノルド様に乗せてくれるってことだったんだ。
だとして。
――どうやって乗れば?
黒く光る鱗は鋭利そうで。触れたら肌がずたずたになるのでは。
躊躇っていると、「仕方ありませんね」とスヴェンの大きなため息が背後から聞こえた。
すたすたと歩いてくる足音が聞こえて、私をレイノルド様の背に乗せてくれるのだろうと、ほっとして振り返る。
しかしスヴェンが嫌そうな顔をしながらも私に手を伸ばした瞬間、背中が何かにぐいっと吊られ、足もとが浮いていた。
「ええぇ?」
ぽいっと放られるような浮遊感があり、レイノルド様のふわふわのたてがみに着地する。
レイノルド様が私の服を咥えて乗せてくれたらしい。
「ありがとうございます」
スヴェンは空を掴んだ両手にぽかんとしていたけれど、やれやれというように肩を下げ、「いってらっしゃいませ」とレイノルド様に向けて慇懃な礼をした。
その少し後ろでティアーナも同じように頭を下げている。
「よし。行くぞ」
「はい! よろしくお願いします」
帰ってきたらあれもちょうどよく出来上がっている頃だろう。
レイノルド様は喜んでくれるだろうか。
スヴェンとティアーナは……まあ、捨てられてしまうかもしれないけれど、それでもいい。
帰ってくるのが楽しみだ。
そう思えたのは祖父母が生きていた時以来で。
邪魔者で余所者なのに、今までで一番居心地がいい場所。
その白く大きな城を眼下に見ながら、私はレイノルド様のたてがみに必死に掴まった。