第十二話
スヴェンはキッと顔を上げ、私を睨み上げた。
思わずびくりとして足を一歩退いてしまったけれど、スヴェンは「はっ!」と短く声を上げると、一心不乱に腕を上下させ始めた。
本当に腕立て伏せだ。
フン、フン、フン、フンッ! という呼気が続く中、私はずっと睨まれている。
怖い。
その私を睨んだままのスヴェンの口から、スヴェンのものとは思われぬ高い声や低い声が漏れ始めた。
「今度、『滅びの魔女』の舞台があるらしいわ。見に行かない?」
「『滅びの魔女』が題材の舞台なんて見飽きたよ。他のにしよう」
「『こうして滅びの魔女は王子の剣に貫かれ、国に平和が戻ったのでした。めでたし、めでたし』」
「『滅びの魔女』だなんて古い言い伝えを本にしたっていまさら売れないだろう?」
これが人間のご先祖様の記憶なのだろう。
その人が発した声なのか、聞いた声なのか、どちらだろう。
会話のように聞こえるものがあるということは、両方なのかもしれない。
しばらく似たような会話が流れていくと、スヴェンは、くっ、と力を込めるようにして瞼を閉じた。
「エラ王妃は亡くなるし、戦争になるし、この国は本当に踏んだり蹴ったりだわ」
めぼしい記憶が探し出せなかったのか、『エラ王妃』を鍵に変えたようだ。
それが功を奏したのか、エラ王妃が亡くなった時代にだいぶ近づいたような気がする。
しかし、その頃にこの国で戦争があったとは知らなかった。
何百年も前はこの大陸のあちこちでそういったことがあったとは習ったけれど。
屋敷に戻ってからは薬学ばかり勉強していたから、私が知らないだけかもしれない。
「エラ王妃が生きていらしたら、もう少し状況は違ったかもしれないのに」
「エラ王妃が死んでしまったからこんな戦になったんだ」
戦争の原因がエラ王妃だった?
他国から嫁いできたというから、その国との争いが起きたのだろうか。
しばらく似たような話が続いていくけれど、肝心なことはわからない。
私にわかりやすいように都合よくすべてを説明するような会話をしているわけではないのだから仕方がない。
しかもエラ王妃が生きていたのは三百年も前のこと。
獣人であるスヴェンが現在何歳なのかわからないけれど、代々二十歳で子どもが生まれたとして単純計算すれば、十五代くらいのご先祖様がいることになる。
スヴェンの両親が二人、それぞれの両親が二人ずつで四人、その上が八人……と倍になっていくのだから、十五代ともなれば、一万を超える数のご先祖様がその当時に生きていたことのか。
スヴェンの額からは汗が滴り落ちていたけれど、筋肉疲労によるものというよりも、精神疲労のように見えた。
累計すれば一万どころではない数の人の人生の記憶を探っているのだ。
スヴェンは腕立て伏せを休むことなく、口からも途切れることなく言葉が流れ続けた。
「エラ王妃の演説は素晴らしいものだったわね。きっと後世にも語り継がれることでしょう」
きた。これだ。
言い伝えにあるエラ王妃の言葉が聞けるかもしれない。
息を呑み、余計な声を漏らさないよう手で口を覆う。
「エラ王妃の演説は血が通っていたわ。これまで誤解していたかもしれない」
「エラ王妃の仰る通りだ。私たちは子どもたちに禍根を残してはならない」
「他国から来た者など信用ならないと思っていたが。エラ王妃の言葉は我々も真剣に考えねばなるまい」
「エラ王妃の言う通り、過ちを繰り返してはならない!」
「この国の発展のためにも、エラ王妃の言葉を広く伝えていかなければ」
エラ王妃の演説。
そこできっと言い伝えの元になるような話があったのだろう。
けれど、随分と印象が違う。
とても国を滅ぼすというような恨み言が紡がれたようには思えない。
やはり時代と共に変わって伝えられてしまったのだろう。
その核心となる部分、エラ王妃の演説を聞けたらいいのだけれど、額に脂汗を浮かべるスヴェンが、壊れてしまいそうに見えて不安になる。
「スヴェン。知りたいことはわかった。もういい」
その声に、スヴェンが頽れるように膝と肘を床につき、肩で荒い息を繰り返す。
「陛下の、御心の、ままに――」
体を起こし、ぐっと力を込めるように膝に手をつき立ち上がると、顎から汗を滴らせながら先ほどと同じように姿勢よく歩き、レイノルド様の傍へと戻った。
その顔は何もなかった、とでもいうようで。
レイノルド様の側近はこんなにもすごいのだと見せつけられたような気がする。
そしてスヴェンは私を睨むことも忘れなかった。
「先ほどルークから聞いた話とは随分違う。その王妃が国を恨み死んでいったとはとても思えん」
きっと、憎しみや恨みなど捨てるよう説く演説だったのだと思う。
それが真逆に伝わってしまうなんて、皮肉だ。
「これでわかったな。言い伝えと事実は異なるのだ。当然『滅びの魔女』など生まれようはずもない」
「ですが、まだ――」
納得できないというようなスヴェンの声と、私が「あの――」と声をあげたのがかぶってしまった。
「なんだ?」
レイノルド様に促され、スヴェンも黙って私を見ているので、先に言わせてもらった。
「レジール国で戦争があったというような話がありましたが、そのことについて何かご存じではありませんか?」
「さあな。随分前はこの大陸のそこかしこで争っていたから、いちいちどの国がどうのと細かいことまでは」
スヴェンとティアーナを見たけれど、二人も知らないようだ。
「では、この国に昔の資料や本などは残っていますか?」
「あるにはあるが?」
その答えにほっとして、続けた。
「でしたら、差し支えないものだけで構いませんので、見せていただけないでしょうか。エラ王妃の演説の言葉が残っているかもしれません。それがわからないことには、言い伝えが間違っているのかどうか確証が得られませんので」
「他国で一般的に出回っている本を集めた部屋がある。そこにあるものならどれを見ても問題ない」
まさにそれだ。
何も機密情報を知りたいわけじゃない。
史実や当時のことがわかるものが見られればいい。
「それを調べる間だけ、この城に置かせてもらえないでしょうか。エラ王妃が戦争の原因になったと聞こえるような会話がありましたので、そちらが言い伝えの元になっているかもしれません。演説の言葉とはどのようなものだったのか、どのようにしてレジール国の戦争が起きたのか。それを知ることで何故あのような言い伝えになったのかわかるかもしれません」
「好きにすればいい」
「ありがとうございます」
これにはスヴェンも文句を差し挟まなかったからほっとした。
確証が持てるまで調べることはスヴェンも同意なのだと思う。
あまり考えたくはないけれど、『滅びの魔女』の影響がグランゼイル国に及ぶ可能性もなくはない。
レジール国を恨んで死んだというのが今に伝わる言い伝えだから滅ぶのはレジール国だと思っていたけれど、どこがどう変わっていったのかわからない以上、どんな事実が隠れているかはわからない。
きっとスヴェンもその可能性がないとわかるまで私を完全野放しにはしないはずだ。
理由はどうあれ、スヴェンやティアーナの反対を押して無理矢理城に居座ることにならなくてよかった。
二人が私を生かしておいてくれたのは確かで、感謝している。
レイノルド様に手を出すなと言われていたって、私をこっそり殺すことなんて簡単で、衰弱して死んだということにもできたはずだから。
これでやっと前に進める。
できれば、レジール国に証拠を持って帰りたい気持ちもある。
人々が不安に駆られながら過ごさなくてもよくなるから。
だけど、わざわざ危険だとわかっていてレジール国に戻りたくはない。
せめて祖父母と共に私を支えてくれた侍女のマリアにだけは、手紙が送れたらいいのだけど。
しかしまずはティアーナが私を睨んでいるのがとても気になる。
けれどここで異を唱えることはレイノルド様に逆らうということにもなると、声はあげずにいるのだろう。
『後で覚えてなさいよ』
レイノルド様に背を向けたティアーナが私に向かってそう口を動かすのが見えた。
早く資料を探そう。