第三話
「魔法で豚にされたのか。こんなことをするとしたらティアーナくらいだが」
すごい。何も言ってないのに次々言い当てている。
思わずそう言いかけた私の喉から出てきたのは「ガッ」という音だった。
ガッ……?
子豚ってそんな鳴き声なの?
祖母に読んでもらった絵本では「オインッ」と書いてあったけれど。
本物を聞いたことがないからこれが普通なのか変なのかもわからない。
こんな変な鳴き方をする豚なんぞ捨てるべきですとかスヴェンが言いそう。
どこで聞かれているかわからないし、不安で迂闊に喋れない。
――いや豚だから喋れはしないんだけど。
「元に戻すか?」
聞かれて一瞬考えたけれど、ぶんぶんと首を振った。
たぶん今元に戻してもらっても、ティアーナにバレたらまた変えられるだけな気がする。
もっと不便な生き物になったら困る。
「難儀だな」
はいといいえで意思表示ができるだけマシだ。
それで答えられる質問が来ないとどうにもできないけれど。
つまりは水が欲しいですとレイノルド様に頼むこともできないわけで。
厨房か、外の井戸を自分で探すしかない。
そう思い、ぺこりと頭を下げ通り過ぎようとすると、「もしや何か探しているのか?」と声をかけられた。
思わずぶんぶんと頭を縦に振ってしまい、四頭身の体はその勢いに耐え切れずふらつき、ころんと倒れる。
恥ずかしい。
ころころした体でころころ転がる私をレイノルド様がじっと見下ろしている。
「その必死さ。――水か?」
「!」
通じた!
何の奇跡かと興奮してまた頭をぶんぶんしそうになったのをなんとか抑えて、一度だけこくりと頷く。
「やはりな。どんな生き物も生きるのには水が最も重要だと最近学んだところだ」
そういえばレイノルド様にはいつも水ばかりお願いしている。
また誰にでもできることを竜王にお願いしている自分に気が付き、慌てて「やっぱりいいです!」と言おうとしたら、「グッガ! グガ!」とどこから出たのかわからないような音が出た。
オインッて鳴くの難しい。
「ついてくるといい」
レイノルド様は焦る私に気づかず、すたすたと歩き出した。
この好意を無下にすることもできない。
他に意思が通じそうな人もいないし、ここはレイノルド様に甘えよう。
ずっと甘えっぱなしだけれど。
しかしレイノルド様は足が長い。
一歩歩く間に私は何歩歩かなければならないのだろう。
とにかく追い付くには小走りするしかない。
そんな私に気が付いたのか、レイノルド様は数歩歩いてはくるりと振り返り、私を待ってくれた。
――優しいんだよなあ。
全然怖くなんかない。
この城で一番面倒見がよくて一番優しいのではないだろうか。
その上一番強い。
かっこよすぎないだろうか。
スヴェンやティアーナが心酔するのもわかるし、私も一派に加えてほしいけれど、受け入れられる気はしない。
レイノルド様はそうしてゆっくりと歩き、少し先の部屋の前で足を止めた。
調理場にでも連れて行ってくれるのかと思ったけれど、違うようだ。
それほど距離はなかったはずだけれど、この小さな体で、しかも病み上がりにはきつかった。
扉が開けられたそこは私に与えられていた客間とは雰囲気がまた違う。
「入れ」
促されてとことこと足を踏み入れると、ほんのりといい匂いがした。
これは何の匂いだろう。
嗅いだことがあるような気がする。
ほんの少しだけ懐かしいような。
いや、最近嗅いだような。
客間と最も大きく違うのはその色調だ。
絨毯は紺と白で模様が織られていて、カーテンは真っ黒。
客間は全体的に赤でまとめられていて、豪華にもてなす部屋という感じだったけれど。
この部屋は派手ではないけれど質がいいのがよくわかる。
何よりどこか落ち着く。
ふと首を巡らし、大きな天蓋付きのベッドが置かれていることに気が付いた。
もしかしてここは、レイノルド様の寝室?
私がそうしてきょろきょろと部屋を見回している間に、レイノルド様は水差しからガラスのコップにとくとくと水を注ぎ、私の足もとに置いてくれた。
「ンンゴッ」
ありがとうございます、と言ったつもり。
喉の渇きを思い出し、感謝しながらコップを持とうとして、目のまえに現れた蹄を見つめる。
持てない。
悲しくなりながらコップに顔を近づけ、ぺろりと舌を――
届かない。
水面まで舌が伸びない。
もっとコップに顔を近づけようとするけれど、鼻が当たって倒れそうになり冷やっとした。
危ない危ない。粗相をするところだった。
しかしこれでは水が飲めない。
自由にならない体に悲しくなり、思わずレイノルド様を見上げると、考えるように顎に手を当てていた。
「平たい皿が必要か」
そう言ってすたすたと部屋を出て行くと、しばらくして何枚かの皿を手に戻ってきた。
この人、国王なのに何でも自分でする。
人を呼びつけて誰かに頼むとかしない。
だからなのか、近寄りがたいという感じがない。
それでついつい心身の距離感がおかしくなってしまうのだけれど。
レイノルド様は皿をテーブルに置き、水を注いでから再び私の足もとに置いてくれた。
スープ皿だろうか。
これならいけるだろう。
「ンンゴッ!」
ぺこりと頭を下げ、今度こそとさらに舌を伸ばし――
ええ?
あれえ?
こうやって飲むんじゃないの?
皿の上の水にぺろぺろしたら飲めると思ったのに。
角度が悪いのだろうか。
顔を傾けて横から舌を垂らすようにしてみたけれど、うまく水を舐められない。
おまけにバランスを崩してまたころりと転がってしまった。
皿の端にごちんと頭がぶつかり、ひっくり返った皿が顔にぱたんと倒れる。
もちろん水は顔にばしゃんだ。
冷たい。
泣きたい。
「ンゴーーッ」
涙は出ないが鳴くことはできた。
だが気分は晴れない。
犬が水を飲んでるところしか見たことがないからわからない。
豚はどうやって水を飲むのか。
「これも飲めんのか」
せめて自分で片付けようと鼻でぐいぐいと皿を押すと、ふわふわの絨毯の上をするすると横滑りしていく。
違う。
そんなことをしていると、レイノルド様がタオルを持って来てわしわしと濡れた顔を拭いてくれた。
「濡れていると風邪を引くらしいからな」
すごい。学習している。
感心している間に、レイノルド様が新しい皿を置いてくれた。
「これはどうだ」
先ほどよりしっかりとした深さのある、ボールのような皿だ。
これは顔を突っ込んで飲むしかない。
前面から真っすぐにいこうとしたけれど、せっかく拭いてくれたのに申し訳ないと動きを止めた。
せめてなるべく濡れないように、下からこう、すくうような感じで。
そうして下唇で水をすくうようにして皿に顔を近づけると、どうやらこれが正解だったらしい。
本能なのか、舌がうまく動いて水をどんどん口の中へと運んでくれる。
ああ、おいしい!
やっと飲めた感慨と興奮で無心に水をごくごく飲んでいると、不意に眼前に美しい顔があることに気が付いてぴやっと体が跳ねた。
「愛いな」
レイノルド様はしゃがんで抱えた膝の上に顎をのせるようにして、私が水を飲む様子をじっと眺めている。
そんなに見られていたら飲めないです。と言いたいが、「ンッゴ」としか鳴らない。
「そうか。うまいか」
違う。
けどまあいいか。
レイノルド様がほんのりと口元を笑ませているから。
この見守るような顔が好きだ。
祖父を思い出すから。
あまり言葉であれこれ言ってくれたわけではないけれど、私が頑張ると、頭を撫でて、こうして微笑んでくれた。
そんな愛情のかけ方が祖父らしくて、いつもかわいい、かわいいと褒めてくれた祖母と、いつでも私を助けてくれたマリアと三人で過ごしていた日々が幸せだった。
またじんわりと涙が滲みそうになるのをごまかすように、私はもう一口だけ水を飲んだ。
もう十分だとわかるように顔を上げると、レイノルド様はまた顔をわしわし拭いてくれた。
「用は済んだな」
そう言ってレイノルド様はタオルをテーブルに置くと、大きなベッドに腰を下ろし、布団に潜り込んだ。
私はその眠りを邪魔しないようにと、鳴かずにぺこりと頭を下げ、とことこと部屋の扉まで静かに歩いた。
そして気が付いた。
そうだよ。扉が開けられないんだよ。
しっかりと閉まった扉に隙間はない。
えええ。どうしよう。
困って扉の前をうろうろするけれど、レイノルド様は気づいてくれない。
もう寝ただろうか。
寝ていたら起こすのは忍びない。
迷いつつも静かにベッドに近づくけれど、寝ているかどうかわからない。
ベッドの傍に置いてあった椅子に前足をかけてなんとかよじ登り、そこからベッドに着地する。
ふかふか沈むベッドの上をもっすんもっすんと一歩一歩歩いていくと、レイノルド様の顔がこちらを向いた。
「なんだ」
「ンガッ! ンゴー!」
扉です。
扉を開けてください!
「ちょうどいい。ぬくいのが欲しかったところだ」
しかしただの鳴き声でしかない叫びは通じることはなく、あっという間に私はその長い腕に巻かれて胸の中に納まってしまった。
――ああ、この匂い。レイノルド様の匂いだ。
温かい。
毎晩のようにレイノルド様の腕の中で眠っていたからだろうか。
瞼が自然と重くなっていく。
いやいやこのまま眠ってしまうわけにはいかない。
またスヴェンとティアーナに怒られる。
でもこのぬくもりと眠気には抗いがたい。
今日だけ。
今日だけです。
そう心の中から鬼の形相で責め立ててくるスヴェンとティアーナに弁解しながら、私は眠りに落ちた。




